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2007年06月 アーカイブ


2007年06月26日

ちりめん  | 一考   

 しばらくお休みにするつもりが、淡路から小包が着いた。中身は佐野港の高田水産のちりめん、送り主は陶芸家の太田守さん。当地ではちりめん漁の解禁は四月下旬、いまが最盛期である。地元のひとが撰んだだけあって、すばらしく美味。塩味と苦み、天日干し由来のそこはかとなく漂う甘味、縮緬山椒のために仕入れたときの各地のちりめんを軽く凌駕している。なによりも、かくまで小形のちりめんがあろうかと思われるほど小さく、かつ大きさが揃えられている。さっそく箱ごと凍結した。
 ちりめんの入荷にともなって京都から生山椒を取り寄せなければならない。五里霧中の新店舗のお通しはこれで決まった。生きていてよかったと思える贈り物である。太田さん、ありがとうございました。


連絡先  | 一考   

 新店舗はいまなお交渉中、どうなるかは私にも判りません。事情があってしばらく掲示板はお休みします。ご連絡はホームページからメールでどうぞ。


2007年06月24日

消滅  | 一考   

 庭先にまで積み上げられた荷物を前に途方に暮れるばかり、そして暮れているのはわが風采であると認識させられる写真でございます。その質の悪い写真を撮られたおっきーさんの音頭取りで二十三日(土曜日)は十名の夜逃げの予行演習希望者が殺到、感謝の念で一杯です。
 本日はですぺら解体の日、トラックに積みきれない荷物を運ぶために戸田と赤坂を三往復致しました。工事は八時から十七時まで休みなく続けられ、ですぺらは完全に消滅致しました。
 今週は老体に鞭打っての一週間となりました。入浴の時間はおろか、食事の時間すら取られず、腓返りを一夜に二度も繰り返しました。二十三日の深夜、大室さんと食べた肉饅頭が丸二日ぶりの食事でした。
 彼等はいつも笑いを手土産に訪れてくださる。昨夜も「一考さん、そこから先は言わなくていいです」で笑い転げた。どうやら私の駄洒落の構造を読み解かれてしまったようである。同居人もしくは連れ添いにこんなひとはどうだろうかとの私の相談に、まなさんは真顔で「うちの若造くんは譲りませんよ」ここでまた爆笑となる。一家団欒とは縁なき私ゆえ、彼等は余人に代え難い友となっている。
 書類上でのですぺら消滅は二十七日の夕刻、それまではまなさんが言う「冷蔵庫に入れきれなかった日本酒を」飲み続けようと思っている。

 ですぺらコミュニティでケケさんが短歌を書かれている。こちらこそありがとうございました。


搬出組  |  一考

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撮影できなかった方、すみません ありがとうございました...
お手伝い頂いた方々...「ご苦労だった」 (店主?!)。


2007年06月23日

070623  |  一考

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2007年06月21日

23日(土)14:00より御共申し上げます。  | 松友   

御無沙汰しております。松友です。
もしかしたら此方での営業中にお伺いするのは難しいかもしれませんけれど。現況、御約束申し上げております23日(土)14:00~はお伺いする方向で日々奮闘中です。
まずは短信ながら御連絡まで。


報告  | 一考   

 明日の最終日はひとりでも多くの方と話したいので、フードは本日で打ち切らせていただきます。明日はスモークを五人前ほど用意致します。その他にも若干の用意がございますが、注文には応じません。悪しからず。

 松友さん、23日の夜はぜひ手伝ってくださいな。


予定変更  | 一考   

 23日中に荷物のあらかたを搬出しなければならなくなった。22日の閉店後、24日の朝まで私は徹夜することになってしまった。搬出に伴って店の前に車を置かなければならない。私が荷物を運ぶ間、車に乗っていてくださる方が必要になる。免許証はいらない、ただ乗っているだけでよいのである。その間のアンパンとジュースは馳走する。時間は何時でも結構、ご協力を仰ぎたい。


抽象性  | 一考   

 「書物を読んで得るものなど、決定が各人にゆだねられている主観的確率を一歩も出るものでない。読書家はその蓋然性に賭けるしかないのである」を再度引用する。
 文章を著すときにはそのプロバビリティーを逆算することになる。逆算とはいっても、主観的確率に平均値などあろうはずがない。それどころか、個々の読み手の能力の隔たりには想像を絶するものがある。
 その辺りの消息を分かり易くいえば、一般という形での読者など想定しようがない、である。多数がなにを考えているか知り得ようはずがないのだから、不特定多数の読み手を想い描かれないのは当然の結果である。
 従って、書き手は特定の読者を想定する。あのひとならどのように解釈してくれるだろうか、の類いである。私が文章を著すときに想定する読み手の半数は既に亡くなられている。そして、故人であろうがなかろうが、親しくなければ相手の「思考の脈絡」は窺い知られない。相手の思考回路が分からなければ、基準値の算定はかなわない。
 さらに言えば、私が書く文章はことごとくが、特定の個人を意識して書かれている。そして意識の対象は読み手としての個人であって、その個人のことを必ずしも書いているのではない。文章の意味内容が個に拘泥するのを私は好まない。抽象性を加味しないと、アナロジーが有効に働かないからである。
 以上は詰らない書き込みである。しかし、このような形での読書論なら五十枚ぐらいは易い、どなたか新機軸の読書論をお書きいただけないだろうか。


