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2008年04月 アーカイブ


2008年04月30日

五月三日は営業  | 一考   

 連休のあいだの休みはカレンダー通りである。ただし、五月三日の土曜日は営業する。石井さんとそのように約束した記憶があるからである。もっとも、ひとには都合があって、ですぺらを営業するからと言って約束を守る必要はどこにもない。私の記憶違いかもしれないのである。

 さて、連休の四日から六日までは三連休である。車のガソリンタンクは満タンにした。いつも行く宇佐見が長蛇の列で、遅くに出直したところ売り切れといわれた。仕方がないので、他店で購った。細かいはなしだが、リッター百十八円が百二十二円だった。それが一気に百五十五円から百六十円になるらしい。私の車のガソリンタンクは五十リッターなので、都合二千円は変わってくる。この二千円の恨みはガソリンを入れる度によみがえる。自民党に公明党なんぞ二度と票を入れてやるものか。
 バイクにはスペアと共に十五リッター入っている。これで三百三十キロは走る。奥多摩から秩父へ抜けて蕎麦でも喰いに行こうか。群馬、長野、山梨、埼玉の県境をまだ充分には走っていない。中津川林道や雁坂トンネルなど未知らぬ道は多い。


映画身体論とドゥルーズ  | 一考   

 五月二十四日の土曜日、ジュンク堂書店池袋本店で宇野邦一さんの講演がある。掲示板で触れた「映像身体論」の出版を記念しての催しである。同店ホームページのトークセッションには以下のごとく書き込まれている。

『映画身体論とドゥルーズ』
宇野 邦一(立教大学教授)
■2008年5月24日(土)19時より 

 この数年『映像身体論』となる文章を書きながら、映像と身体というテーマの上を綱渡りするようなことを続けてきたように思います。なんども綱から落っこちながら、あまり前に進んでいない。しかし綱との関係は確かに変わってきて、落ち方も思考の一部になってくる。そんなふうに書いてきたようです。それらの思考をやっと一冊の本の中に閉じ込めてしまったいま、頭の中には「知覚」「政治」「身体」「感情」「生命」「時間」というような言葉が、糸の切れた凧のように漂っていて、呆然としています。
 ドゥルーズの本を断片的に読み返しながら、あらためてこうした問題系にどう入っていくか考えているところです。この数年読んできたネグリの世界政治そして生命の政治に関する考察がジワジワ効いていることもあり、「<単なる生>の哲学」に書いたことを再考する必要も覚えています。こういった情況を少し整理してお話ししてみようと思います。

◆講師紹介◆
宇野邦一(うの・くにいち)
1948年松江市生まれ。京都大学文学部卒業後、パリ第8大学に学び、文学科で修士論文を、哲学科で博士論文を執筆。現在、立教大学現代心理学部映像身体学科 教授。著書に『意味の果てへの旅』(青土社)『アルトー 思考と身体』(白水社)『他者論序説』(書肆山田)『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社選書メチエ)『反歴史論』(せりか書房2003)『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』(以文社)『破局と渦の考察』(岩波書店)『〈単なる生〉の哲学』(平凡社)、訳書にドゥルーズ『フーコー』ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』(以上河出書房新社)、『シネマ2*時間イメージ』(共訳、法政大学出版局)、アルトー『神の裁きと訣別するため』(共訳、河出文庫)、ベケット『伴侶』『見ちがい言いちがい』(以上書肆山田)ほか。


「化鳥・きぬぎぬ川」解説  | 一考   

 明治六年(一八七三年)十一月四日、金沢の浅野川の左岸、下新町(現在の尾張町)二十三番地に生れた泉鏡花は、三百篇にのぼる小説・戯曲などを書き残して、昭和十四年九月六十六歳で世を去った。

 本名を泉鏡太郎といい、鏡花は号、すなわちペンネームであった。当時は本名のほかに風流な別名をつけるのが好まれ、文筆家や画家はこぞって雅号を用いている。例えば鴎外こと林太郎、漱石こと金之助といった類である。
 この鏡花との筆名は、明治二十四年の末、尾崎紅葉に弟子入りしたときに、師から与えられたものであり、中国の詩論にある「鏡花水月」にちなんでいる。「鏡花水月」は「鏡中花影」ともいい、鏡に映った花と水に映った月の意で、目には見えても手に取ることの叶わないものの譬えである。
 「芸術は予が最良の仕事也」と信じ、「作物其物の中に人を遊離させたい」と願い、この感知はできても説明のできない幻に、言葉によって肉薄しようとしたのが鏡花の文学である。
 言葉だけを信じ、言葉のみを媒介として組み立てられたこれらの物語を、人は「文字による工芸美術」と讃美する。鏡花の作品が工芸美術であるということから思い合わされるのは、彼の家系であり生地金沢の風土である。
 鏡花の郷里金沢は、江戸時代から加賀百万石の城下町として独自の文化伝統をはぐくんできた町である。淡い飴色の釉薬を特徴とする大樋焼や九谷焼、加賀友禅や金沢箔と称される金箔の打ち出し、また螺鈿蒔絵など、あまねく美術工芸の都市として、金沢はさかえてきた。そして鏡花の父清次は、工名を政光という名人肌の彫金師で、加賀藩の細工方金工九代水野源六の弟子だった。母の鈴は江戸下谷の中田氏に生まれ、その家は葛野流の鼓打ちであった。鈴の祖父にあたる中田万三郎豊喜は加賀藩主前田侯のお抱え能楽師で、鈴の兄の名は松本金太郎、先代宝生九郎の後継者として、きこえ高かった人である。いわば金沢という旧家の代々の血のノスタルジーが、「残燭の焔のように、いまわの際にひとしきり激しく燃えあがった」のが鏡花の生命であり、醇乎たる滅びの諧調を文字に刻みつけて、鏡花は明治大正昭和の三代を通り過ぎたのである。

化鳥

 明治三十年四月、「新著月刊」の第一巻に発表された。本書へは岩波書店版鏡花全集卷三より収録。鏡花の自筆原稿には、当初「獣王」と題されていたが、ついで「化鳥」と改題。
 本作は鏡花がはじめて試みた口語体の小説で、少年の一人称による内的独白の形式をとっている。この内的独白という小説技法が西洋に登場するのは、一九二〇年代のことである。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』をはじめ、プルーストやヴァレリー・ラルボーの小説などがそれに該当するが、この手法の先駆者であるエドゥアール・デュジャルダンに言わせれば、「《内的独白》とは、登場人物のもっとも内奥の、もっとも無意識に近い思考——論理的に組み立てられる以前の、言いかえればまさに生れつつある状態の思考を、最小限の構文による直接的語句を用いて表現する」ものであり、なによりもまず「一見して明らかな作者の干渉を断切り、登場人物が直接自分自身を表現できるようにすること」を目ざすものであった。
 内的独白の定義は以上のようなものだが、一方、鏡花は自らの創作態度を「私は書く時にこれという用意は有りませんが、ここに、一つ私の態度というべきことは、筆を執っていよいよと書き初めてからは、一切向うまかせにするということです。というのは出来得る限り、作中に私というものを出すまいとするのです(むこうまかせ)」と位置づけている。例えば雨が降っているとするなら、まず雨という点景を出し、その後の会話は一切その登場人物の自由に任せてしまうのである。すなわち、登場人物自身の口説法、喋り方に応じて小説を書きつづけるわけで、あらかじめどういう風に発展させようなどということは全く考えない。
 「化鳥」では、読者はのっけから主人公の思考のなかに置かれる。われわれは少年廉とともにいきなり窓から顔を出して雨の降っている橋の上を眺める。少年の意識にとって、過去も未来も、いやな経験も楽しい空想も、すべては《ここ》と《いま》に現前している。はじめの八行目に「寒い日の朝、雨の降ってる時、私の小さな時分、何日(いつか)でしたっけ、窓から顔を出して見ていました」とあるが、現在も、過去のなかの現在も、すべてひとしなみに《ここ》であり《いま》でしかない。対自としての意識、論理的に組み立てられる以前の、より無意識に近い思考にあって、時間は隔たりを持たない。「母様(おつかさん)が在(い)らっしゃるから、母様(おつかさん)が在(い)らっしゃったから」との言葉で小説が閉じられるが、現在形と過去形とを並べることによって、語られたすべての時間はくずれ、時はなだらかに融化していく。いや、廉の夢が大きくふくれあがって、すべての物語の時間を呑みこんでしまったのである。雨と川とに包みこまれたこの物語は、現実の母から幻の女へ、「翼(はね)の生えたうつくしい姉さん」に抗しきれない自分の心の深淵、すなわち母性憧憬という永遠の夢を覗きみるところで終わる。「照葉狂言」「由縁の女」「縷紅新草」などと共に、金沢ものと称される金沢回帰小説の一篇である。

処方秘箋

 明治三十四年一月、「天地人」第五十号に発表された。本書へは岩波書店版鏡花全集卷六より収録。
 「私」は八歳の頃、越後の紙谷町に住んでいたが、少年の自宅の向いにある「お辻」という十八歳の美しい娘の家に泊る。その晩、同じ町に住む薬屋の妖しい婦人があらわれて、寝入っているお辻の息の根を止める夢を見た……
 鏡花の郷里金沢は北陸の市である。冬は雪に埋もれて退屈な日を送るしかない。紙凧を揚げるにしても、春は三月か四月にならないとやって来ない。しぜん子供達の遊びも室内のものに限られる。
 幼い頃の鏡花は、母が輿入れのときに雛の箱のなかに一緒にしのばせてきた草双紙「白縫物語」や「大和文庫」「時代かゞみ」などの表紙絵を土用干しのように並べ、買ってもらった薄葉紙で、それらの口絵だの挿絵だのを透写するのに熱中したという。これは彫金師だった父が、家業を継がせるために、彼に絵を習わせようとしたことも影響している。やがて、透写に飽きた鏡花は、自らの創造のおもむくままに、さまざまな画題を試みるようになる。
 「可憐なおとめが樹上に縛りあげられ、打擲されている場面などを、いとも克明に現したものであった」とは鏡花の実弟、泉斜汀の語るところだが、鏡花の被虐趣味はこの頃からめざめていたのであろう。しいたげられる女性に妖しい美しさを、ひいては聖性を物狂おしく求める鏡花文学の素地はこんなところにもある。
 文中、「婦人(おんな)は右手(めて)を差伸ばして、結立(ゆいたて)の一筋も乱れない、お辻の高島田をむずとつかんで、ずッと立った。手荒さ、烈しさ。元結は切れたから、髪のずるりと解けたのが、手の甲にまつわると、宙に釣されるようになって、お辻は半身、胸もあらわに、引起こされたが、両手を畳に裏返して、呼吸(いき)のあるものとは見えない」と著されているが、これなどは「歌行燈」の芸妓お三重が船頭達からうける非道な扱いや、「眉かくしの霊」で若婦人が緋のの長襦袢一枚で村中をひき廻される箇処などと同様に、幼少の頃に読み耽った草双紙の頽廃的雰囲気が如実に再現されている。
 題名の処方秘箋は処方箋に秘術の意味を加えたもので、あやかしの婦人の秘法を指す。

雪の翼

 明治三十四年一月、「今世少年」に「本朝食人種」の題名で発表された。「雪と羽衣」と題されたこともある。岩波書店版鏡花全集卷六より収録。
 年少の読者にはいささか難解な印象を与えるかもしれない。しかし、昔は幼い頃から文語体に馴れ親しむので、まったくの口語体よりも、このような混交体のほうが少年少女には読み易かったのである。同様な少年向け山岳小説に「さらさら越」がある。
 留守を守る海軍少尉の婦人民子が、入院している夫を見舞う旅の途中、雪に閉ざされて深山の宿に動けなくなった時、舞いこんできた雁を助ける。やがて雪のあわいを縫って宿を発つが、ソリが道をすべり、転落した民子は炭焼小屋へたどり着く。そこでは雪に封じこめられた男たちが、人肉をも食するという飢餓状態にあり、あわや荒男の餌食になろうとしたのを雁の恩返しによって一命をとりとめる……
 「泉鏡花年譜」の明治二十六年の項に「八月、重き脚気を痛み、療養のため帰郷。十月京都に赴く。同地遊覧中なりし、先生に汽車賃の補助をうけて横寺町に帰らむがためなりき。時小春にして、途中大聖寺より大に雪降る」とある。
 当時、金沢から上京するためには、徒歩か人力車で敦賀まで行き、そこから汽車に乗るより方法がなかった。この体験を活かし、雪の街道、雪の峠に漂う霊異を描いたのが本作である。文中に出てくる春日峠(かすがのとうげ)は北陸道最後の難所であり、石川と福井の県境にある牛の谷(や)峠より、さらに山ふところ深い南越地方特有の鬱蒼とした山路である。この春日峠を舞台にした作品として、他に「白鬼女物語」「山中哲学」「怪語」などがあり、飛騨山中を舞台とした名作「高野聖」と共に、鏡花の山中幻想譚の系譜を形造っている。

