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2015年11月 アーカイブ


2015年11月26日

痛風  | 一考   

 痛風は足の親指や肩やひじだけではない。ガラスの破片が刺さるような痛みは指にも生じる。指先が捻じれて固着し、オートバイの運転に支障をきたす。ちなみに、手のしびれは痛風に限らない、高血圧も深い関係がある。
 尿酸値は4.2と低く、それが理由の痛風でないと思うのだが、このところ、指先の痺れで困惑している。わたしはビール、ステーキ、フルクトースはほとんど摂取しない。生のスライスしたタマネギが効くとの経験的な民間療法があるが、わたしにはユリノームが良く効く。ユリノームは即効性のある薬でないのだが、なぜかわたしには効く。
 いずれにせよ、痛風、腎結石は共に、遺伝子の介在する余地が大きいそうな。ひょっとすれば、このところの冷え込みが理由なのかも知れない、などと呑気なことを云っていたから腎不全になった。痛風は腎機能低下のもっとも顕著なシグナル、移植を済ませたからと云って安心していられない。


2015年11月19日

バイク修理  | 一考   

 久しぶりにオートバイが帰ってきた。先項で風邪をひいたと書いた、実はまだ引いているのだが、熱は下がっている。で、熱が下がったときに、用事もないのに、三木、三田と走り回った。四輪と違って二輪のバッテリーはすぐ上がるからである。
 明石へ戻り、毎日自動車商会へ向かっているさなか、ラジエーターのアッパーホースが破裂した。よく聞くトラブルだが、わたしにとっては初の経験である。まるでエンジンが爆発したようなショックで、そこらじゅうにクーラントと白い湯気が飛び散り、ズボンは赤錆びたクーラントで泥だらけになった。
 ラジエターキャップに設けられたリリーフバルブは壊れている、サーモスタットは機能していない、ホースは硬化していると、散々だった。ごそっと入れ替えたが、流石に26年を経たオートバイである。前の持ち主はいささか荒い乗り方をしていたようである。それにしても、この様に古いオートバイのパーツがよく入手できたなと思う。
 破裂したアッパーホースは正規品より短く、汎用品を使っていたようである。クーラントには、最近、トヨタが使っている8万Kmまたは4年(新車充填時には16万kmまたは7年)と長寿命な「スーパーLLC」を用いた。これでわたしが生きているあいだは大丈夫である。

追記
 事故後、オートバイはその場で動かなくなり、トラックによる搬送ならびにわたし自身の帰宅に至るまで毎日自動車商会を煩わせた。いつものことながら、感謝している。わたしが這入っているROUTE2000(CFスーパーロードサービス)でも良かったのだが、あまりに近かったので毎日の川口さんにお願いした。


2015年11月18日

ライシテ  | 一考   

 何度も書いてきたことだが、フランスはフランス革命以降、クレリカリズム(教権主義)と闘い、現在の世俗主義すなわち政教分離を手に入れてきた。詳しくはライシテを検索していただきたいが、この政教分離原則は戦後の日本国憲法と同じである。
 ただし、わが国には靖国神社との例外がある。政治と靖国神社の関係については、福岡高裁(平成4年2月28日)判決は公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとし、大阪高裁(平成4年7月30日)判決は公式参拝自体は違憲の疑いが強いとしている。

 1989年秋、パリ近郊クレイユ市の中学校で、スカーフ(ヒジャブ)着用のイスラム系女生徒2人が教師によって教室への入室を禁止された。2010年、公共空間でブルカ等の着用を禁止する「ブルカ禁止法」が国民議会(下院)で可決。下って2015年1月、イスラーム過激派によるシャルリー・エブド襲撃事件が発生。同11月、パリ同時多発テロ事件発生。
 中東からの移民増加とその文化的軋轢が表面化した1990年代以降、フランスの世俗主義とイスラーム教徒とのあいだの掛け違い(誤解)はいずれ過激派のテロと云う形で爆発するのは時間の問題だった。掛け違いと書いたのは、フランスにとっては教権と戦って得た世俗主義であり、それを譲るわけにはゆかない。一方、イスラーム教徒の目には宗教的差別としか映らない。この種の誤解は解かれない、宗教そのものに対する立ち位置がまるで異なるからである。イスラーム共同体について再三触れた理由はそこにある。ものの考え方がぶつかり合っているわけで、解決策などどこにもない。