修正  | 一考   

複数のメールを頂戴した。
掲示板の字句の修正は繁く行っている。理由は「アドリブ」へ書いた。
存在は暫定的なものであり、人生は「仮に」という副詞に厚く蔽われている。
よって、字句が修正されるのは当たり前だと思っている。
字句の修正と修正主義とがどのような関わり合いを持つのか私には皆目わかりませんが、修正主義の概念規定はあくまでも相対的なものでしかありえないと心得ています。
さらなるご意見があれば、掲示板へどうぞ。


ですぺらの営業日は今日と明日  | 一考   

 ですぺらの営業日は今日と明日の二日になった。
 店は暇なのだが、この一週間、毎夜酒のはなしができたのは嬉しい。 閉店間際になってやっとショットバーの雰囲気を取り戻したようである。
 連日、掲示板できつい書き込みを繰り返したが、あそこまで書かねばならなかったことを悲しく思う。私はコレクターではないし、愛書家でも蔵書家でも読書家でもない。書物は大事だが、それは自らの「思考の脈絡」を確認し、新たなディメンションを摸索するための道具としてである。結果について論議するのは望むところだが、こんな道具を持っている、あんな道具を持っているとの不調法なはなしに加わる心ぐみはまったくなかった。
 書物を酒や烟草に託してのアナロジーに充ちたはなしならどなたであろうが参加できる。そうした言葉のゲームや屈折した会話を楽しむ術は心得ている。しかし、ストレートな生(なま)なはなしは偏狭なショーヴィニスムやジンゴイズムを生む。
 かつて「オブセッション」で「会話や共感の共有の好例は中世の一味神水に求められる。行動を同じくするひとたちは、お互いのこころの結びつきを確認し合わなければならない。同じ釜の飯を喰うとか、婚礼の三三九度、または献杯や返杯などの喫飯から掛け声や手締めのようなセレモニーに至るまで、集団としての紐帯を強める儀式の材料には事欠かない。しかし、そこには部外者を『劣った者』と見る差別観や強者の奢りがちらついている。儀式の裏面には常にパターナリズムが巣くっているのである」と書いた。パターナリズムに属するものは例え相手が愛書家であろうが蔵書家であろうが読書家であろうが、明白に私が闘わねばならない敵だと思っている。

追記
 上戸下戸に差別を設けるつもりはまったくない。そして下戸であろうとも店への貢献はできる。金を使おうと思えばいかようにも可能である。私が嫌なのはですぺらが談話室として扱われることにある。それは上記パターナリズムと重なり合う。
 このような直截な書き込みを除いて、ですぺら掲示板は行き当たりばったりに書かれてはいない。「その配列、構成によって自分だけにわかっている思考の脈絡の一斑を示」そうと努力している。これまでご理解を賜った、それこそ見知らぬ「少数者」に感謝している。