女仙前記・きぬぎぬ川

 「女仙前記」は明治三十五年一月の「新小説」第七年第一巻に、「きぬぎぬ川」は同年五月の「新小説」第七年第五巻ない発表された。共に岩波書店版鏡花全集卷七より収録。「きぬぎぬ川」の自筆原稿の末尾には「女仙後記(完)」と記されている。
 「女仙前記」は雪売りのおやじの呼び声で書き起こされる。湯湧谷の錦葉の時分に、どこからともなく現れた娘の世話をしたおやじから、その娘のかたみである白い兎をお雪はさずかる。いかなるめぐり合わせか、娘の名もお雪といった……
 「女仙前記」は筋の展開にそれほどの変化はない。雪、白い兎、お雪という名の二人の女、といった点景に湯湧谷のなつかしい眺めが添えられ、そこはかとない詩情を漂わせる佳品である。
「きぬぎぬ川」では、兎をさずかった令室の行方をさがして、後朝川の上流へとわけ入った女中が、湯湧谷で気高い麗人に出会って救われる。
 本作には前述した「白縫物語」と全く同じ構図をとる部分がある。幼いころ亡き母から、よく絵解きをしてもらった草双紙のことである。やさしかった母と孤独な少年を癒す摩耶夫人像とが手を取り合い、女仙の姿となって結実した、「蓑谷」「竜潭譚」「清心庵」の系譜に連なる物語である。ここには美しい救済者への夢想という鏡花文学の根源的主題が流れている。また、本作の面目は、岩角にすがり、渓流を渡り、山の奥深くへとわけ入る、その自然描写の筆致にある。岩の一枚、瀧の一筋、瀬の一滴が異常な鮮明さで描かれ、まるで克明に刻まれた銅版画を覗くような印象を読者に与える。そして、それらミクロの世界が、湯湧谷と名付けられた迷宮の螺旋構造を形造る。鏡花の小説にあっては、真の幻想が持ち得るすぐれて良質な面が、しばしば立ち顕れる。それはもはや夢幻(ゆめまぼろし)ではなく、したたかに不可思議な現実そのものである。

雪霊記事

 大正十四年四月、「小説倶楽部」第五巻第四号に発表された。本書には岩波書店版鏡花全集卷二十一から収録。
 本作は「雪の翼」と同じく、武生の雪に取材した作品であり、文体は一人称の「あります」体で統一されている。内容は、主人公の関が越前武生の恩人お米の宿を訪ねる物語である。道中、雪難の碑の前で、雪がすさまじい渦となって舞い上がり、「私」は雪に埋もれて倒れてしまう。粉雪が紫陽花の青い花片のように舞い、菖蒲が咲き、螢が飛ぶ……渦のごとく湧き立吹雪の超現実的な描写が、お米さんの清く暖かい肌への思いと雪の霊とを重ね合わせてゆくところが、この作品の見所である。本篇には「雪霊続記」と題する続篇があり、雪中行軍に擬して凍死したといわれる雪難の碑の亡霊が現れる。また、雪の月夜の光景を描いた佳品として、「銀短冊」と題する中篇がある。いずれもが、毎年のように深い雪におおわれる北陸の厳冬が育てた幻想であり、鏡花文学に固有の耽美的傾向が顕著に現れている。
 鏡花には、この武生周辺を舞台に、そして、周囲の山村に伝わる豊富な伝説や口碑、民譚に材をとり、修飾をほどこした小説がすこぶる多い。旧北陸道を南下し、武生市四郎丸町で二つに分かれる道を東に折れた平吹町を舞台にしたのが「水鶏(くいな)の里」。そして、その道を反対方向、敦賀へ通じる道を行くと春日峠である。また、武生の町を真っ二つに引き裂くかのように縦断しているのが現在の日野川、すなわち白鬼女川である。白鬼女川の源は夜叉ヶ池。越前、美濃、近江の三国にまたがる三国岳と三周ヶ岳の中腹にひっそりと眠る神秘の湖である。鏡花はこの夜叉ヶ池の大蛇伝説と、白山、剣ヶ身ねにある千蛇ヶ池の伝説とを組み合わせ、壮大な恋物語「夜叉ヶ池」を著したのである。

十三娘

 大正十一年十月、「鈴の音」第二巻第十号に発表された。本書へは岩波書店版鏡花全集卷二十二より収録。鏡花自筆原稿には「たけのやま」とあり、のちに改題された。
 本作は中国の小説、段成式の「剣侠伝」の一篇「老人化猿」の翻案である。原文はわずか百余文字の短文だが、それを草双紙風の興趣にかえて、手頃な短篇に仕立て直したものである。文中では女主人公十三娘に「おとみさん」とのルビが付されているが、中国ものゆえ、題名は「じゅうさんじょう」と読むのが正しかろう。
 天下の女剣侠とうたわれた趙国明径の楊家(楊朱の学説を奉じる学者のこと)の娘、十三娘(おとみさん)が、越王に招かれて越国へ向かう道中記だが、単なる冒険譚としてではなく、一種の変身譚として読むべき物語である。
 人が化けて馬となり牛となり、また人を化かして馬となし牛となす術は幻想文学の欠くべからざる要素として、神話時代から現代にいたるまで脈々と語り継がれている。鏡花の小説のなかにも、そのような観音力や鬼神力が描かれた作品は数多く、それら怪異物の頂点に「高野聖」がある。
 本作の老人化猿は、化けるのは自分自身である。「高野聖」のように人の呪力によってたぶらかされるのではないが、変身することに違いはない。この変身、すなわちメタモルフォーシスを、生物学用語の「変態」に置き替えてみれば理解しやすくなる。オタマジャクシに手脚が生え、尾がなくなって蛙になったり、芋虫が蛹となり、さらに繭を破って蝶になったりするのが、いわゆる生物学上のメタモルフォーシスである。これら自然界の大法則を、空想の世界で一挙に実現させてみせるのが文学なのである。
 鏡花は明治三四十年代に、しきりに唐宋から明清間の奇談を翻訳もしくは翻案している。岩波書店版鏡花全集卷二十七には「唐模様」と題する小品が収められている。幸田露伴から芥川龍之介や木下杢太郎を経て、中島敦や石川淳に至る「支那好み」の系譜の中間に位置する佳作であり、秋成やラフカディオ・ハーンの作品と好一対となっている。

駒の話

 大正十三年一月、「サンデー毎日」第三年第一号に発表された。岩波書店版鏡花全集卷二十二に初出の稿が、卷二十三には決定稿が収められている。本書には卷二十三より収録した。
 駒とは猫の名前で、ここでは猫が主人公である。しかも、駒は知恵や感情をもち、強烈な個性をもって、積極的に人間界に参入する。
 近代日本文学で猫を扱った作品は少なくない。とりわけ、漱石の「我輩は猫である」、谷崎潤一郎の「猫と庄造と二人のをんな」、萩原朔太郎の「猫町」、内田百けんの「ノラや」などは有名である。また、文中で触れられている「想山著聞集」や「徒然草」の「猫又」の話もよく識られている。猫又とは人を喰い殺す魔性の猫で、妖怪変化のことである。しかし、本作に描かれた駒は化け猫ではない。この牝猫は並々ならぬ礼節をもって人間世界に入りこみ、その母性愛に驚嘆の目を向けさせるのである。人語を話す猫という蕉園女史の挿話が織りこまれているが、この種の猫は明治四十三年十月に発表された「三味線堀」にもしきりに現れている。大団円で、長刀小脇に白衣の貴婦人が大猫をともなって見得を切る、という「三味線堀」の華やかさとは逆に、本作では次第におとろえてゆく駒の境涯が、写生文風に淡々と描かれている。飄逸な趣をもつ小品である。
 ちなみに、鏡花には「黒猫」(明治二十八年)という作品がある。エドガー・アラン・ポーの「黒猫」の影響下に著されたといわれる作品で、盲人の怨霊がとり憑いた黒猫が登場する怪異譚である。

絵本の春

 大正十三年一月、「文藝春秋」第四年第一号に発表された。本書には岩波書店版鏡花全集卷二十三より収録。
 桃も桜も、真紅の椿も、濃い霞に包まれた春おぼろのたそがれ、小路の破れ木戸に「貸本」とかなで染められた白紙の幻覚に少年はおそわれる。幾日も、その貸本の紙ばかり見つめていると、美しいお嬢さんが一冊の草双紙を貸してくれた。「絵本の春」との表題はここからとられた。
 文中に出てくる「逢魔が時」は、鏡花が好んで用いる言葉である。「逢魔が時」とはたそがれのことであり、暗でもなく、光でもなく、光と暗との混合でもない、一種特別な色彩の世界である。鏡花は「たそがれの味」と題する談話のなかで、彼の文芸観の一端を語っている。
 「多くの人は、たそがれと夕ぐれとを、ごっちゃにして居るように思います。夕ぐれというと、どちらかといえば、夜の色、暗の色という感じが主になっている。しかし、たそがれは、夜の色ではない、暗の色でもない。といって、昼の光、光明の感じばかりでもない。昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではありますまいか……夜と昼、光と暗との外に世界のないように思っているのは、大きな間違いだと思います。夕暮とか、朝とかいう両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を、世の中の人に伝えたいものだと思っております」
 鏡花によれば、たそがれと夕ぐれとが違うように、善と悪、正と邪、快と不快、それらすべてが昼と夜のようなもので、人間はそのあいだに一種微妙な形象、心状を現ずるのである。ちなみに、この言葉を夢と現実に置き換えてみよう。アンドレ・ブルトンは「シュールレアリスム宣言」の中で「夢と現実、一見まったく相容れないこの二つの状態が、一種の絶対的現実、言うなれば、超現実のなかにいつしか解消されてしまうことをわたしは信じていると叙している。鏡花が説く「たそがれの味」もまた、かかる対立概念が対立せず、矛盾が矛盾でなくなってしまうような至高点への信仰であり、その具象化であった。
 繊細な感性とたくましい空想力をもった少年にとって、たそがれは魔の領域にふと足を踏み入れたくなるような時間帯である。「逢魔が時」という魔界へのパスポートをもって占いをする妖しい小母さん、生肝をとられた若い女の話、洪水の怪異などが、走馬燈のようにめぐる。鏡花の小説の不可思議である。しかし、不可思議なものはつねに美しい。「美しいものは不可思議なものを除いてほかにない」と宣言してみせたのもブルトンである。

貝の穴に河童の居る事

 昭和六年九月、佐藤春夫主宰の「古東多万(ことたま)」第一年第一号に「貝の穴に河童が入る」の題名で発表された。本書へは岩波書店版鏡花全集二十二より収録。
 鏡花が本作のなかで描き出した河童は、三尺にも満たない背丈で、青蛙のような色の皮膚にいぼいぼが立ち、とがった嘴にピカピカ光る眼、もずっくのような毛が耳までかぶさった小動物であった。
 この思いのほか古典的な河童が、舞台が鎮守の森に移るあたりから滑稽な道化のように思われてくるのは、河童が遣う「でっしゅ」「でしゅ」といった奇妙な言いまわしにあるようだ。
 鎮守の森は魔界の住人たちの表舞台である。美しい姫様のまわりには、栗鼠、山鴉、木菟、蛇、白兎などの異類異形がぞろぞろ登場してくる。これらは鏡花世界にひとつのジャンルを形造っている。しかし、ばけものというものは、そもそも人間界を超越した存在で、どんな残酷なことでも平気で実行するような存在でなければならないはずである。それが鏡花の好んで描くお化けには、天狗や鬼など正統な妖怪がもつ、いかめしさや恐ろしさはまったく見受けられない。それどころか、どちらかといえば人間の健気さに弱いのである。前に述べた「夜叉ヶ池」や「水鶏の里」をはじめ、「天守物語」「深沙大王」に登場する妖怪のことごとくが、人間界に引け目をもち、あまつさえ美しい人間をうらやんでいるのである。鏡花は化けものとは争わない。鏡花にとって妖怪とは、母性憧憬の迷宮の番人であり、愛すべきミノタウロスでしかなかった。
 鏡花のほかにも河童を主題にした作品は多い。芥川龍之介には有名な「河童」がり、絵も珍重され、忌日を河童忌という。また、火野葦平には「名探偵」や「紅皿」、中村地平には「山の中の古い池」、塩谷賛には「江戸の河童」と題する小説があり、いずれも独自の風格を具えた河童を登場させている。

 (泉鏡花小説集「化鳥・きぬぎぬ川」 第三文明社 一九八九年十二月十日刊)


 mixiへはむかし書いた文章を主として載せていた。気が向けば、red foxの続きをはじめるつもりだが、それがmixiであろうがですぺら掲示板であろうが一向に構わない。それと、mixiでred foxがなにを書いたか、コピーを取っていないので定かでない。ただ、旧作に限ってなら何を載せたかは覚えている。従って重複の心配はない。
 文中で触れたが、「化鳥」が発表されたのが一八九七年、そして「ユリシーズ」の上梓は一九二二年である。その「ユリシーズ」に妻モリーがベッドの中でブルームを回顧する句読点のない長い内的独白がある。ときを同じくして世の中には似た作家が現れる。思うに、ジョイスやプルーストの翻訳には鏡花の文体が相応しい。その消息はネルヴァルやシュオッブに「大川端」の文体が似合うのと同じである。
 そうした東西の文学運動の類似点もしくは時代の要請に関して、再考し何度でも整理し直すひとが現れてほしい。例えば、ヌーボーロマンやアンチロマンはフランスで生まれた文学運動だが、作品として花開いたのは吉行淳之介の「砂の上の植物群」以降の作品、とりわけ「夕暮まで」が呼応すると思っている。その理由は書かない。ただ、「夕暮まで」とその後の「鞄の中身」はすぐれて実験的な小説だった。

