芳賀啓さん来店。之潮(コレジオ)から「フィールド・スタディ文庫」と題する叢書がいよいよ発刊となった。第一冊は「川の地図辞典(江戸・東京/23区編)」菅原健二著、第二冊は「江戸・東京地形学散歩(災害史と防災の視点から)」松田磐余著の二著である。
「川の地図辞典」の腰巻きには、消えた川・消えた地形歩き(アース・ダイビング)必携。明治初期/平成 対照地図280ページ お買得「初版迅速測図」多数収録とあって、究極の大人のぬり絵本誕生と記されている。
「江戸・東京地形学散歩」の腰巻きには、「氷河性海面変動」が巨大都市の地盤をつくりあげた。災害危険地域はどのように形成されてきたか。いま、切実な「都市の課題」を、その「場所」で学ぶ、とある。
芳賀さんのいう「歩く・調べる・学ぶ」を地で行く圏外文学のひとつの到達点といえようか。「川の地図辞典」は464頁に及ぶ大冊である。同書から谷田川(藍染川)の項を引用する。
上流部を谷戸川または境川と呼び、下流の千駄木・根津・不忍池までが藍染川と呼ばれていた。
かつての石神井川の跡を流れる川である。石神井川が現在の川筋へ変流したのちは中央卸売市場豊島市場(現・豊島区巣鴨五丁目)と染井霊園(駒込五丁目)の間付近にあった長池を水源として北に流れ、北区と豊島区の境を東南に流れる。巣鴨・駒込付近の下水なども合わせていた。北区中里二丁目の先でJR山手線をくぐり、田端を流れる。その後流れを南東に変え、不忍通りの東側を平行して文京区と台東区の境を流れて不忍池に流れ込んでいた。また、一部は池の西側を流れ、池との間には土手が築かれていた。
水源地付近には染井霊園(明治五年(一八七二)年に開園、高村家(光雲)、岡倉天心、下岡蓮杖、二葉亭四迷などの墓がある)や慈眼寺(豊島区巣鴨五丁目。司馬江漢、芥川龍之介などの墓がある)、本妙寺(巣鴨五丁目。遠山金四郎、千葉周作などの墓がある)がある。
水路は関東大震災後の昭和七・八(一九三二・三)年から一〇(一九三五)年頃に暗渠化されて道路になった。
現在、染井霊園付近の水路跡は狭い道路で、その下流部は商店街の染井銀座通りになっている。また、JR山手線の内側に入ると谷田川通りになる。
谷田川は流域の宅地化の進行とともに、川が豪雨のたびに氾濫する事態が起きたため、大正二(一九一三)年に流れの一部を谷中初音町四丁目(現・台東区谷中三丁目23番付近)から分流する下水道計画が検討された。この工事によって、分流地点からJR西日暮里駅をトンネルで潜り、現在の京成本線の東側に沿って荒川区西日暮里・同荒川を流れて、三河島で隅田川に放流される谷田川排水路がつくられた。この水路も、現在はすべて暗渠化されて、道路になっている。JR山手線・京浜東北線西日暮里のガードを潜り、左へ入りすぐ右に曲がっている通りが旧水路で、藍染川西通りの標示がたっている。
谷田川が大きく曲がる北端に西福寺(現・東京都豊島区駒込6丁目11-4)がある。この辺りは染井吉野の発祥の地で、江戸城内植木御用を命じられた植木屋伊藤伊兵衛政武の墓がある。その櫻の花に埋もれて辻潤が眠ってい、墓石には陀仙と刻まれている。前述の慈眼寺には辻潤をモデルとした小説「鮫人」を著した谷崎潤一郎も埋葬されている。
掲示板で書いた記憶があるのだが、福島で芳賀さんに連れられて辻まことの墓へ参ったことがある。切り株の上に搭せられた小さな丸い自然石がそれで、親子共々、墓碑か記念碑か分からぬような塩梅で葬られているのにいたく感動した。
このようなことを書くには訳がある。「地図は机上および野外における基本用具であり、地図利用の王道は、目的に応じ自ら色をぬり、発見した事項を書きこむ点にある」と「編集にあたって」で書かれているように、最良の地図は白地図である。同様に、図書館の本を読むのでなく、自ら書冊を所有するとは、利用目的に沿った、唯一でカラフルそして実用的な「ノート・ブック」を拵えるところに本意がある。執筆または研究の役に立たぬ蔵書など、さしたる意味を持たない。限定本であれなんであれ、襤褸襤褸になるまで読まれてのマスプロ本である。
フィールド・スタディ文庫は池袋と新宿のジュンク堂書店で売れている。