2007年06月19日

思考の脈絡  | 一考   

 ある時は口汚く罵りあい、笑ひ罵り、誉め喧る、横須賀さんとの一年間は騒擾囂然たる日々だった。一方で互いの肉体を慈しみ、悲しみあい、そして抱き合った。友とはなんなのか、友とはいかにあるべきものなのか。ですぺらはそのための検証の場と化していた。
 「あなたはひとの弱味に付け入り、いかに相手を傷つけるかに心血を注ぎました。でも、それを加虐趣味と解釈するのは間違いです。『傷つけられて怒るのは結構だが、怒りに身を震わす自分をあんたは信じているのかね、無邪気だねえ』『第一、言葉で傷つくなんて本当かねえ、もう少し自分に正直になれば』との独り言が聞こえてきます。それこそ怒っているのはあなたなのであって『人なんて取るに足らない存在なんだよ』ということを知らしめたい。否、知らしめる必要すらなくて、当たり前のことを当たり前として認識した人とのみ言葉の逢瀬を楽しみたい、ひとの言葉で傷つくような嘘つきの輩に興味はない、というのがあなたの真意であり、曲げることのできない原理原則だったのです」と初稿で著した。
 私も十代の頃からプロの書き手を相手に諠譁を繰り返してきた。従って、横須賀さんの「言葉で傷つくなんて本当かねえ」との言葉の意味するところはよく分かる。しかし、時代は変わったように思う。いまでは論争はおろか、言葉のキャッチボールすらかなわない平和な時代になった。同時に人心は脆弱になり、キャパシティもなくなってゆく。
 前項の「書物を読んで得るものなど、決定が各人にゆだねられている主観的確率を一歩も出るものでない」筈なのだが、そうした命題に背を向けて同好の士として群れたがる。度し難い精神の弛みと怠慢が世を覆っている。もし、その群れに対するスペースの提供をですぺらが担ったとするなら、私はとんでもない大罪を犯したことになる。
 「詩人自身がそれらの詩篇を詩集の形で世に表す場合には、その配列、構成によって自分だけにわかっている思考の脈絡の一斑を示すべきだ、と思っています。ボードレールやホイットマンがそうしたように」と相澤啓三さんは著す。彼が好んで用いる「思考の脈絡」を読み解く読者がいまの日本に何人いるのだろうか。二人か三人か、おそらくはその程度の数だろうと思う。理解の及び難さを嘆かしむるのであればともかく、端から理解なんぞ抛げだしたひとびとが読書家を気取っている。ひとつひとつの詩集それぞれに籠められた構成意図を読み解けとは言わない。いとせめて、個々の詩に穿たれた思考の断片だけでも読み解いていただきたいと思う。当掲示板にあっても、その思いは同じである。


2007年06月18日

ほほえみ  | 一考   

 鯉をおもわせる少しぽっとした丸い目のなかに、研ぎ澄ました冷たい一条のひかり、少年期に得られなかった欠けたピースを探し求めるはしこい目線、薄笑いと広いおだやかな白い額にただならぬ飢えを秘め、なにを言っても「知ってるよ」「それも知っています」いかように言葉を返そうが「すべて分かってるよ」と畳み込んでくる居丈高な物言い。身勝手、わがまま、傲慢、不遜の権化のような顔をして、あなたは私を正面から食い入るように見据えました。でも、ひとを喰ったあなたの眼差しは私にとっては遠い日の懐かしいまなざし、少年の頃のせつなさ、はじめてめぐり会ったときの爽やかさのままに、私はもうひとりの私と出逢ったのです。
 ひとがたまらなく好き、だからこそひとを拒否する。でも拒否するのはあなたではなく、それを選択するのはいつも相手側だったのです。「あっそう、なにも分かっちゃないね」とのあなたのさびしげな口癖がすべてを物語っています。あなたの口をついてでるノンは非難や排撃といった能動的なものではなく、言葉のゲームが出来ないことへの失意だったのです。「分かっちゃないね」とはひとの白々しさに逢着したときの自らへの絶望。そう、見果てぬ夢を、友を捜して、あなたも私も共に生を反芻してきたのですよ、数十年のあいだ。
 考えるってなに、思惟するってなに、立ち徘徊るってなに、あなたとの論議の底流には常に不確実性が漂っていました。死を目前にした、定まらない揺蕩う残照がそこに息づいていたのです。残照はふたつの属性をもっていると思うのです。片方には残傷や残心が潜み、もう一方には慙羞、慙色、慙沮などが栖みついているのではないでしょうか。あなたのはにかみには消え入らんばかりの夕日のような輝きがありました。その明るさを気取られるのが嫌で、あなたは距離を詰めようとして常にはなし相手に躙り寄っていました。自恃の撤回を余儀なくされた者にとって、からだとからだを摺り合わせ、触れ合う以外に自己を確認する手立ては残されていないのです。と言うよりも、寄り添っているとき、すなわち話し合っているときだけなのです、自分が存在するのは。そんな宙ぶらりんを選択するしかなかったあなたに、私は心底からの共感と情愛を感じていたのです。
 双方の論理回路を接続するのに四箇月ほどかかりましたね。それからあとはメタフィジカルな禅問答、よくふたりで笑い転げました。「駟馬も追うあたわず」を逆手にとって、取り返しのつかない箇所をたがいに穿っての咲笑い、嬉笑にも怒罵にも相感じる日々がつづきました。あるときは堪えかねてくっくっと、またあるときは輾然と、夜が明けるまで笑いさざめく声が途切れはしなかった。俳諧の軽みのようなきわやかな笑み、風が吹き通るさわやぎのような微笑みのなかにあなたの意気の俊爽を私は見届けたのです。それこそが夢中にあっても決して放心することのなかったあなたの詩精神そのものでした。あなたにとってほほえみは繰り返される人生の途中停車、「生きるってもどかしいものですね」との言葉こそが、戯けであり、飄逸であり、うつうつと最高を行くあなたの表現でした。
 私が「今日は私の負けですね」、あなたは「ここのところ二連敗だったからね」と応す。「そっちへ振りますか」「それは想定外だなあ」「さて困った」「今日は議論の内容を吟味してきましたからね」ひとを追い詰め追い込んでゆくときの張り詰めた雰囲気、そんなときのあなたの顔は輝いていました。どちらが勝とうが負けようが、そんなことはどうでもよかった。ソフィストにとってすべては約束された滅びへのみちのり、「年々歳々花相似、歳々年々人不同」間違いなくひとは変わり、最後は土塊へと昇華されてゆくのです。一昨年の一月七日、朝ぼらけの一ツ木通りでどちらからともなく別れ際に交わされた一言「生きていてよかったね」
 その七日後、あなたは旅立った。蟋蟀は九回脱皮すると言われます。共にいるかぎり、脱皮を際限なく続けましょう、あなたとならできそうな気がするのです。「あなたとなら・・・」この一点にあなたの論理のからくりが、あやかしがありました。ゲームのなかでは頻繁に、あなたがわたしになり、わたしがあなたになります。「それ自体では目に見えない観念が、アナロジイによって、可視的なものになる」ように、互いの見えなかった部分が滲透しあうことによって、白日のもとに曝されていきます。言い換えれば、あなたでもない、わたしでもない、そして誰でもないところの存在、「友」に明解なひとつのかたちが与えられていったのです。「友」が、対置するところのものではなく、相対するところのものではなく、謂わば伸縮自在なオブジェのような共作物であり、明確な輪郭を保つ観念そのものであったと申せば、愛する友よ、お気に召すかしら。