 本書は学生向けの日本文学選集の一冊で、編輯は一任された。紹介は潮出版社の編輯長高橋康雄さん。先立って、「主婦と暮し」に「自転車美人」を寄せている。三浦環や「魔風恋風」の女主人公初野のモデル、泉屋鶴吉などについて書いた。
 二十年を経て繙読し、存外変わっていないという覚束ない思いで一杯である。還暦を過ぎてこの態ではどうにもならないが、解説には基本的な間違いがあって訂正の機会を窺っていた。過ちは削除できたので、取り敢えず安堵している。
 解説を書き上げてまもなく、第三文明社の編輯長が拙宅へ見えられた。曰く「他の巻とは力の入れ方が違う。よろしければ書き下ろしの鏡花論をお願いできないか」とのはなしだった。当時は読売新聞社から研文社へ移籍、小出昌洋さんと辞書づくりの毎日だった。研文社は三社しかない辞書専門の編輯プロダクションのひとつで、講談社、旺文社、学研などの辞書を専らにしていた。折悪しく、講談社の国語辞典の語釈で忙殺されていた。丁重にお断りしたものの、端から引き受けるつもりはなかった。私にとって鏡花は人目を忍んで熟読玩味すべき作家で、畏れ多くも論じるような対象ではない。せいぜいが解説か開題の類いで気持は熄まる。そこから先、踏み込むつもりは今もない。

   わが恋は人とる沼の花菖蒲     鏡花


2008年04月28日

バクテリア発生  | 一考   

 昨日は拙宅で水道工事があった。築三、四十年は経た家なので、金属パイプを用いている。それが錆び付いて水の出が悪くなっていたのである。二階のトイレは完全に使用不可、洗濯機は一回の洗濯に三時間ほど掛かっていた。もっとも、全自動なので、打っちゃっておけば明日には出来上っている。騒いだり狼狽える必要はどこにもないのだが、女性がいるとなるとそうも行かない。女性はやはり生活の段取りを考える、もしくはかつての生活と比較する。以前はシャワーの勢いがもっとよかったのに、洗濯は三十分で脱水まで済んでいたのに、貴方がトイレを使ったあとは水が貯るのに二十分もかかる、の類いである。
 金属パイプの内側の直径が狭まっているのも理由の一つだが、各種器具の繋ぎにはフィルターが付いている。そのフィルターの目詰まりが酷かったのである。バケツで四杯ほどの真っ赤な泥水が出てきた。そう言えば、この十年、掃除はなにもしていない。フィルターやパッキンの掃除や補修ぐらいは自分でやらなければいけないようである。
 マンションの屋上に設けられた貯水槽は毎年掃除が必要である。二年も捨て置けば、珪藻と藍藻、要するにデトリタスが大量に発生する。貯水槽ではなく、給水管の場合でも、錆、雑菌、スライム(ヘドロのような汚れ)が発生し増殖する。水が不味いという前に、しかるべき管理が必要であると痛感させられた。


2008年04月27日

パソコンの修理2  | 一考   

 モルト会があったので、パソコンの抜本的な修復ができずにいた。モルト会が済み、プリントの要がなくなったので、今日は朝から徹底的に弄くった。松友さんには心ならずも迷惑をお掛けしたようである、忝なく思う。ただ、475から7600を経てG3まで、スペアの機種は拙宅に十台ほどある。いざとなれば古いマックを持ち出せばよいのだが、現行のG4初期タイプはケースやマザーボード、各種パーツからケーブル類を集め、自ら組み立てたものである。要するに、最初から私用に造られていてノーマルな機種と比して癖が強い。それ故の愛着もいささかある。OS9は完全に元に戻った、OSXへの移行は必要ない。まだ数年はこのまま用いるつもりである。


次回モルト会  | 一考   

 五月のモルト会はブレイヴァルとクラガンモアの予定。少々高くなるが、最高のモルト・ウィスキーを用意する。四月のダルユーイン、ピティヴェアック同様、店主のもっとも好きなウィスキーであり、全力を投入する。乞うご期待。
 なお、武蔵屋主宰のワイン展示試飲会は五月二十一日、水曜日です。ワインの他、ポート、マディラ、シェリーが出品される予定。


ダルユーイン其他の解説  | 一考   

 ダルユーイン '89(マクダフ・インターナショナル)
 ザ・ゴールデン・カスクの一本。14年もの、54.5度のカスク・ストレングス。312本のリミテッド・エディション。
 ボウモアとラフロイグのディスティラリー・マネージャーを歴任したジョン・マックドゥーガルのセレクション。ノー・チル・フィルターのフルフレーバー・シリーズで、同時頒布はボウモア、ダルモア、バルブレアの四種類。
 フランスのジャン・ボワイエ社、アデルフィ社、クライズデール社と共に傑出したボトラーで、稀少な蒸留所のボトルを陸続と頒している。とりわけ、コストパフォーマンスに傑れているのがマクダフ・インターナショナル社であろうか。

 ダルユーイン '71(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの一本。40度。
 マルティニック・ラムの香りを持つフル・ボディ。ホットな辛口でアフター・テイストに特徴あり。フィニッシュが長く、スモーキーからビターへと次第に変化していく。
 辛口のモルト・ウィスキーの多くはブラック・ペッパー系の辛さだが、本品は蕃椒、それも一味唐辛子のぴりぴり感を持つ。タリスカー同様、ジョニー・ウォーカーの核となる原酒モルト。

 ダルユーイン'80(マキロップ)
 マキロップ・チョイスの一本。19年もの、55.2度のカスク・ストレングス。
 マスター・オブ・ワインの称号を持つグラスゴーの瓶詰業者。アンガス・ダンディ社傘下のカンパニーであり、モンゴメリー社とは兄弟会社になる。「マキロップ・チョイス」の名でコレクションが頒されている。同コレクションには稀少なものが多く含まれる。例えば、リンリスゴウ '82は現在手に入る唯一のセント・マクデランである。
 本品はダルユーインのボトルのなかではひときわ傑出する。

 ダルユーイン '80(サマローリ)
 18年もの、45度。390本のリミテッド・エディション。
 サマローリ社は伊太利亜ブレシアの酒商。スプリングバンク蒸留所と親しく、ボトラーのケイデンヘッド社とその子会社ダッシーズ社と太いパイプを持ち、オリジナルのヴァテッド・モルトを頒している。
 同じイタリアの酒商インター・トレード社同様、ボトルには檻が多く含まれる。樽の個性、ひいてはウィスキーの香味の神秘を識るに最適。本品はハイランド・パークやテナニャックと共にコンディションがすこぶる良く、美味。45度とのやや低いアルコール度数を感じさせない緊迫感あり。

 ダルユーイン '80(アデルフィ)
 21年もの、56.1度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。
 アデルフィ蒸留所は1826年グラスゴーにて設立。1880年にはスコットランドでもっとも大きな蒸留所のひとつになった。しかし、20世紀に入り景気が後退、生産調整のために多くの蒸留所が閉鎖された。アデルフィ蒸留所も時局を免れること能わず、1902年に閉鎖。ボトリングラインと倉庫のみ使用されるという状態で1960年まで建物は残っていたが、その後取り壊された。
 蒸留所の最後のオーナーであったアーチボールド・ウォーカー氏より数えて四代目にあたるジミー・ウォーカー氏はアデルフィ蒸留所の再興を願い、1993年にエディンバラでインデペンデント・ボトラーを設立。
 アデルフィ社は低温濾過すなわちフィルターの無使用と無着色のカスク・ストレングスを専門とする。ラベルとボトルのデザインはスコットランドのグラハム・スコットの手になるもの。すべてが一樽のみのシングル・カスクのため、イギリスでは主にメール・オーダーで頒布。信頼できる瓶詰業者のひとつだが、わが邦での評価は異常なまでに高い。

 ダルユーイン '79(シグナトリー)
 カスク・ストレングス・コレクションの一本。シェリー・バットの25年もの、51.4度のカスク・ストレングス。509本のリミテッド・エディション。
 シグナトリー社はゴードン&マクファイル社、ケイデンヘッド社についで三番目のボトラーとして1988年にリースで創業。現在はエディンバラに事務所兼倉庫を持ち、ボトリングから保管に至るすべての業務を行う。「ダンイーダン」「サイレント・スティルズ」等、他では飲まれない稀少なシングル・カスクが多い。ヨーロッパ向け限定商品として「アン・チルフィルタード・コレクション」またドイツ向けに「ザ・シングル・シングル・モルト・コレクション」「ナチュラル・ハイ・ストレングス」をボトリングするなど、多彩なコレクションで識られる。ラベルにはカスク・ナンバーやボトル・ナンバー等、詳細が著されてい、樽がもたらす個々の性格の違いを楽しむことができる。同社のカスク・ストレングスにあって、寸胴型丸瓶のシリーズは逸品揃い、ぜひ味わって頂きたいモルト・ウィスキーである。
 なお、カスク・ストレングス・コレクションはノー・チル・フィルターのフルフレーバー・シリーズで、寸胴型丸瓶のシリーズに変わるコレクション。

 ピティヴェアック '86(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。バーボン・ホグスヘッドの14年もの、43度。4樽、1074本のリミテッド・エディション。
 ディスティラリー・ボトルのオイリーな舌触りはなく、きれのよさがそのままホットなアフター・テイストへ繋がって行く。
 スカイ島の豪族、マクロード家のイアン・マクロードがオーナー、エディンバラ近郊のブロックスバーンに本拠地を置く。同社はイングランドでの「グレンファークラス」の発売元。「タリスカー」をベースに用いたブレンデッド・ウィスキー「マリー・ボーン」「アイル・オブ・スカイ」や「クイーンズ・シール」で識られる。
 同社が関与するボトルについて一言。蒸留所名を記載できるボトルはイアン・マクロード社、蒸留所名を記載できないボトルはスコティッシュ・インデペンデント・ディスティラーズ社というように区分している。
 1999年に頒された「チーフテンズ・チョイス」は2001年に「チーフテンズ」と変更。ラベル、パッケージ共に一新、フルラインナップとなった、初入荷は14点。ダグラス・レイン社の「オールド・モルト・カスク」と共に目の離せないシリーズとなった。

 ピティヴェアック12年(UDV)※
 花と動物シリーズの一本。43度のディスティラリー・ボトル。
 ダフタウン蒸留所に隣接す。仕込用水からポット・スティル、熟成庫までを共にする、謂わば弟でありながら、兄とは異なりすこぶる個性的な酒を造っていた。蒸留所は93年に閉鎖。
 自己主張が強く、ダルユーインのようなホットなアフター・テイストを持つ。ピリピリ感を伴うフィニッシュが比較的長く続く。同じ飲むなら、ダフタウンよりこちらがお薦め。
 ただし、ディアジオ社のボトルはことごとくシェリー香が強い。美味いといえば美味いのだが、蒸留所独自の個性が歪められているように思う。従って、ホットなアフター・テイストを楽しむならコニッサーズ・チョイスがお薦め。
 花と動物シリーズに続き、レア・モルトも廃止、ディアジオ社はどこへ行くのかと思っていたが、個々の蒸留所のディスティラリー・ボトルに力を入れていくとか。もともと、花と動物シリーズはディスティラリー・ボトルを持たない蒸留所の売店での看板商品として開発されたのでなかったのか。ならば、すべての蒸留所にディスティラリー・ボトルを持たせるのかしら。

 ピティヴェアック '93(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの一本。14年もの、43度。
 現在のところ、最も新しいピティヴェアックのボトル。レッド・ペッパーを思わせる強烈なフィニッシュを味わうには本品が最適。以前のボトルより、はるかに過激な香味を持つ。
 ゴードン&マクファイル社は1895年、当初食料品店としてエルギンで創業。ウィスキー産業がまだブレンデッド中心の頃から同社は世界に向けてボトルを輸出、モルト愛好家を魅了してやまなかった。謂わば独立瓶詰業者のさきがけであり、今日のモルト・ウィスキー人気の蔭の立て役者。1992年、ベンローマック蒸留所をユナイテッド・ディスティラーズ社より買収。豊富な在庫を用い、「コニッサーズ・チョイス」「マクファイルズ・コレクション」「マクファイル・プライベート・コレクション」「スピリッツ・オブ・スコットランド」「スペイモルト」「レア・オールド」等、多くのコレクションを頒している。

 ピティヴェアック・グレンリヴェット '85(ケイデンヘッド)
 オーセンティック・コレクションの一本。バーボン・ホグスヘッドの16年もの、57.3度のカスク・ストレングス。限定192本のシングル・カスク。
 本品以降、ケイデンヘッド社はピティヴェアックをボトリングしていない。スプリングバンク蒸留所のブレンド・ウィスキー開発に伴って、ケイデンヘッド社はボトラーとしての役目を終えつつある。残るボトラーはダグラス・レイン、シグナトリー、ゴードン&マクファイル、ダンカン・テイラー、イアン・マクロードの五社を中心に再編成されてゆく。