 フランスは謂わば個の集合体としての国家であって、世俗主義は徹底している。そこに宗教が介在する余地はないのである。言い換えれば、フランスが一種のアッサンブラージュであるのに対して、イスラームは国家というよりは、宗教団体としてのストレートな色調が濃厚なのである。
 イスラーム教徒をムスリムというが、ムスリムは「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味する。そして、ムスリムは宗教的概念であると同時に民族的概念でもある。日本人のキリスト教徒や、アメリカ人の仏教徒が別の民族として扱われることはない。例え、信じる宗教が異なっても。同じ民族として同化しているからである。ところが、イスラーム教徒は同化しない、イスラーム教徒は世界のどこにいても一義的にイスラーム教徒である。どこの国に住んでいようが、まず、イスラームという民族なのである。イスラームが他の世界と軋轢を生むのは当然なのである。マスコミは貧富の差だとか差別だとか囂しいが、的をはずしている。

 ムスリムは信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。そして熱いひとたちである。この熱は、終戦の日をはじめ、2013年の例大祭に集団参拝している衆参168議員も共有している。昨今、一部日本人の右傾化が顕著だが、その実状は彼等が忌嫌う中華思想に代表されるエスノセントリズムそのものでないだろうか。エスノセントリズムの排他とイスラームの過剰なまでの自意識には共通するなにかがある。政教分離原則が必要なのはイスラームだけではない、日本人にこそ必要なのかもしれない。


2015年11月17日

ごま油のアル アヒージョ  | 一考   

 昨今、アヒージョが流行っているそうな。イカ、牡蠣、エビ、砂肝、鶏、ホタテ、マッシュルーム、シャコ、タイラギなどなど、さまざまな商品が出回っている。国産あり、中国産あり、本家のスペイン産ありと賑やかなことである。
 明治屋から国産鶏の洋風アヒージョと和風アヒージョが販されている。洋風はオリーブ油漬、和風はごま油漬である。オリーブ油とごま油では後者が旨いに決まっている。近隣のスーパーでは200円で売られている。固形量40グラムと量の少ないのがありがたい、御薦めである。


大磯の友  | 一考   

 大磯からクロネコがイシダイとカワハギを咥えてやってきた。実は到着前の10日間風邪をこじらせて引っ繰りかえっていた。免疫抑制剤を服用しているので、十分注意を払っているのだが、冬物の蒲団を一日出すのが遅れたために、風邪に罹ってしまった。大量のPL配合顆粒を服用したのだが、後の祭りである。
 それが理由で一緒に送られてきた秋田の銘酒福小町はまだ味わっていない。さるにても、魚の美味たること。5枚に下ろし、カワハギには胆も添えられている。地の魚屋とあるが、新生活を営む新居が大磯とは羨ましい限りである。種村さんが自転車に跨がって走り回っていたのを思い起こす。
 挨拶が最後になったが、おっきーさん、おめでとう。


筋金入り  | 一考   

 書くまでもないことだが、父もわたしも反体制派だった。権威権力といった臭いのするものに徹頭徹尾背を向けて生きてきた。従って、鎌田慧さんの「自動車絶望工場」を読まずして車に乗るようなひとをわたしは信用しない。
 父は満州で片目を失い、戦後は車に乗らなくなった。わたしが子供の頃、進駐軍で働いていた父がジープに乗っているのを見たことがあるが、あれは鳴尾浜のキャンプ内の出来事であって、絶えてハンドルは握らなかった。

 ドイツとわが国の自動車メーカーでは有り様がまるで異なる。ドイツにも派遣社員はいるが、労働条件に社員、派遣社員といった垣根はない。企業ではなく国是としての就業規定である。日本の自動車メーカーは労働者から夢も希望も奪い去る過酷な労働を強いる。所謂「期間工」のそれを云っている。
 期間工の艱難辛苦を知らずして、やれカッコいいとか、このエンジンは回るだとか能転気なことを云っているプチブルを見ていると嘔吐がでてくる。わたしは大衆とプチブルが大嫌いなのである。