 二〇〇三年一月十四日に亡くなられた横須賀功光さんの追悼文である。「たまや」掲載の「残日を指折りかぞえて」を「ほほえみ」と改題、十七枚を五枚に圧縮し、彼の写真集「光と鬼」に掲載した。いくぶん風通しがよくなったと思っている。
 十六日の土曜日、店を了えてから朝までひとり時を過ごした。横須賀さんが入ってきそうな気配がし、帰宅が躊躇われたのである。店がなくなれば彼との逢瀬もむづかしくなるやもしれぬ。
 こころのなかで彼との対話がはじまり、いつもの右往左往が繰り返される。私の日常のフォルムのなかに、彼はしたたかに生きてある。


ラフロイグ入荷  | 一考   

 ウィスク・イーのインプレッシヴ・カスク・シリーズの第二弾ラフロイグが入荷した。カスクはリフィール・シェリー。1996年蒸留の10年もの、56.6度のカスク・ストレングスである。
 濡れたピート、レモンピール、薬品、ジンジャーなどとチラシに書かれているが、そのような効能書きを信じたことはない。飲んでみなければなにも分からない。しかし、前回の6年ものアードベッグがあまりに暴れん坊だったので、期待している。
 間違いなく、ですぺら最後の仕入れとなる。


好奇心  | 一考   

 ちはらさんから新潟土産に宮尾酒造の酒を頂戴した。好みの本醸造タイプである。純米酒は燗に向かないので、もっぱらアル添を飲むように心掛けている。彼女が私の嗜好をご存じだとは思わないので、まったくの偶然なのであろう。
 それにしても、飲み屋の主人に酒を付け届けするとはいい玉である。臆する色もないとはこのことで、彼女のアナーキーぶりが窺い知られる。健康のためにとの触込だが、ひとの健康をおもんぱかって酒を贈る慕何がどこにいるかと言いたくなる。本気なら珍説、そこを詳しくご教示いただきたいものである。
 冗談はさておき、彼女の酒の飲み方は豪胆である。銘柄は口にせず、ボトラーも問わず、こういう味、ああいう味の酒を飲ませろと指示なさる。銘柄を指示しなければならないとの常識を端から棄てている。なけなしの知識なんぞ、なんの役にも立たないことを知っている。
 長年バーテンをしていると、個々の注文の仕方でそのひとの性格がそれとなく窺える。彼女の場合は、好奇心がジーパンを履いてですぺらを闊歩している。
 空虚と無垢の混淆体が好奇心だと私は思っている。掃除機またはブロッティング‐ペーパーのようなものを想像していただきたい。そして好奇心とは無遠慮なものであらねばならない。彼女はそのあたりの呼吸を心得ている。
 同席なさっていた四戸さんの注文で狼狽える私に「一考さんて、可愛いいんだ」、揚句に頭を数度撫でられた。どうやら呑まれているのは酒ではなく、店主なのかもしれぬ。

 このところ、書き込みによる誤解が続いている。誤解(五階)は六階へ、六階は七階へ、が私の作法ゆえ気にもしていないが、念のために言っておく。以上はすべてほめ言葉である。