 グレンキンチー10年(UDV)※
 クラシック・モルト・シリーズの一本、43度のディスティラリー・ボトル。
 ローランド・モルトの特色をよく備え、酒質は軽く、癖の尠ない辛口で飲みやすい。けだし香りが豊かで、入門編として格好。ヘイグのキー・モルト。
 柔らかな燻香と微かな磯の香が持ち味。こぢんまり纏まった巧緻な味わい。
 フィニッシュは最初はドライ、次第にスパイシーに変化する。蕃椒の辛さ。

 グレンキンチー・アモンティリャード '86(UDV)※
 ザ・ディスティラーズ・エディションの一本、43度。
 ザ・ディスティラーズ・エディションにはオーバン、ラガヴーリン、クラガンモア、タリスカー、ダルウィニーの六種類のダブル・マチュアードがあり、各々異なる仕上げになっている。本品はフィニッシュにアモンティリャードのシェリー・カスクを用う。
 アモンティリャードにしてはやや甘口に過ぎる気がする。モスカテル・シェリー樽をフィニッシュにもちいたカリラがその痕跡を抑えているのと比して、まるでポート樽のような甘味を持つ。いささかの抵抗感あり。
 他にフレンド・オブ・クラシックも頒布されている。

 グレンキンチー '82(スコッチ・モルト・セールス)
 ディスティラリー・コレクションの一本。フィノ・シェリー・カスクの18年もの、62.5度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。
 スコティッシュ・インデペンデント・ディスティラーズ、すなわちイアン・マクロード社の樽をボトリング。リリースはスコッチ・モルト・セールス社。
 爽やかな若草にシトラスの香り、オークの甘さを感じさせるミディアム・ボディ。ドライでスパイシーなフィニッシュの中にごく僅かなピート香。タリスカー、グレン・スコシアと共に、ディスティラリー・コレクションのなかでは秀逸。
 そういえば、タリスカーもフィノ・シェリー樽を用いている。オロロソ・シェリー樽では避けられない渋味がフィノ・シェリー樽では抑制される。シェリー酒の持つデリカシーを味わうにはフィノ・シェリー樽に限られるようである。

 グルーミング '73(ダグラス・レイン)
 ディレクターズ・セレクションの一本。27年もの、50度のプリファード・ストレングス。318本のリミテッド・エディション。
 グレンキンチーはディアジオ社の看板商品のため、グルーミングのブランドでボトリング、中身はグレンキンチー。前記スコッチ・モルト・セールスのボトルを含めてボトラーズ・ボトルはわずか二種類しか頒されていない。
 アードベッグ、ポートエレン、オーバン、クラガンモア、オスロスク等、ダグラス・レイン社の長期熟成品と同様、香り、味、フィニッシュは共に絶品。一度は味わっておかなければならない一本である。


2008年04月24日

ですぺらモルト会詳細  | 一考   

4月26日(土)の19時から新装開店後、四度目のですぺらモルト会を催します。
会費は10500円、オードブルは簡略に済ませます。
ウィスキーのメニューは以下のごとし。詳しい解説は当日お渡しします。
01番は旧コニッサーズ・チョイスで、最後の一本です。02番はかつてのサマローリで、こちらも最後の一本です。11番はスコティッシュ・インデペンデント・ディスティラーズ、すなわちイアン・マクロード社の樽をボトリング。リリースはスコッチ・モルト・セールス社です。他ではダグラス・レイン社のディレクターズ・セレクションからグリーミング '73のブランドでカスク・ストレングスがボトリングされている。要するに、ボトラーズ・ボトルはわずか二種類しか頒されていない。
シグナトリー社のカスク・ストレングス・コレクションのダルユーイン '79もありますが、それらは次の機会に。
ダルユーインはブレイヴァルと共に、店主が好きなモルト・ウィスキーです。
共にディスティラリー・ボトルは頒されておりません。
番椒の味わいをお楽しみください。

ですぺらモルト会(ダルユーインを飲む)

01 ダルユーイン '71(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの一本。40度。
02 ダルユーイン '80(サマローリ)
 18年もの、45度。390本のリミテッド・エディション。
03 ダルユーイン '80(アデルフィ)
 21年もの、56.1度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。
04 ダルユーイン'80(マキロップ)
 マキロップ・チョイスの一本。19年もの、55.2度のカスク・ストレングス。
05 ピティヴェアック '86(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。バーボン・ホグスヘッドの14年もの、43度。4樽、1074本のリミテッド・エディション。
06 ピティヴェアック '93(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの一本。14年もの、43度。
07 ピティヴェアック12年(ユナイテッド・ディスティラーズ)※
 花と動物シリーズの一本。43度のディスティラリー・ボトル。
08 ピティヴェアック・グレンリヴェット '85(ケイデンヘッド)
 オーセンティック・コレクションの一本。バーボン・ホグスヘッドの16年もの、57.3度のカスク・ストレングス。限定192本のシングル・カスク。
09 グレンキンチー10年(ユナイテッド・ディスティラーズ)※
 クラシック・モルト・シリーズの一本、43度のディスティラリー・ボトル。
10 グレンキンチー・アモンティリャード '86(ユナイテッド・ディスティラーズ)※
 ザ・ディスティラーズ・エディションの一本、43度。
11 グレンキンチー '82(スコッチ・モルト・セールス)
 ディスティラリー・コレクションの一本。フィノ・シェリー・カスクの18年もの、62.5度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。

ですぺら
東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F
03-3584-4566


ですぺらモルト会  | 一考   

4月26日(土)の19時からですぺらモルト会を催します。
ウィスキーはダルユーイン、ピティヴェアック、グレンキンチーなど、ホットなウィスキーばかりです。このホットとはペッパー系ではなく、一味の辛さを内包したウィスキーです。
会費は11000円を目安にしています。オードブルは簡略に済ませます。USBメモリを紛失したので、ウィスキーのメニューは明日記載します。
詳しい解説は当日お渡し致します。 参加ご希望の方はお知らせ下さい。


2008年04月22日

シェリー試飲会  | 一考   

 昨夜遅く、一見の客が入れ替わりに三組来店。みなさんがモルト・ウィスキーのお客で、お陰で先月の家賃が払えた。家賃は先払いである。よって四月はおろか、五月分の請求書も既に上がっている。家賃の支払いが追い付くまで、当分のあいだ自転車操業がつづく。五月は営業日数が少ないので、さらに暇になる。みなさん、よろしくお願い致します。

 明日、二十三日はアンダルシア州政府と武蔵屋主催の「スペイン アンダルシア製品展示販売会」がある。時間は正午から午後五時まで。場所は青山ダイヤモンドホール(地下鉄 表参道駅)電話03-5467-2207。インポーター十数社が参加するので、シェリー、ワイン、生ハムなど数百種が試飲・試食できる。かなり珍しいフォーティーファイド・ワインも出品される予定。ルスタウ社の製品も出品される(ですぺら掲示板「各種ワインについて」2007年06月14日参照)。私はおっきーさんと一時頃に出掛ける予定。

 ところで、「寺山修司劇場美術館」(四月一日から五月十一日 青森県立美術館)「冒険王・横尾忠則」(四月十九日から六月十五日 世田谷美術館)「ガレとジャポニスム」(三月二十日から五月十一日 サントリー美術館)の招待状がある。店に置いているので、ご入り用の方は声をお掛け下さい。まさか、青森行きの方はいらっしゃらないと思いますが。


メトロミニッツ  | 一考   

 東京メトロの各駅で無料配布されるフリーペーパー「メトロミニッツ」が土曜日に刊行された。雑誌の中央部にサントリーがスポンサードしたシングル・モルトの特集が挟み込まれてい、二十九軒ほどのバーが紹介されている。文中、ですぺらと一緒にキャンベルタウン・ロッホが紹介されている。共に東京ではもっともリーズナブルな店である。今回は値段の一部が載っているので、前記二店がいかに廉価かがよく分かる。他店と比して、およそ二割から四割安い。
 今回の新装開店に際してかなり値上げした。それを気にしていたのだが、木村さんから山手線の内側ではもっとも安価な店だと言われてきた。それが証明されたようで嬉しく思う。赤坂見附の駅から二十冊頂戴してきて店で配っている。今日もう少しもらってくるので、読んでいただきたい。

 拙宅のパソコンだが、やはりハードディスクに問題があった。ノートンで修復したが、一部は直らない。コントロールバーなどは起動しない。起動しない理由は定かならず、検索も役に立たなかった。マックの場合、システムのコピーで不具合は生じない。従って、ボリュームの構成に問題があるようだが、そちらも修復不能と表示される。ノートンが万能でない時はハードディスクを取換えるのが唯一の方策である。
 近頃は極小容量のハードディスクで状態のよいものが手に入らなくなった。60GBから120GBでパーティーションを切るしかなさそうである。それは先のこととして、片肺ながら、取り敢えずパソコンは起動するようになった。


2008年04月19日

パソコンの修理  | 一考   

 自宅のパソコンが故障で立ち上がらなくなった。ハードディスクかマザーボードのどちらかが理由だと思う。共にスペアがあるのでなんとかなりそうだが、時間が必要である。よって掲示板はしばらくお休みである。明日は日曜日、休みの間に直ればいいが。


2008年04月18日

翻訳  | 一考   

 一九六八年十月から七二年の末まで、ちょっとした契機で某仏蘭西文学者を知った。名を俗に大先生という。大先生の名付け親を私は知らない。私が知り合ったときは既にその名が使われていた。というよりも、大学の関係者はみなさん、ゴダールの映画に登場するプロデューサー、プロコシュと重ね合わせていたようである。モラヴィアの原作をもとにしたゴタール初のオールスター商業大作である。
 某仏文学者の社会的地位がどのようなものであったのか、私は知らない。そのようなことにはいささかの興味もないからである。ただ、大先生の過去の翻訳には興味があった。だからお会いしたのである。
 その仏文学者のエキセントリックな人品骨柄についてここで書きたいのではない。書かなければならないことはいくらでもあるが、まだその時期ではない。自らに課したお題は翻訳である。
 前述した「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」を読んで、こなれていない訳文と久しぶりに出会った。詳しくは東洋文庫の「東方旅行記」、ジョン・アシュトン「奇怪動物百科」、ジャイルズ・ミルトン「コロンブスをペテンにかけた男 騎士ジョン・マンデヴィルの謎」等々を繙かれたい。私がここで取上げたいのはあくまで翻訳文である。とは言え、「東方旅行記」を翻訳なさるような奇特な方の文章にケチを付ける気は毛頭ない。「こなれていない」の一言で十分である。
 大先生の翻訳原稿をはじめて頂戴したときのはなしをしよう。さらにこなれていない翻訳についてである。その原稿はなぜか拙宅にある。翻訳の対象は、国立古文書学校を卒業後、巴里国立図書館に勤務、アレクサンドル・コジェーヴの影響のもとに徹底的なヘーゲルの継承と批判から出発した思想家・作家である。その原稿を手にしたときは愕いた。「……」とだれそれが言った、とすべての会話の終わりに几帳面に添えられてあった。この「だれそれが言った」は確かに原文には入っている。しかし、それを端折っても誰の発言か分かるように翻訳するのが、翻訳者の務めであろう。ことごとく削除しろとはいわない。変化を持たせる、もしくは「とだれそれ」だけでもかまわない。「といった」を端折るだけでも随分とすっきりする。私はその原稿を真っ赤にした。そのときの大先生の御歳は四十六、翻訳者としては油が乗るころである。
 往時の大学の事務方から聞いたはなしだが、とある裁判でもめた折、大学に残れば名誉教授にはしない、辞めていただければ名誉教授にすると迫られて、躊躇なく高額な退職金と税金を納める必要のない終身年金を選んだ。人を育てるよりも金、授業なんざあやってられるか、これなどは大先生の大先生たる所以である。
 このような文章で名前を引き合いにだされると出された方が迷惑する。従って、比較や参考はなにもない。世の仏文学者の大方は大先生を認めてもいないが、それらの発言もここでは控える。ただ、一部のマニアの間ではいまなお持て囃されているようである。ちなみに辞書を引くと「「マニア」は英語の mania に由来するが、この語は「精神病」を意味し、その病気にかかった「狂人」は maniac。従って、何かの趣味に「熱中する人」の意味の「マニア」を mania とするのは正しくないし、maniac もむやみに使わないほうがいい」とある。されば「オタク」であろうか。大先生から自称愛書家まで、無菌培養の世界で成長した絶対論者であり、美の信奉者であればこそ、「オタク」が相応しかろう。
 「選ばれた少数者のために」が大先生の標語の一つだったが、これはゲッペルスが好んで用いた言葉である。ゲッペルスから採ったのか、それとも「時々は有益なことをいつてゐる」と茂吉が評した吹田順助訳ローゼンベルクから採ったのか定かでない。その標語に対して「話を書物に限っても、書物は複製芸術であり、いかに部数を劃ったところでそれすらが逞しき商魂。よしんば購入者にマイノリティー意識という妄想を抱かせたとすれば、それは偽善でしかない」と私は書いた。大体において、少数者という曖昧な文言を安易に用いるところに、大先生の思慮の底の浅さが窺える。そして、選ばれた少数者などと煽てられて脂下がるのはマニアやコレクターの常である。そうして、そのような土壌からファシズムが培養されてゆく。
 翻訳とは自らの権威や権力もしくは社会的な地位や名声を誇示ないしは保持するためのものであってはならない。翻訳とはついに男子一生の為事たり得ない。一笑の為事とすべく、努めて努力しなければならない。