「自由からの逃走」  | 一考   

 かつて、イスラーム国の唱える「グローバル・ジハード」に関する池内恵さんの文章を紹介した。「イスラム教徒は、自らが神と一対一の関係で結ばれており、一人一人が神の命令に従って義務を果たす責任を負っていると考える。つまり、世界のどこにいても、国家や民族を超えた一つのイスラム共同体に帰属している、という意識がある。そこから、たとえ他国にあっても、異教徒に支配された国があれば、自ら戦いに赴いてジハード(聖戦)で解放する義務がある」との考えである。
 グローバルが附く附かないに関わりなく、宗教の世界にあってジハードは続く。
 イスラームと書かずに宗教の世界と書いたのは、異教徒といった排他性はどのような宗教であろうと内包しているからである。排他性は宗教という共同体のもっとも基本的な概念のひとつでないだろうか。
 ヨーロッパ中世の宗教戦争の惨禍や、ルネサンスの熾烈な思想闘争を経て現在のヨーロッパがある。一方に、近代自由主義の洗礼を受けていない宗教がある、イスラームである。
 コーラン(クルアーン)のなかの異教徒への抑圧や個人の権利を侵害しかねない特定の章句、排他性、残虐性、暴力的な側面等々は欧米人には到底受け容れ難いものである。今回のフランスでのテロは宗教改革を済ませた国と済ませていない国とのあいだでいずれ起こるであろう闘いがはじまったのである。今後、フランスでの争いは激しさを増すに違いない。

 根っこはエーリヒ・フロムの云う「自由からの逃走」である。自ら判断する自由を捨ててナチスドイツの台頭を許した人々の心理を分析したのがフロムだが、この消息はナチスにとどまらない。関東軍の暴走を支持し、南京虐殺を花火を揚げて祝したわが国の大衆のごとく、またオーム真理教のごとく、自ら考えることを止め、なにかしら権威あるものに縋り従おうとする人々はいつでもどこにでもいる。過激思想乃至絶対への冀求はイスラーム教徒の専売特許ではない。
 思うに、人間の歴史とは個と大衆との鬩ぎ合いでないだろうか。ひとは何時になればアイデンティティや共同体といった概念から解放されるのだろうか。解体を繰り返して自由に辿り着き、その自由から逃走しなくて済むひとたちであれば、ホームグロウンもローンウルフも生れないのだが。


2015年11月01日

アイロン台  | 一考   

 身長が縮むに比例して足も短くなる。よって、頻繁にズボンの裾上げが必要になる。百均に裾上げテープが売っていて手元にアイロンもある、しかしアイロン台がない。
 傘がなければ歌になるが、アイロン台では歌にならない。生活臭こそすれ、ロマンがなさすぎる。もっとも井上陽水にとって、傘が生活で自殺する若者がロマンなのかそれとも逆なのか、敢えて曖昧に設定している。その辺りが陽水お得意の弁証法であり彼の唄の魅力でもある。
 雨と傘は一種のアントニムだが、アイロンとアイロン台もまた意味構造においてペア(対)と認識される。その片割れが拙宅ではどこに消えてしまったのか、さして不思議でもないが。

 そもそも女性が変われば生活万般が変わる。特に、好き嫌いを含めて食べ物に執着乃至固定観念を持つひとは結婚には向いていない。「女性が変わると食べ物がごそっと変わる」と当掲示板で幾度となく書いている。変化を変化として愉しまれるひとであればともかく、味付けの濃淡の違いは諍いのネタにしかならない。昨今、なんにでもマヨネーズを打っ掛けるひとがいるが、わたしにとっては最も迷惑な御仁となる。美貌なんぞどうでも良いと思っているが、癖のなかでも味覚はそのように悠長に構えていられないのかもしれない。
 然は然り乍ら、アイロン台を買ってきた、ただそれだけのはなしである。

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