悪のすすめ  | 一考   

 贔屓のたばこはアーク・ロイヤル、パイプたばこの紙巻きである。フレーバが気に入っているからだが、それ故に人前では呑まない。葉巻同様、自己主張を嫌がるひとがいるからである。従って、人前ではどこにでもある癖のないたばこを嗜んでいる。マールボロ、ラッキーストライク、キャスター、マイルドセブンなんでもござれである。くわえたばこを賤しむのと共に他者に対するささやかな気配りである。本数を数えて呑むことはない。日々の体調に即して30本から60本位であろうか。話序でに、尾崎紅葉に「煙霞療養」との名著があるのを大書しておきたいと思う。

 文学が消滅という名の錦の御旗を降ろしてから久しい。昨今のエンターテインメント一色のなかにあって、懐疑や弁証と言ったヴィヴィッドな感性は疎んじられ、作品の背後からにじみ出てくる曖昧なもの、目に見えないメタフィジックなものは顧みられなくなった。
 ひとはやがて死ぬとの事実としかるに今ここに在るとの事実、あきらめとやるせなさとが行き交うなか、ひとはあらがい立ち徘徊る。その切なく空しい地下水脈を旅するときの莫逆の友が酒であり、たばこであり、薬物ではなかったか。 
 原水爆がひょっとしてひとを死滅に向かわせるかもしれない最強の玩具だとするならば、酒や煙草はひとの健康を脅かす最古の玩具でありこころ疚しい友と言えようか。「玩具」や「友」を「悪」に置き換えていただければ結構。例えば、なにかに突き当たったときにあいつが悪いとか社会がわるいとか、他に責任を擦り付けるのが子供だとするならば、自分自身のなかの悪に思いを至すのが大人ということになりましょうか。思惟するとはその「悪」に逢着せんがための働き掛けであり道すじなのです。問われるのはたばこではなく、同じひとである喫煙者なのです。喫煙者のモラルのなさに託けてルールを拵え、たばこを閉め出すのは本末転倒かと。
 自己と他者とのさまざまな不協和のなかに、ある均衡点としての交点を見出すための模索が思考であり伝達ではなかろうかと思う。言い換えれば、その恣意的な交信こそが知性だと思うのです。私見は相手の意見を引き出すための仮定であり、対話はおおかたが仮定法で進められます。過程を端折っての罰金つき路上禁煙条例がもしかして官吏の悪意から生じたものならご立派、いわんや千代田区を人類存在のメモリアルパークと化すのが目的ならわたしも協力を惜しまないのですが。
 健康に留意し、長命を念じるのはひとの勝手。さればこそ、こころならずも密咒を呟き、はからずも白鳥の歌を刻み、若くして逝った多くの先達をわれわれは識っている。花のない文学など毒にも薬にもならない。いつの世にあっても、花とはいちずに呪われたものであり、すぐれて不誠実なものである。酒と煙草と薬物は文学には欠かせない調味料。知性に付帯する死臭漂う友であり、時として花をも装う食わせ者、身持ちのわるさは持ち前の身上であろう。滅びの認知に文学があるのではなく、滅びにいかにあらがうかに文学がある。「悪」を相手の駈引きに我を忘れ、傷付き、見喪い、欺瞞の渦中に自己が四分五裂してゆく。こなごなに砕けてしまってよろしいではありませんか。消滅との主旋律をなおざりにして尊厳などあろう筈もないのですから。


 十七日、終日にわたってですぺらの転居をまなさんに手伝っていただいた。雑俳に「てきはきと嫁はそばから杖を出し」とあるが、彼女の手際のよさにはいつも見蕩れてしまう。いまもっとも必要とする友であり、感謝に堪えないでいる。車中、どうして烟草を喫むのかと訊かれた。上記文章がその応えになるかどうか心許ないが、私にとっては唯一のたばこ礼讃である。ご参考に供したく思う。
 二〇〇二年十月に東京都千代田区で施行された罰則付きの歩きたばこ禁止条例に対して郡淳一郎さんから意見を求められた。その折にユリイカへ投稿したものである。字句に若干の修正を施した。


アナロジー  | 一考   

 才能がないと言われて立腹なさるひとがいることに愕かされた。才能の持ち合わせなど、なんぴとにもない筈なのだが。腹を立てるのは自らの才能を信ずればこその反応である。ならば、才能についていかなる意見をお持ちなのか伺いたく思う。
 ここまで書いて「閉店サービス3」は捨て置かれた。しかし、ひとに意見を求めるときは自らの意見を事前に開示しなければならぬ。以下は才能に対する私見である。