2008年04月17日

宇宙の目  | 一考   

 「嗜み」で写真を撮っていただいた齋藤亮一さんから写真が送られてきた。礼状はまだ認めていない。佐々木幹郎さんのところへも送られているが、私は掲示板への写真の載せ方をしらないので遠慮する。
 今までいろんな方に写真を撮っていただいたが、直接写真を頂戴したのははじめてである。幹郎さん宛ての写真の目があまりに感動的だったので、「小さな目の反影のような赫き」と掲示板で書いた。それと比して私は小難しい顔をしている。しかし、どのような顔付きであれ、写真を頂戴したことは嬉しい。なにごとによらず、生れてはじめてというのは有り難いものである。齋藤亮一さんに感謝。
 彼のホームページを訪ねたところ、宇宙の目というのがあった。ひょっとしたら、幹郎さんご紹介のエンデヴァー号の写真も出自は同じなのかもしれない。私にとってはのんちさんの「波坐目」を思い起こさせる写真である。そしてホームページのはじめに戻って、ぜひ全体をご覧いただきたい。

 http://RSblog01.exblog.jp/5821068/


水割りとソーダ割り  | 一考   

 今日、突然工事日が決まった。午後一からのガス工事である。雨が降るのにご苦労さんなことである。従って、サントリーのパーティーへは参加できなくなってしまった。担当者の方には迷惑をお掛けする、こちらでお詫び申しあげる。もっとも、七百名の宴会なので、私ごときが行かなくともどうということはあるまい。
 今日のパーティーは山崎の水割りとソーダ割りの試飲会だそうである。水割りは一対一で氷は用いない。ソーダ割りは一対三で、やはり氷は用いないのが理想である。この水割りとソーダ割り(ハイボール)はまったく異なる飲み物である。
 水割りは水で薄めるだけなので、水っぽくなるだけである。間違えても、カスク・ストレングスの水割りはやめていただきたい。ダグラス・レインやジョン・ミルロイのゴールデン・ストレングスは五十度に加水しているが、これは加水後、樽へ戻して後熟させる。後熟なしの水割りはウィスキーと水とが分離したまま飲むことになる。お薦めできない理由である。水っぽくなるのを防ぐために甘口のそれもフルボディのウィスキーが適している。例えば、ストラスアイラやマッカランである。
 ソーダ割りはそれだけで一種のカクテルである。どのようなウィスキーを用いようと甘くなる。よって辛口の腰のあるウィスキーが理想である。ひできさんはタリスカーのソーダ割りを飲まれるが、美味いだろうと思う。私のお薦めはラフロイグの十年である。ラフロイグは十年の加水タイプに限ってひどく不味い。あれを美味く飲むにはソーダ割りが理想である。
 今日、参加したかった理由は実はフードにあった。サントリーが提供するフードはよく選ばれている。前回のメロンのドライフルーツは絶品だった。こちらは後日、勉強させていただく。盛会を祈る。


物の上手  | 一考   

 ひとに手紙を送るのは難しい。誤記、脱字、その他の間違いがないだろうかと投函した後もポストの回りを彷徨(うろつ)くことになる。それが嫌で、二十歳になったときから手紙を一切書かなくなった。書かなくなったことを屡々非難されるが、こればかりは勘弁してほしい。最近はメールという安直なものができたのでよく利用する。
 掲示板もひっきりなしに弄くっている。要もないのに書き換えているのである。櫻井さんが管理人のときは叶わなかった推敲がいまでは可能である。もっとも、推敲とはいえ、私の場合は最適の字句や表現を求めての改変ではなく、ただ徒に捻弄しているに過ぎない。推敲とは「推」を改めて「敲」にしようかと迷い続けることであって、この三日間の書き込みも再三に渡って捻弄している。「ねんろう」は耕衣さんの造語である。
 さて、坂田さん(お名前は控える)からメールを頂戴した。面識はないが、もう苗字を書いても構わないだろう。前述のMSさんである。MSさんからの手紙にも誤記があった。暖房が暖防になっていたのである。他にもあったが、わがことのように羞ずかしく思った。
 去年のことだが、さる人の文章を非難したところ、絶交されてしまった。もっとも、私が非難したのは「視点の未分化」であって、それ以上でも以下でもない。大体が、付き合いと文章の是非はまったく次元の異なるはなしである。それが丼勘定されるのはとても不思議で悲しかった。おそらく幼児性が異常に強いか、もしくは文章によほどの自信があったのであろう。しかし、文章に自信があるなどという戯言は私には信じられない。みなさん自信がないからこそ、書き直すのでないだろうか。書き直すとは表面の取り繕いではなく、中身の一新でなければならない。私は雑誌社から何度原稿を突き返されたか分からない。いちから書き直せとの仰せを書くたびに聞かされたのである。
 その絶交が災いして、相手がプロでない限り、ひとの文章を非難するのは止めてしまった。それが坂田さんの原稿を読みたくないといった理由である。繰り返すが、活字になったものなら読ませていただきたく思う。その場合は活字にした人の責任が介在するからである。仮に非難するにせよ、その対象は介在したひとに向けられる。
 私は思うところをそのまま口にする。従って、ひとの反感を買い、世間を狭める結果となる。稀にべんちゃらを口にすることもあるが、それは励ますようなときで、下心がはっきりしている。いずれにせよ、飲み屋の親父にはあるまじき行為である。糅てて加えて、私は自らのの姿勢を何度も掲示板で著してきている。
 例えば「情念を重んじ非論理的な文言は赦さず、「賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る」輩が迷い込んできたときは弾劾する」と橋本真理さんに関する文章で書いた。この場合、「賞なしコネなし」はやる気さえあれば付いてくる。従って剰余を削れば「やる気なしで作家を気取る」となる。
 このようなことを書けば、話の接穂がなくて困惑する。そこで一条兼良の「小夜のねざめ」からひとこと。彼は自信家で権威主義者だが、たまにはよいことも言う。

 世の末にはあしき事もよくなり、よきこともあしくなることもあれども、物の上手、人の稽古などはかくれぬ物ぞかし。

 坂田さんのメールに「半分趣味ですが、趣味だからといって軽く考えているわけではありません。書くからには上達したいという思いは持ち合わせております」とあった。ここにも誤字があったが、それはさておき、趣味で結構、林達夫やヴァレリー・ラルボーのいうアマトゥールの精神だけは終生忘れないでいただきたい。あとは一語一語を大切にして、いつの日か素晴らしい作品を書いて私を愉しませてくださいな。


2008年04月16日

圏外文学  | 一考   

 ウェブサイトを私はあまり見ない。もっぱら書き込むか、もしくは耄けている。ところが、ゆきうりさんにマイミクになっていただき、一挙に花が咲いたようである。今日は「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」をダウンロードした。

 http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/

 「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」や前述した「川の地図辞典」に限らず、探検・冒険にかかわる書物が好きである。拙宅には気象研究所鑑修になる「異国漂流記集」をはじめ、「海外渡航記叢書」「大航海時代叢書」 「異国叢書」の類いが積まれている。現代文学に興味が薄れた分、そうした書物に強く惹かれてゆく。海賊にまつわるさまざまな本と共に、血湧き肉躍る異聞の数々にこそ読書の醍醐味がある。私の欲望を充たしてくれるのは環海異聞のような書物を除いて他にはない。おそらく、拙宅から文芸書がなくなっても、そのような書物だけは居座りつづけるのではないかと思っている。
 東京海洋大学附属図書館のデジタル資料は貴重である。

 http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/bunkan/tb-gaku/hyoryu/hyoryu.html

 それと何時もいうことだが、青裳堂書店の「日本書誌学大系」、「新聞集成 明治編年史」「新聞集録 大正史」あとは「明治事物起源」の類と辞書である。「明治事物起源」の類書だけでも四、五十点はあり、辞書がまた同じくらいはある。冊数にすればかなり膨大になる。
 私はかつて編輯を生業としていた。文芸書しか手掛けていないが、それらはすべて歴史資料の産物であった。編輯から校正、果ては装訂に至るまで、ことごとくが歴史資料に端を発する。用紙ひとつにしてからが、歴史を今に辿ってしかるべき末裔に漉いていただく。雁皮は斐紙、間似合紙、鳥の子、薄様などと呼ばれたが、「和漢三才図会」に出てくる越前鳥の子、正倉院文書の中で見いだされた出雲雁皮、文化財保存修復に用いられる近江鳥の子、「東大寺昭和大納経」の料紙に挙用された備中雁皮等々、産地が異なれば光沢も粘りも違ってくる。歴史書は私にとって必要欠くべからざる一級資料なのである。それらを統合して、私は圏外文学と呼んでいる。


2008年04月15日

Age閉店  | 一考   

 芳賀さんからの電話で、Ageの閉店が五月十五日に決まった。今週は私はひとりなので身動きが取られないが、週末からはちょっと動こうかと思う。清水弘子さんは何もするなというが、そうはいかない。連休の間にでも内藤三津子さんに薔薇十字社の思い出、長谷川郁夫さんに小沢書店の思い出を語っていただこうかと思っている。私も必要ならなんでもお喋りする。最初にして最後の企画、Ageの幕引きに相応しい飲兵衛が集まらねばならない。


映像身体論  | 一考   

 先日、高遠さんと入れ違いに宇野邦一さんが来店なさった。ちょっとした事情があって、暫くお見えでなかった。ドゥルーズ「シネマ」の翻訳の産物と聞かされたが、新刊の「映像身体論」を頂戴した。素っ気ないみすず書房の本としては珍しく、「裁かるるジャンヌ」のアルトーのカバー写真で飾らている。
 まだ読んではいないが、栞が挟まっていた頁を開くと「見るということは見られることであり、触れることは触れられること、知覚することは知覚されることである……メルロ・ポンティは、見ることと見られることの交叉を身体の現象学的考察のかなめとしたのである。身体は、たんに見る主体でも、主体に見られる客体でもなく、主体であると同時に客体である。見ることは見られることとともに成立し、見られることは見ることとともに成立する」とある。
 書かれていることは決して難しくなく、すこぶる分かり易い、そして間違っていない。ただ、そうした考え方がどうしてメルロ・ポンティの現象学的考察のかなめでなければならないのか、メルロ・ポンティを読まない私には雲を掴むはなしである。「見るということは見られることであり、触れることは触れられること、知覚することは知覚されることである。身体論を語るに際し、見ることと見られることの交叉はある種のものの考え方のかなめとなる。身体は、たんに見る主体でも、主体に見られる客体でもなく、主体であると同時に客体である。見ることは見られることとともに成立し、見られることは見ることとともに成立する」の方が私にとっては通りがよくなる。「ある種の」としたのは「現象学」をさらに暈かしたまでであり、私はそのような考えを永田耕衣から学んだ。
 「映像」という要素を取り入れた身体論は何倍にも複雑になる。ドゥルーズの豊かで錯綜した映画哲学から彼がどのような問いを受け取ったのか。それを読み解くところに本書の大事がある。見る、触る、さらに知覚するといった行為は相互に浸透しあう。要するに、身体は主体と客体の垣根を跳び超えるという辺りに論点があるようである。言い換えれば、身体を中心に置いた思索によって古典的哲学とはおさらばというのが論旨のようでもある。もっとも、そのような結論を安直に引き出すようでは宇野さんから叱られる。問題は彼の思考回路といっても渦のようなものだが、その渦に共に巻き込まれなければ、宇野邦一を読んだことにはならない。そして、その搖れは決して心地よいものではない。
 それにしても彼の思考回路は複雑かつ稠密である。複雑といって悪ければ、正確を期すために厳密である。なぜにここまで細やかな注意が行き届いたものの考え方をするのだろうかと思う。私などは実に大雑把で、読み手に自由な呼吸をさせるのを念頭に置いている。それ故、誤解されることも多いが、その誤解を私自身愉しんでいる。稠密と書いたのは、彼の読書家ぶりを指している。知識や教養があればこその稠密で、さまざまな書物、さまざまな考えが所狭しと立て込んでいる。いささか風通しが悪いようであるが、そこに彼の苦行僧のような俤を観る。
 ところで、最近彼の書く文章から目立って引用が少なくなってきた。それはよいことだと思う。対象を論ずるにお気に入りの文章を引用していてはあまりにも腑甲斐ない。その対象たる作品の新たな境地、領域を展開するには自らの言葉だけで綴らなければならない。引用を読まされるぐらいなら原典を繙けば済むはなしである。
 例えば、入沢さんの詩論は難解だが、詩はパロディに満ちあふれていて判読しやすい。それと比して相澤さんの詩は一筋縄でいかない。すべては厳密な構成と深刻な洞察力の裏側に秘められてゆく。同様に宇野さんの書くものは彼の思索の内側へ幾重にも巻き込まれてゆく。そのような消息を描いてこそのエッセイである。ちなみに、私にとって難解とは意味をなさないということである。宇野さんが書くときの読者想定が私にはとんと理解できない。おそらく、わが邦にあって想定可能な読者は極めて少数であろう。
 彼がですぺらへ入ってきたとき、「やっとたどり着いた」と一言。私は彼がまさか来られるとは思っていなかった。彼とは家族付き合いをしていた。それが理由で、去年の五月以降、私は彼と距離を取ることを心掛けてきた。従って、彼がたどり着いたのなら、私は昔の友とふたたび巡り会ったのである。久しぶりの渦であり潮の香である。ちょいと船酔してみようか。

追記
 ジュネのはなしをしていて鈴木創士さんがもっか翻訳中だと聞いた。なんの翻訳だかは聞かなかったが、堀口大学、朝吹三吉、生田耕作、澁澤龍彦、いずれの訳も困る。あれでは単なる好色小説になってしまう。とりわけ「泥棒日記」は改訳の必要があると思う。


2008年04月14日

消え去ったアルベルチーヌ  | 一考   

 「「食べれてゐない」「食べれればいいんですけど」などといふ、私の大嫌ひな言葉づかひをするので、私も不快な顔をしてゐたかもしれません。私がこの言葉づかひで許せるのは若い方々のみ。社会人、それも結構な年になつてそんな云ひ方をするんぢやないと怒鳴りたくなります」と高遠さんがお書きだが、若い頃から然様な言葉遣いをしているから歳を経ても直らないのであって、怒鳴りつけるのは若いときしかない。それは言葉遣いに限らず、視点の未分化全体にかかわる問題である。怒鳴られるまでもなく、弱年のおりに注意を受けなかったひとは必ずや自信過剰に陥る。自信過剰というよりも、自己中心性というべきか。アニミズムや実在論がそれで、自らの相対化や客観視ができなくなる。そしてひとたび自信過剰に陥ると病膏肓に入る。
 かくいう私も教養がなく、若い頃は生島遼一さんや多田智満子さんからずいぶんと叱られた。多田さんはとりわけ言葉遣いに神経質で、「ちょうふく」を「じゅうふく」などとうっかり発言しようものなら顰め面をして暫くは口も聞いていただけなかった。
 その生島さんからプルーストを教わった、といっても、授業を受けたのではない。プルーストの大冊を前に途方に暮れる私に「消え去ったアルベルチーヌ」をまず読めばとご教示くださったのである。同じことを曽根元吉さんからも示唆された。そのご恩を差しおいて、ご両人には申し訳ないが、戦後世代は生きたフランス語を知っている。それだけ、フランスが近くなったのである。スエズ経由の巴里はあまりにも遠かったのである。
 翻訳にあっては日本語の能力以前にフランス語の能力が問われる。翻訳はフランス語からの類比推理であって、いくら日本語に精通していてもそれだけでどうこうなるものではない。フランス語による思考回路を持ってはじめて馥郁たる日本語への置換が可能になる。そのような能力を有し、和文にも堪能したひとと申せば、高遠弘美を除いて他にはあるまい。この度、高遠さんの翻訳「消え去ったアルベルチーヌ」が出ると聞く。駒井さんが担当する光文社古典新訳文庫である。新刊書を買わないとの私の方針を切り換えるときがきたようである。


2008年04月13日

人形記——日本人の遠い夢  | 一考   

 佐々木幹郎さんが土師ノ里(はじのさと)について書かれているが、このような難読地名は全国にある。とりわけ北海道には多いが、西日本にも随分とあって、京都の御陵(みささぎ)、大阪の放出(はなてん)、阪急の「十三」(じゅうそう)、阪神の「青木」(おうぎ)、湖西線の「安曇川」(あどがわ)、関西本線の「平城山」(ならやま)、同じく関西本線の「柏原(かしわら)」と福知山線の「柏原(かいばら)」、赤穂線日生駅(ひなせ)の隣には寒河(そうご)駅がある。地元の人ならともかく、そうでなければ手に負えまい。
 土師氏の一族にしてからが、當麻蹶速(たいまくえはや)や野見宿禰(のみのすくね)を知らなければ皆目見当もつかない。その幹郎さんが一年半にわたって、月刊「なごみ」(淡交社)に連載してきた「人形記—日本人の遠い夢」が最終回(六月号用)をむかえた。最終回は、土偶と埴輪についてである。「人形を通して、どんどん日本文化の深遠に入っていったスリリングな感触。不思議な旅でした。いずれ単行本になる予定です」と書かれている。
 そう言えば、ですぺらで人形のはなしを聴かされたのは一度や二度ではない。人形を語るときの彼の目は煌めいていた。「なにもなにも、小さきものはみなうつくし」とは「枕草子」だが、幹郎さんの小さな目の反影のような赫きを忘れられないでいる。「埴輪の悲しさは眼にある」されば、いま在ることへの懐かしさ、うつくしみが幹郎さんの眼差しから匂う。単行本は淡交社から上梓されるのであろうか。


阿蘭陀雉隠し  | 一考   

 終戦直後に生れた私にとってアスパラガスは缶詰である。中学校へ上がったころからグリーンアスパラが市場へ出回るようになったが、やはり白いものでないと食べた気がしない。グリーンアスパラはバター炒めで頂戴するのが一般的だと思うが、私が子供の頃はマーガリンしかなかった。名はマーガリンだが、鯨油の臭いがするバターもどきの代物で、ひどく不味かったのを覚えている。
 ホワイトアスパラは当然サラダで頂戴する。レタス、キャベツ、トマト、胡瓜を盛り合わせた野菜サラダで、私の好物の一つである。ホワイトとグリーンの違いは葱と同じで陽に当たるか当たらないかの違いだろうと思う。その陽に当たらないという不健康さが堪らない。鶴田浩二や高倉健を思い起こす、要するに日陰者である。どう考えようが、ひとから尊敬されるようになるとお終いである。ひとから敬われる、親しまれる、必要とされる、そうしたことと静(誤字ではない)一杯闘い抗うのが人生である。
 野菜サラダに用いるマヨネーズもドレッシングも自家製だった。出来合いを用いるようになったのはこの十年である。規制のマヨネーズであっても、少量の砂糖と生クリームを加えると美味くなる、ドレッシングなら酢を二、三割と若干の香辛料を追加する。
 開店当時のですぺらをご存じの方ならお分かりだが、フードにはすべて漢字を当てていた。例えばアスパラガスは和蘭雉隠しもしくは阿蘭陀雉隠しで、これはmoonさんから教わった。そのおらんだきじかくしについてゆきうりさんが博識をお示しである。「貧忘録」と題するサイトだが、無闇矢鱈と面白い。とりわけ、『本草圖譜』の紹介は圧巻である。ウェブサイトの一つの範を示唆していると思う。
 公開されているのかどうかが分からないが、お読みいただきたいので、念のためにアドレスを載せておく。
 http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/


内的野心  | 一考   

 MSさんへ。ですぺら掲示板をお読みとか、恐縮しております。表現の場にあって野心を持つのは悪いことではありません。掲示板にしてからが、どこかに居るであろう見知らぬ友へ向けての恋文なのです。私がブログを忌み、解放された掲示板にこだわるのも、一種の野心なのかもしれません。
 ブログや掲示板と活字は本来、まったく異なるものでした。ところが、活字の世界がネット社会に擦りより飲み込もうとしているようです。ケータイ小説などはその最たるものでしょう。売れればなんでも有りというのは昔からの出版事業の常套です。この種の野心は困りものです。
 書くときは常に読者を想定します。この読者を想定すること自体が、自らの精神を鼓舞し、揺れ動くことになります。これは内的な野心です。だからこそ、読者はひとりかふたりに限定されます。逆にいえば読者を想定しなければものは書けない、もしくは非常に書きづらいのではないでしょうか。

 私は現役の編輯者ではございません。従って、あなたの原稿を読んだとて、そこから先はなんの役にも立てないのです。デビューしてしまった方への助力なら可能かもしれませんが、デビューを手伝うのはほぼ不可能です。そしてデビューの方法はいくらでもございます。世にいう新人賞ないしは文学賞です。この点に関して、私はプロの編輯者を半ば信じています。「半ば」と書かざるをえないところに問題がございます。文学賞の多くは商売です。従って該当作なしを何度もつづけられないのです。今回は決めてくれといった圧力がかけられることもあるのです。
 いまひとつ問題点がございます。昔の編輯者は作家と寝饋・寝膳を共にするといわれました。要は二人三脚のようなもので、編輯者が作家を扶け育てるといった趣があったのです。現今の編輯者は勤め人ですから、それらは望むべくもないのです。なにを言いたいかというと、書き手は使い捨てにされるか、便利屋として利用されるかの公算は大なのです。
 余談はさておき、活字になったものなら読みもしますが、いまの私にはひとさまの原稿を読むつもりもゆとりもございません。従って、ご期待には添えかねます。北九州は昔から文学の盛んななところで、北九州文学協会文学賞などもございます。そちらへの投稿などをお考えいただければ幸いです。


2008年04月12日

「はてな モルト会」中止  | 一考   

 「はてな モルト会」は参加なさる方が二名なので中止する。私も参加するつもりだったが、だとすると車で行かないと困る。五回連続のお遊びと思っていたが、機熟さず、日を改めようと思う。従って、今日は鉄馬でお出かけ。
 なお、二十六日のモルト会は開催する。詳細は追ってお知らせします。


内部事情  | 一考   

 某書店の名が当掲示板で続くことに対してクレームがついた。一方の趣旨は竹内利美氏への提灯であり柘榴口であって「柘榴口の装飾モティーフが再度花開くのは、売春防止法が施行された昭和三十三年以降の浮世風呂」を書きたかったからに他ならない。また一方は「フィールド・スタディ文庫」のこれまた提灯記事であり、末尾の書物に対する姿勢に論点がある。結果として某書店の名を出したが、それは芳賀さんの意見をちょいと曲げて記載したのである。「曲げて」とは「売られている」を「売れている」としたまでであって、おっきーさんはそれを承知で某書店のオンラインで購入なさった。それは「川の地図辞典」が例え一冊であっても売れたとの実績を残したかったからである。芳賀さんに代わっておっきーさんに感謝申し上げる。
 さて、クレームが内容に関するものなら無視するか反論するかもしくは腹立する。しかしながら、固有名詞の使用にあるのならいつでも削除する。芳賀さんと違い、私には某書店とのあいだに利害関係がなにもない。それでなくとも、大型書店の有りように私は常に反対しつづけてきた。いずれにせよ、今後某書店の名は出すまい。それでご諒解いただきたく思う。

 はなしがこれで終わっては身も蓋もない、そこで一言。
 私の回りには読書家をもって任じる方が多い。従って、本屋への不平不満を屡々耳にする。それが書店への苦言なのか書店員へのそれなのかは定かでない。対象が書店であればなにもいわない、ただ個人であれば問題である。書店の内部事情に精通していれば分かることだが、どこの書店にも書物に詳しいひとはいる。その詳しいひとは内部の仕事に必要なのである。よって、現場はアルバイトで間に合わせる。
 アルバイト相手に四の五の言ってみてもはじまらない。どこそこの書店員は態度が悪いとか本のことを知らないといった違乱はお門違いの落花狼藉。私に言わせれば、新刊書店で本を探すのは客の務めであって、書店員に訊ねるなどもっての他である。それはコンビニやスーパーの店員に料理のレシピを訊くようなものである。そのような身勝手な客は某古書店なら叩き出されるに違いない。新古を問わず、書店にあってはしかるべき人と個人的に親しくなる意外手立てはない。そのためには元手がたんと必要なのである。


麦汁  | 一考   

 かつて麦汁(ばくじゅう)という言葉を聞かされた。クライズデールのラフロイグを飲んだ感想で「この重みと力強さは麦汁のそれである」と、さる客からそれこそ力強く宣われたのである。さっそく「力強い麦汁の香り。口腔にダイナマイトの訪い。五臓六腑にずしりとくる存在感。ウィスキーとはかくも熾烈なもの」とキャプションを書き直した。ところがその後、麦汁を飲む機会を得た。聞くと飲むとでは大きな違いで、なんと甘くて穏やかなものかと驚かされた。これではまるで麦ジュースである。酒精は糖分が分解されて作られる。考えてみればビールの元なのだから甘くて当然である。前述のキャプションは「焼け焦げたヘザー、浜に打ち上げられひからびた海藻、ロープに塗り込められた防腐剤などが醸し出す沃素の臭い。九年ものとは思われぬ、ビッグでパワフルなフィニッシュ。是非ニートかつ常温で味わって頂きたい銘酒」に置き換えられた。
 ラフロイグには「五臓六腑にずしりとくる」ものが多い。エイコーンの水源地シリーズのキルブライド、またはインプレッシヴのラフロイグなどがそれに相当するだろうか。