 才能は実績である。そして、実績とは他者がへだたりなく認めるところのものである。よって、才能という言葉を若いひとに対して用いるのは礼を逸することになる。素質や素地といった方がふさわしく思われるが、実態は決して先天的なものではない。また、稽古とか修行という言葉ほど虚しいものもあるまい。本を読んだからといって身に付くものでなく、量を書いたからといって旨くなるものでもない。肝要な部分は偶然に委ねられている。
 子供の頃、言葉を覚えはじめるときに駆使されるのは類推である。というよりは、類推があってこそ言語の修得が可能になる。もっとも、類推の結論は蓋然的であって、必ずしも頼りになる推論方法ではない。しかし、書物を読んで得るものなど、決定が各人にゆだねられている主観的確率を一歩も出るものでない。読書家はその蓋然性に賭けるしかないのである。
 才能といった場合、一般的には素質や能力を指すことが多い。前者に私は否定的な見解を持っている。そして後者の「能力」が類推に相応するのではないかと思っている。類推は知識を拡張したり、形成する推論であり、隠喩の理解や生成を底辺で支えている。
 演繹的推理や帰納的推理と違って、類推は一足飛びに知と知のあいだを駈けめぐり結びつける。「オタマジャクシに手脚が生え、尾がなくなって蛙になったり、芋虫が蛹となり、さらに繭を破って蝶になったりするのが生物学上のメタモルフォーシスであり、それら自然界の法則を空想の世界で一挙に実現させてみせるのが文学です」と「みせびらきの詞」で書いた。その変身を事もなげにやってのける想像力の核に類推があると思う。
 「存在の類比」を持ち出すまでもなく、人間の認識能力はすべての存在するものにたいして開かれている。その認識能力、類推能力を高めることが疎かになれば文学が文学でなくなってしまう。言葉を覚えはじめた頃にひとは常に立ち帰らなければならない。


2007年06月17日

五月の別れ  | 一考   

相澤啓三さんから痛みを共感し、再起を願うとのお手紙を頂戴した。
最愛の友からの贈り物に涙する。
ぜひ、一部をここに紹介させていただきたい。
無断なれど、それを叱責なさる相澤さんではない。
とりわけ「五月の別れ」にはわれらが断腸の思いが詰っている。


木木はみな精気あふるる枝交はし谺返さず五月の別れ
赤坂の煌き暗しまたひとりで生きねばならぬ友を思へば
生活の細部ことごとく敵意もち「いかに」と叫ぶ半記憶の刑
はすかひに俗人ばらを切り分けし少年ダビデは神の庖丁


最後の土曜日  | 一考   

 ですぺら最後の土曜日が終わった。営業日は来週の月曜日から金曜日までの五日間である。その後、二箇月間の沈黙を経てですぺらパート2となる。
 次の店はバーであって談話室にはしない。従って、酒を飲まれない方の入店はご辞退する。例え飲まれる方であっても、一時間飲まれないときはチャージが付く。結果、高いものにつくので同様にご遠慮いただく。そのあたりを曖昧にしたまま営業を続けたため、ですぺらは倒産の憂き目にあった。前車の轍を踏むことはない。
 次の店の商品構成は一新する。愕くべき稀少なモルトウィスキーを潤沢に提供する。ご期待いただきたく思う。

 明日はまなさんの、二十三、二十四両日の搬出は松本さんのご協力を得られることになった。感謝している。一段落すれば、どこぞで良い酒を酌み交わしたいものである。


2007年06月16日

閉店サービス2  | 一考   

 話す機会をなくしたので、こちらで書く。
 力作であり輝く部分を内包したエッセーでありながら、しかし食い足りないエッセーがある。その多くは書き手の定規によって対象が歪められる、その歪みに対する異物感でないだろうか。異物が風通しを妨げ、読後感をしっくりさせないケースは多い。その場合、定規を変えるか手放すしか解決策はない。言い換えれば、目線の移動である。
 林達夫や花田清輝のような万能かつフレキシブルな定規を持つひとは幾人もいない。まず自らの定規を疑ってかかるのが定石である。エッセーから時代考証や比較文学の領域に属するものを刮げ落とし、その上で「私」すなわち自らの定規に基づく発言を注意深く除去する。それでもなお、残る部分がエッセーの核になる。あとは重語法の駆使である。ここではじめて修辞法の出番となる。
 「なにをどう述べてみたところで、ものを著すとはメトニミックすなわち換喩であり、重語法そのものである」とかつて書いた。換喩がいくつもの層をなして重なりあい、目に入る世界のさまざまな現象や物質を勝手に巻き込んで行く。そこまで行けば、書き手がみずから関知しない新たなディメンションに到達してしまうこともある。
 じつは同じエッセーの翻訳を二人で平行して試みようかと思っていた。翻訳とは換喩、言葉の置き換えである。これは実に面白い結果、複雑な屈折をもたらす。そうした重語法的エポケーそれ自体が文学でなかったかと思う。