2008年04月11日

ブレンダーは調香師  | 一考   

 「ボウモアはモルト・ウィスキーの夜間飛行である」と書いた。夜間飛行がタブーであろうが、ミス・ディオールであろうが、アルページュであろうが一向に差し支えない。思うに、ボウモアには香水が含まれているのでないだろうか。ボウモアの香りは謎である、と言われ続けてきた。しかし、かの芳香が香水に起因するのであれば、はなしはあまりにも明解である。
 一九二〇年代になってオート・クチュールのシャネルが合成香料のアルデハイドを配合した香水「No.5」を発表し、以後ランバン、ジャン・パトゥ、スキャパレリ、ディオールなど、デザイナー・ブランドの香水が陸続と発売された。どうもこの合成香料が怪しいのではないかと思う。
 古代エジプト、ペルシア、インドなどでは動物性香料(麝香、竜涎香、海狸香、霊猫香)や香木、もしくは没薬や乳香のような香油と香膏が用いられた。十九世紀になると各種の合成香料が用いられるようになり、数種から十種以上の香料が調合され、幻想香料と呼ばれる「みつこ」や「タブー」が誕生する。なにやらボードレールの詩篇めいてきたようである。
 子供のころ、紙石鹸や紙香水でよく遊んだが、ボウモアの匂いはそんな生やさしいものではない。表立ち、中立ち、残立ちという香水固有の流れが明確にあり、中立ちには調香師が作り出したいと考えている香りのイメージがもっとも強く表現されている。香水を英語ではパフュームperfume、フランス語ではパルファンparfumまたはエクストレーextraitといい、月桂樹の葉をラム酒に漬け、蒸留したベイ・ラムと称する頭髪用の香水まである。別にウィスキーに似たものがあっても不思議ではない。
 ボウモアの香味が安定しないのも、オーナーの好みに合わせてその度毎合成方法もしくは香料の成分を変えてきたからではないか。旧カスク・ストレングスを飲んでその思いを強くした。コンデンサーの取換えもしくはコンデンサーの位置替えなどで、こうまで香味が変わるはずがない。
 阿闍梨が仏道修行者の頭に香水を注ぎ、修行が終わったことを証明する儀式を閼伽灌頂というが、おそらくボウモアはシングル・モルトにおける閼伽灌頂のつもりで造られたのではないだろうか。もっとも、この件に関して、オーナーはじめボウモア蒸留所の役員はなんらのコメントも発していない。


2008年04月10日

フェノール香  | 一考   

 ウィスキーで繁く用いられるフェノール香とはどのような香りなのか。日本人であればまず漆を想い起こす、はたまた単寧のような鞣革剤、淡めたメントール、染めに用いるナフトール、写真現像薬、接着剤等々、どういってみたところで、フェノールの香りとの距離を縮めたことにはならない。
 友人の医師に訊いたところ、それはツベルクリンかリスターのようなものだと云われた。この医者はひとのはなしを茶化す癖があるので調べると、リスターとはイギリスの外科医で、石炭酸溶液による消毒法の開発で近代外科手術に貢献、と辞書にある。ならば薬用石鹸のことかと問い質すと、そうだとの応え。
 医師を信じると、フェノールはヨード、アルコール、ホルマリン、クレゾール、リゾール、クレオソート、硼酸、晒粉、昇汞、生石灰の類いと同じ仲間だそうである。ツベルクリンの臭いを私は知らないが、薬用石鹸なら身近に感じている。ピートがもたらすフェノール香が薬用石鹸と同一かどうかは定かでないが、なんとなく納得できる。アイラモルトのヨード香とフェノール香は通底するとみて間違いない。


2008年04月09日

柘榴口  | 一考   

 昨夜引用した文章についてひとこと。文中引用の仮名遣いには若干手を入れた。『銭湯新話』に於ける「風呂へはいる所」を「風呂へはひる所」の類いであって、これは校正をなさった方の見落しと思われる。その他、疑問に思われる箇所もあるが、間違いではないのでそのままにした。
 民俗学ないしは書誌学者には馴染めない文章の方が多い。その点、竹内利美氏の文章には花がある。「『幕末日本図絵』所収の」と「『日本遠征記』所載の」というように細かい気配りがなされている。重箱の隅を楊枝でほじくるのが書誌学であればこそ、文章には竹内氏のような細心の心遣いが必要である。

 お名前は伏せるが、昨夜ジュンク堂書店の方が見えられた。二十代半ばの女性だったが、柘榴口をご存じなので感心した。風呂六分湯四分とか風呂四分湯六分といって、柘榴口は出入口の引戸を垂壁式に変え、湯槽の湯を深くしたもので、風呂屋と湯屋の区別を一層曖昧にした。唐破風と共に江戸期銭湯の特徴といえよう。不衛生が理由で明治三十年頃には撤去され、やがて柘榴口の変わりにペンキによる風景壁画が誕生する。
 柘榴口に装けられた唐破風や千鳥破風、入母屋の妻に木連格子に懸魚や凝った彫物を施した書院造風、あるいは宮造りとか御殿造りとかいった柘榴口の装飾モティーフが再度花開くのは、売春防止法が施行された昭和三十三年以降の浮世風呂(今のソープランド)であった。


2008年04月08日

風呂敷  | 一考   

 柳田国男のいう「史心」を調べていて、有賀喜左衛門と竹内利美に行き着いたことがある。別に民俗学について書きたいのではない。過日、高遠弘美さんからドミニック・ラティの「お風呂の歴史」を頂戴した。引用が面倒なので紹介はしなかったが、竹内利美に「「青い目」でみた銭湯風俗」とのエッセイがある。
 ここまで書いて史心か銭湯かで迷うが、「史心」における主体性ならびに「疑問」については書くひとは多くいる。やはり、この場は銭湯であろう。ちょいと長いが引用しよう。当然、著作権は竹内利美氏にあって、版権は雄松堂書店にある。都合が悪ければ、ご一報いただければ削除する。

   「青い目」でみた銭湯風俗          竹内利美

 「入浴好き」はかなりきわだった日本人の習性だが、ことに開けひろげの銭湯風俗は、異邦人の好奇心を強くそそったらしい。鎖国解禁直後来訪した人々の見聞記で、それに触れないものはほとんどない。なかでもアンベールの『幕末日本図絵』所収の「江戸の銭湯(クレポン画)」と、ペリーの『日本遠征記』所載の「下田の公衆浴場(ハイネ画)」の二図は圧巻だ。どちらもザクロ口の模様などまでこまかく写実がゆきとどいているが、ただあまり天井が高く妙に広々しており、浴女の姿態もグラマーすぎてどうもそぐわない感じがする。
 ところで、前者は女湯風景であるが、本文の方をみると「同じ浴槽に男も女もごちやまぜに入れなければならない」としるしてあり、また後者はあきらかに男女混浴で、ハイネ書信にも「最後に熱い湯に浸る——実際この浴室はすべての人に用ゐられるので、老いも若きも男も女も娘も子供も、みんな奇妙に混じり合つてうごめくのがみえる」などと書いているのである。
 そこで幕末期に果して男女混浴の銭湯がまだひろく残っていたかどうかが、いささか気になるわけだ。というのは、すくなくとも江戸では寛政三年(一七九一年)の町触で、「入込湯」が一統に停止になったことは、周知のことであるからである。つまり、「町中男女入込之場所有之、右者大方場末之町々ニ多有之間、男湯女湯と相分焚候而ハ入人少ク渡世ニ相成不申候故、入込ニ仕来候儀と相聞——以来ハ場所柄ハ勿論、場末たリ共入込湯ハ一統ニ堅令停止候」とあるとおりで、「入込之儀ハ一体風俗之為ニ不宜事ニ付相止候」というのがその趣旨であった。当時の入込湯は浴槽が一つで、「是迄刻限を以相分、又者日を分男湯女湯と焚来候者」もあったが、おおむねは混浴にしないと商売にはならなかったらしい。それゆえこの町触にも従来の入込湯はかならず日限をきめて女湯を焚くこと、今後女湯を建て増す場合は「元株」のまま申付けることなどを書きそえているのである。それは寛政二年の布告に「新規湯屋願は今後認めない、ただし男女入込の湯屋が女湯を仕分ける儀は別で、一町を限りゆるす」とあるのと関連してもいた。
 その後は天保改革時の上申書(天保十三年)などにも、女湯は月六斎にし、女の留桶(特約入浴)は禁止することなどは指摘されているが、混浴の件は見当たらない。そして『甲子夜話』(文政四年起稿)に「江都ノ町中ニアル湯屋、予(松浦清、宝暦七年生)若年迄ハタマタマハ男湯女湯ト分リテモ有タルガ、多クハ入込トテ男女群浴スルコトナリ、因テ聞及ブニ暗処又夜中ナドハ縦ニ姦淫ノコト有シトゾ、然シ寛政御改正ノ時ヨリコノ事改リテ男湯女湯トテ男女別処ニテ浴スルコト陋巷ノ湯屋迄モ都下ハミナミナ此ノ制ノ及ビタルト見ユ、彼ノ寛政御政ノ中ニモ弛ミタルモアレドモコノ湯屋ノ事ノ今ニ違ハザルハ善政ノ御金沢ナリ」とあるのを信用すれば、ともかく例外的に男女別槽の件だけはよく浸透したとみてよい。
 宝暦四年(一七五四年)の『銭湯新話』は『浮世風呂』の先蹤といってよいが、そこにも「又片遠所の銭湯には男女入込とて昼中から女も男も一つに風呂へはひる所がござる、それへ表店も張つてゐる、人の女房子をやるはあほうの上品中生、又其様な猥な湯へ入、女中に手足が障つたなどと咎られてはおれが様な馬鹿でも面目を失ふ事、夫より利口発明な若い衆が女中と一時に入込るるは則あほうの上品下生」とあるから、男女別浴はすでに寛政禁令前でも次第に一般化しつつあったといえようか。ただ、京坂地方では「従来男女入込と云て——一槽に浴すことなりしを、天保府令後男槽女槽を分つ」と『守貞漫稿』にあるとおり、若干男女の仕分けがおくれ、また下田などの田舎ではなおそれが後まで残ったのであろう。
 アンベールの記述をよく読むと「ふつう浴槽は最低二つあり、低い仕切りか板の橋で区切られ、どちらも一度に十二人から二十人の客を入れるだけの十分の広さがある。ふつうは女と子供が一方に塊り、もう一方に男が塊まる」とあるから、すでに男女別槽は常態になっていて、混浴はただこの区別が励行されぬ結果にすぎなかったのである。幕末期の好色本の類にもまま混浴図はみられるが、概して浴女図絵は女湯に限られ、式亭三馬の『浮世風呂』(文化六年)もまた初篇四篇は男湯、二篇三篇は女湯と、礼儀正しくふりわけている。
 それにしても日本人の裸に対する開放的な感覚は、ひどく異邦人の目につき、銭湯や行水風俗に強い関心を持たせた。チェンバレンは「もつとも珍中の珍風俗は濡れた布で湯上がりの躯を拭くことだ」(「日本事物誌」)と書き、フィッシャーなる画家も「彼らは毎日入浴する——桶の中で湯を浴びるだけでそこで石鹸も使って桶で冷水をかぶる、だが湿つた拭き布ばかりは気持の良いものではない」(「日本の絵」一八九七年)などと、こまかい観察までしているのである。(新異国叢書 アンベール 幕末日本絵図下 月報13)

 江戸期の「お牢」から今般の鑑別所、少年院、拘置所、刑務所に至るまで風呂へ入るのを行水を使うという。前科者にしか分からぬ文言であって、これは明らかに禊とも潔斎とも異なる。辞書に記載されない語釈だが、平成の今日、行水との符牒が残っているかどうかは知らない。また、江戸時代には水上生活者のために小舟に据風呂を設けた行水船もしくは江戸湯舟も現れた。
 江戸前期までは、銭湯などで入浴の際には下帯や腰巻をするのが習慣で、別に持参した下帯や腰巻とつけ替えて入浴し、下盥で洗って持ち帰った。この下帯を風呂褌、腰巻を湯文字といった。また、濡れたものを包むため、あるいは風呂で敷いて身仕舞いをするための布を風呂敷といい、その名は今日に残されている。


2008年04月06日

川の地図辞典  | 一考   

 芳賀啓さん来店。之潮(コレジオ)から「フィールド・スタディ文庫」と題する叢書がいよいよ発刊となった。第一冊は「川の地図辞典(江戸・東京/23区編)」菅原健二著、第二冊は「江戸・東京地形学散歩(災害史と防災の視点から)」松田磐余著の二著である。
 「川の地図辞典」の腰巻きには、消えた川・消えた地形歩き(アース・ダイビング)必携。明治初期/平成 対照地図280ページ お買得「初版迅速測図」多数収録とあって、究極の大人のぬり絵本誕生と記されている。
 「江戸・東京地形学散歩」の腰巻きには、「氷河性海面変動」が巨大都市の地盤をつくりあげた。災害危険地域はどのように形成されてきたか。いま、切実な「都市の課題」を、その「場所」で学ぶ、とある。
 芳賀さんのいう「歩く・調べる・学ぶ」を地で行く圏外文学のひとつの到達点といえようか。「川の地図辞典」は464頁に及ぶ大冊である。同書から谷田川(藍染川)の項を引用する。

 上流部を谷戸川または境川と呼び、下流の千駄木・根津・不忍池までが藍染川と呼ばれていた。
 かつての石神井川の跡を流れる川である。石神井川が現在の川筋へ変流したのちは中央卸売市場豊島市場(現・豊島区巣鴨五丁目)と染井霊園(駒込五丁目)の間付近にあった長池を水源として北に流れ、北区と豊島区の境を東南に流れる。巣鴨・駒込付近の下水なども合わせていた。北区中里二丁目の先でJR山手線をくぐり、田端を流れる。その後流れを南東に変え、不忍通りの東側を平行して文京区と台東区の境を流れて不忍池に流れ込んでいた。また、一部は池の西側を流れ、池との間には土手が築かれていた。
 水源地付近には染井霊園(明治五年(一八七二)年に開園、高村家(光雲)、岡倉天心、下岡蓮杖、二葉亭四迷などの墓がある)や慈眼寺(豊島区巣鴨五丁目。司馬江漢、芥川龍之介などの墓がある)、本妙寺(巣鴨五丁目。遠山金四郎、千葉周作などの墓がある)がある。
 水路は関東大震災後の昭和七・八(一九三二・三)年から一〇(一九三五)年頃に暗渠化されて道路になった。
 現在、染井霊園付近の水路跡は狭い道路で、その下流部は商店街の染井銀座通りになっている。また、JR山手線の内側に入ると谷田川通りになる。
 谷田川は流域の宅地化の進行とともに、川が豪雨のたびに氾濫する事態が起きたため、大正二(一九一三)年に流れの一部を谷中初音町四丁目(現・台東区谷中三丁目23番付近)から分流する下水道計画が検討された。この工事によって、分流地点からJR西日暮里駅をトンネルで潜り、現在の京成本線の東側に沿って荒川区西日暮里・同荒川を流れて、三河島で隅田川に放流される谷田川排水路がつくられた。この水路も、現在はすべて暗渠化されて、道路になっている。JR山手線・京浜東北線西日暮里のガードを潜り、左へ入りすぐ右に曲がっている通りが旧水路で、藍染川西通りの標示がたっている。

 谷田川が大きく曲がる北端に西福寺(現・東京都豊島区駒込6丁目11-4)がある。この辺りは染井吉野の発祥の地で、江戸城内植木御用を命じられた植木屋伊藤伊兵衛政武の墓がある。その櫻の花に埋もれて辻潤が眠ってい、墓石には陀仙と刻まれている。前述の慈眼寺には辻潤をモデルとした小説「鮫人」を著した谷崎潤一郎も埋葬されている。
 掲示板で書いた記憶があるのだが、福島で芳賀さんに連れられて辻まことの墓へ参ったことがある。切り株の上に搭せられた小さな丸い自然石がそれで、親子共々、墓碑か記念碑か分からぬような塩梅で葬られているのにいたく感動した。
 このようなことを書くには訳がある。「地図は机上および野外における基本用具であり、地図利用の王道は、目的に応じ自ら色をぬり、発見した事項を書きこむ点にある」と「編集にあたって」で書かれているように、最良の地図は白地図である。同様に、図書館の本を読むのでなく、自ら書冊を所有するとは、利用目的に沿った、唯一でカラフルそして実用的な「ノート・ブック」を拵えるところに本意がある。執筆または研究の役に立たぬ蔵書など、さしたる意味を持たない。限定本であれなんであれ、襤褸襤褸になるまで読まれてのマスプロ本である。
 フィールド・スタディ文庫は池袋と新宿のジュンク堂書店で売れている。


2008年04月05日

癇疾  | 一考   

 出雲とか熊野とかいうだけで生理的嫌悪感を催す、ことほどさように歴史、文化、伝統等々、日本的なるものを憎悪している。にもかかわらず、入沢氏の詩を読むことが可能なのは「いつ、どこで」を「なぜ、いかに」へと切り換えるフェリーニ張りの魔術であろうか。もとより、リアリズムで夢を見させるのが幻想小説だが、そのリアリズムを刮げ落としてゆくのが詩歌の務めではあるまいか。幻視とは詩歌のための言葉であって、決して散文のためのものではない。
 先般、のんちさんから「おにがいた」とのメールを頂戴した。「おにがいた」をおそらく相澤さんは意識していないだろう。アナグラムの結果の「おにがいた」であって、ここにはのんちさんの眼力すなわち熟読だけがある。詩歌にあっては、なにもかもが用意されている。だからこそ、予想外の展開もあり得る。この「詩歌」は「想像力」と同義である。
 無理、無体、不可能、なんと言ってもよろしいが、出来ないということを信じなかったひとだけが、海に舟を浮かべ、空に飛行機を飛ばした。「出来ないということを信じなかった」と「出来るということを信じた」では意味合いがまるで違ってくる。それは蝶と猪との違いである。蝶が海を渡り、大陸を横断することは誰もが知っている。それは詩歌によって証明されている。
 永田耕衣、塚本邦雄、葛原妙子、三橋敏雄、加藤郁乎、高柳重信、春日井建、寺山修司、高橋睦郎等々を繙くまでもなく、言葉を覚えはじめた頃の誤用すれすれ、もしくは意図せぬ誤用が新たな面白味を生む。それを「痙攣的な美」という。意図すれば間の抜けた緩慢なものになってしまう。文字を正確(正確などという概念がどこにあろうか)に用いるとは、てんかん・ヒステリー・脳腫瘍・中毒・高熱・テタニーなどを起因とする癇疾を言葉から奪うことにしかならない。痙攣をさらに助長させるところに詩歌の大事がある。そしてその典型が西脇順三郎であろうか。
 イノベーションとネショーベンの違い、それは進化と退化。矜りはひとが纏う皮膚、そして埃は皮膚の残滓。こうしたことを垂れ流してゆくと西脇流の詩が出来上る。詩も死と同じで皆に平等に与えられている。従って、「詩は万人によって書かれなければならない」というのは間違っていない。間違っていないが故の失意であり絶望である。
 さて、のんちさん、どうだろうか。


2008年04月03日

言葉遊び  | 一考   

 「さくら さくら さくらが咲いた くらい くらい お蔵に咲いた」は便宜的に閉じたもので、元は「さくら さくら さくらがさいた くらい くらい おくらにさいた 」です。そのアナグラムから「おにがいた」を読み解いたのんちさんに感服。「さくら」の「くら」と「くらい」の「くら」を掛け合わせたものですが、はなしはそこで止まりません。さすがのんちさんですね。
 かような言葉遊びは中井英夫や相澤啓三さんにとっては日常のものでした。例えば、「幻戯」のなかにもそうしたアナグラムが秘められています。一握りの詩人や歌人、俳人はアナロジーとアナグラムを駆使します。入沢康夫さんもその一人です。だからこそ、「それにしても、相澤さんの詩を誰が読み解くのか。彼の失意の深さを知る」と書いたのです。


2008年04月02日

書店  | 一考   

 文鳥堂書店赤坂店で新刊雑誌を購入していた。同書店は昔、私が造る本をよく売ってくださった。その御礼を兼ねて訪ねたのだが、コーベブックスや南柯書局の本を扱っていたのは先代らしく、ひとしきり思い出話に花が咲いた。やがて文鳥堂書店赤坂店は閉鎖、東京ランダムウォーク赤坂店で雑誌を購入することにした。共に点数は少ないが、商品構成には目を瞠らせるものがあった。
 私は新本を買わないので、申し訳なく思いつつも、赤坂のような街に斯様な書店が在ることを誇らしく思っていた。ところが、ですぺら閉店後の2007年7月20日、東京ランダムウォーク赤坂店も閉店となった。
 先日、「嗜み」を買おうとして赤坂の書店を歩いた。書物に対して慈愛を抱く書店主はどこへ消え去ったのか。ひとは先を急いではいけない。居た堪らなくなったときこそ、自らの席に執心しなければならない。例え、それが破滅への途だと分かっていても。


展覧会ふたつ  | 一考   

 横須賀功光作品展「光と闇を極めた写真術」が催されている。
 4月1日から4月27日、10時から17時まで。入場無料。月曜日が休館日である。
 場所はJCII フォトサロン、千代田区一番町25番地JCIIビル1階。
 電話は03-3261-0300
 東京メトロ半蔵門線半蔵門駅5番出口から徒歩3分
 本展では作家本人が制作したオリジナルプリントが展示されている。それらを印刷したパンフレットが800円で会場にて頒布されている。撮影、印刷共にすこぶる良質。

 「時代を彩る女優展」へ横須賀さんのプリントが出品されている。
 3月28日から5月6日、11時から20時まで。入場無料。無休。
 場所は六本木にある東京ミッドタウン・ウエストの入口、フジフィルム スクエアー。
 電話は03-6271-3350
 都営大江戸線六本木駅8番出口と直結
 東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から徒歩5分
 東京メトロ千代田線乃木坂駅3番出口から徒歩5分
 フジフィルム スクエアー一周年記念写真展で、秋山庄太郎、稲越功一、大竹省二、坂田栄一郎、沢渡朔、白鳥真太郎、立木義浩、横須賀功光が出展している。功光さんのプリントが他よりひときわ傑出しているのは言うまでもない。

 一昨夜、横須賀安里さんが飲みに来られた。AGEのマダム清水弘子さんとの約束があったので一時でお開きにしたが、ずいぶんと話し込んだ。ですぺらへの思いは功光さんと共にある。私の身体の内側をすり抜けてゆく功光さんの肌触りを感じた。幹郎さんのいう絶望の果てにたたずむ刹那の悦楽であった。


2008年04月01日

無用のひと  | 一考   

 ですぺら引越の折、AGEのマダムから新宿への移転を強く薦められた。理由は痛いほど解っていた。だからこそ、新宿界隈の店舗を重点的に探した。しかし、いい物件に当たらなかった。家賃の安いところはやはり赤坂で見付かった。これ以上、私にできることはなにもない。
 昨夜はAGEで酒を飲んだ。ほぼ泥酔である。ちはらさんは私が泣き出すのではないかと心配したようである。べつに泣き出しても不思議はない。それだけの付き合いをしてきた。彼女と私を引き合わせた三枝和子さんは2003年4月24日に逝った。彼女が薫陶を受けた埴谷雄高が亡くなったのは1997年2月19日、遺品の一部はAGEのバックバーに飾られている。
 どうやら、世の中は必要とされるひとで満ちあふれているようである。必要とされるひとは泥酔などしない。シラケ鳥が群れをなして飛び交うと飲屋街では閑古鳥が鳴く。疾風怒濤の時代は遠くに去り、櫛風沐雨は記憶の襞から滑り落ちてゆく。共に、後になにを残そうというのか。生きるに証しはいらない。われら無用のひと。


嗜み  | 一考   

 「嗜み」が上梓された。発売は文藝春秋、定価は800円。カラー六頁を割いての紹介である。送られてきたのは一昨日だが、三月二十日に発売されたようである。ちなみに、ジュンク池袋店には二十部入ってもっかのところ三部売れたらしい。

 ああ、これは十四歳の不良だな、と考える。中学の上級生になって、ナイフなどを懐に入れて、粋がっている。まだ、世の中の怖さを知らない。一匹狼だが、喧嘩の仕方を知らない。春の漁港の突堤の上で、あぐらをかいて、睨みをきかせている。
 そんな風景を想像する。こいつがもう少し樽のなかで寝ていたら、どんなふうになるのか。
 それから数年経った、同じ蒸留所のボトルと飲み比べる。ゆるやかに熟成されていて、味のコントロールもいい。スモーキーさは少し薄れているが、飲み干したあと、香りの余韻が上がってくる。こいつは優等生だな、と思う。しかし、なんとなく儚い。樽の種類も蒸留した年度も違うのだが、勝手にさきほどのボトルと比べて想像する。
 白い夏の光りが見えてくる。十六歳の夏休み。少年が帽子を被り、田舎道を歩いていく。そのとき、突然、優等生を続けるのはもうやめようか、と思った。もっと好きなことをやりたい。蝉の声がジンジン響いて、初めての自由を覚える。海の匂いが吹きつけてくる。将来は何になるのか、まだわからない。

 モルト・ウィスキーを描いて佐々木幹郎さんの筆致は見事である。さらに裏の、別の意味が焚き込められている。詩人はこうでなければならない。それは私であり、あなたであり、誰かであり、そして個々の読者でなければならない。かかる恩愛を持ってモルト・ウィスキーを語ったひとが過去に幾人居ただろうか。耕衣のいう「出会いの絶景」がここにもある。
 
 詩の言葉が、小説と違って万人の好む味や香りに仕立てることができないように、シングルモルトも万人向けではない。好きな者が好きな味と香りを愉しむ。
 一つの樽から生まれるボトルの数が少ないから、飲み干してしまえば、この世から永久になくなる。同じものは二度と作ることができない。この、消え失せるという感覚が、また、いい。
 ・・・・・・
 シングル・モルトを飲んでいると、生きていてよかった、と思うことがしばしばある。いまここにいる手触りだけが確かなとき、酔いは、美しい本のなかの美しい言葉と同じように、グラスの内側で悦楽の極みになる。

 「いまここにいる手触りだけが確かなとき」いい言葉である。その手触りを求めて、否、手触りの確かさを探して、ひとは老い、朽ち果ててゆく。そうではあるまい、やはり翻訳は不可能である。「いまここにいる」という抽象が、「手触り」という具象に恋慕する。慥かなのは手触りだけ。「手触りだけが確かなとき」その手触りを感じているひとはおそらく生きてはいまい。存在しているのか、存在していないのか、透き徹ってしまった存在が、「白い夏の光り」の間を通り過ぎてゆく。
 幹郎さん、ありがとう。私が聞きたい言葉は「生きていてよかった」、ただそれだけ。

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