謝意  | 一考   

 なにもはじまらず、なにも終わらなかった。暇を持て余すとはこのことである。ただ、この二週間ほどの間にストレスは解消され、手持ちの悪意が蘇ったように思う。ひとを利用したようで寝覚めがよろしくないが、非常時に至ると、私は姑息な手を時として用いる。
 半端者はどこからも必要とされない、だからこそ逆になにものをも必要としない。それは辻潤から学んだ生活の智慧である。そして私はいつも真剣である。本音と立前との錯綜したかかわりについて掲示板でいくどとなく触れてきた。私には表向きと内向きとのあいだに垣根がない。常に基本的な方針や原則を擬えて生きてきた。従って本音というものを持たない。
 この一箇月、平静さを失い、動もすれば挫けそうになる私を支えてくださったのは、ですぺらのお客であり友人のケケさんである。彼女との晤語は大きな響影を私に与え、そして私の内に小さな改革を孕らせた。ここに記して、満腔の謝意を表したく思う。


書きたくないこと  | 一考   

 選択が自由意志によってなされると思ったことは一度もない。そもそも、自由という言葉の概念の持ちようがまったく異なる。しかし、それを書き出すと長くなる。従って、いずれ別項を設ける。
 ここで書きたいのは私のようなやんちゃな人間と紳士淑女は付き合うべきではないということである。北海道行きを書いたときに憶いだしたことがある。十代のころ、旅をするから付き合えと飲み屋の女性を引っ張り出した。そのまま松山まで趨き、半年ほど寝起きを共にした。その彼女もヒロポン中毒で、松山で親しくするやっちゃんに面倒を掛けた。
 先月、連載の一度の休載を求めて季村さんにメールをお送りした。ひとさま宛のメールだが、書いたのは私なので、一部を転載しても構わないだろうと思う。

 私もいろんな女性と付き合いましたが、過去はおろか、実家、親、兄弟、学歴、賞罰等々、訊ねたことが一度もございません。また、今どこでなにをどうしているやら、皆目見当すらつきません。
 私を育ててくれた父の愛人は界の方にいると聞いたのですが、捜す気はありません。十代なかばの頃、圧倒的な影響を私に与えた同性愛者のピアニストも、吹田の方で存命と聞きましたが捜す気はありません。ある日兵庫署から電話があって、付き合っていた女性の身元引き受けを依頼されましたが、覚醒剤で前科三犯と聞かされました。盲判を押してとりあえず引き取りました。私のもとを去るまでかかわりは続きましたが、ヒロポン中毒だということ以外、あれが本名だったのかどうかも訝しく思っているのです。ただ、海の好きな女性でよく須磨の海岸へ行きました。ひとは描かれては波に掻き消される暫定的な存在です。ひとは現れては去ってゆくもの、それでいいのだと思っています。

 繰り言は以上である。福原で生れた人間に真っ当な人生など送れるはずがない。それを承知しているものの、よく忘れるのが私の欠点である。されば、相手を怒らせてでも、深入りする前に縁を切るのが私の調法である。回りに迷惑を掛けっぱなしで申し訳なく思うのだが、やんちゃに常識は通用しない。
 「当時の私の仇名は『狂犬』、それだけでお分かりいただけるかと思う。十代の頃は荒れていた、ひとも社会も許すことができず、手当たり次第に叩き壊すといった反抗的な生活だった。煉瓦や鉄パイプは言うにおよばず、刃傷に及んだことも一度や二度ではない。触れれば傷つき、火傷するような熱い日々を送っていたのである」とかつて書いた。毒を持つ人間は恐い。唾でも吐きかけて立ち去ることをお薦めする。


 6月15日 23:25に投稿したものの、操作ミスによって消えてしまった。消えたものは消えたでよいのだが、一応再投稿しておく。「北へ」を除く四編はリンクしている。その顛末は後日触れることになると思っている。


呑ん兵衛戯言  | 一考   

 フォーティファイド・ワインは量は飲まれない。ワインのフルボトルを軽く二本あけるひとでも、フォーティファイド・ワインのハーフボトルは持て余す。おいしくいただけるのは最初の一杯で、二杯目で口腔にもたつきが生じ、三杯目でうんざりし、四杯目で悪酔いへの急勾配となる。問題は次の日に酒が残ることでなく、飲み出して四、五時間経たころがもっとも酔いがまわる点にある。従って、フォーティファイド・ワインの飲み会はフルボトル一本で最低五人の左党が必要になる。二本で十人の計算である。それを口実にずっと見送ってき、そして今回も見送ることにした。私の身体の疲れも理由のひとつである。
 楽しみになさっていた松本さんに申し訳なく思う。そのかわり、新店のプレオープンで催そうと思っている。店が小さいため、オープニングは取り止めにする。そして、プレオープンの期間を長く取るつもりでいる。その期間を飲み会に利用しようと思うのである。

 さて、戯言と題した以上、なんらかのたわむれが必要である。私のことゆえ、いささかの悪意に色彩られた餅酒となる。
 およそ知られる世界の酒は飲んできた、そして酒ごとに酔いは異なる。言い換えれば、酒にはそれだけ寒く潤沢を帯びた個性がある。百人のひとがいれば百通りの愛があり、百通りの個性がある、否、そうあってほしいと願っている。ひとであれ、典籍であれ、酒であれ、消息を一にする。私がチョイスの大切さを説き、好き嫌いの排除を薦めてきた理由はそこにある。好き嫌いの排除とは取りも直さず「私」の排除であり、虚心に臨むさまを指す。先入観や偏見をもたずに日々を過ごさなければ新たな出遇いはない。変化に即応する柔軟さと好奇心、それこそが艶かしいまでの個性でないだろうか。


2007年06月15日

岡惚れ  | 一考   

 日本酒に付きものなのは肴ではなく、どうも風景なのではないだろうか。洋酒はその大半が料理に則して選ぶようになっている。食前にブランデーを飲む人はいないだろうし、寝酒にシェリー酒を飲む人もいまい。葡萄酒の場合は肉料理には赤、牡蠣や魚料理をつつく時には白といった飲み分けがある。すなわち、さまざまな酒が目的に応じて拵えられている。一方、日本酒は質の点で異国のそれよりも多様な日本の食事のすべてに申し分なく合う。もしくは全くなにも食べないか、塩をちょっと舐める程度で済む。どうやら日本酒においては実存が本質に先立つようである。喧噪に充ちた穴蔵のような飲み屋にはジンやウオッカのがぶ飲みが似合う、といった套言も日本酒にはない。強いて言うなら花見で一杯、月見で一杯。日本酒は洋酒とは異なり、酒が書割りを、延いては森羅万象を司るのである。萩原葉子さんの「父・萩原朔太郎」に「なぜか私は、父の晩酌にはいつも、暮れかかった庭に、藤が咲いていたような気がしてならない」と著されている。

 上記の文章を掲示板に載せたつもりだったが、検索で出てこない。サルトルの「実存主義とはなにか」を揶揄したものである。同氏の実存と本質の弁証法ならびにアンガージュの哲学には根本的疑念を抱いている。それを詳述すると上記のような文章になる。私が文章を著すときの基準値をご理解いただくために敢えて再録する。ただし、他人の理解なんぞくそったれである。


 | 一考   

 人生に目的がない、目的がないからすることがない。することがないから暇である。死ぬ日まで暇を持て余している。暇だから仕事をしたり、本を読んだり、文を綴ったり、こうして書き込んだりしてのらりくらりと生きている。
 本が欲しいとおもうときもある、女を抱きたいと思うときもある。しかし先立つものがないし、手続きの煩雑さを考えると腰がひける。面倒はご免である。女性を口説くのは「おい、やらせろ」の一言で良い、拒否されればご縁がなかった、どうぞと言われればご縁があった、ただそれだけのことである。
 このようなことをダラダラ書き始めると辻潤のそれになる。怠惰な姿勢を気取られるのが嫌で、たまにレトリックを駆使もするが、本意ではない。

 「閉店サービス」に対してさっそくメールが舞い込んだ。ですぺらにはマゾヒストが多い、その理由を赤裸に述べたまでで、特定の個人を指した書き込みではない。私のことではとの邪推は私の書き込みには通用しない。ただ、どうあっても、金曜日中に書いておかねばならない理由があったとだけ申し添えておこうか。


北へ  | 一考   

 またとない機会なので、七月は北海道へ行こうと思っている。十年前まで、連れがあるときは四輪で、ひとりのときは二輪で北海道を駈け抜けた。海、岬、湖、原生花園のあらかたは訪れた。宿は常に大地、山海の珍味を求めての旅でもあった。
 あれから走り方も変わり、興味の対象も大きく揺らいだ。なによりも、私自身の変貌が著しい。今度行くときはどんな相貌で北海道が迎えてくれるのか。もしかしたら、過去を擬えるだけの旅になるかもしれない。まあ、そんなことはどうでもよい。恋人に逢いに行くのだから、注文はなにもつけない。ただ、私を抱きしめてくれさえすれば。


閉店サービス  | 一考   

 当掲示板の号はですぺら。当然のことだが、辻潤の虚無思想を伝播させるのが唯一の願いである。願いであって目的ではない。いやしくも辻潤の読者であるなら、人生に目的を持つような愚挙には至るまいと思っている。ただし、勝手にそう思っているだけで、実態は存じ上げない。
 この七年余、私自身も幾多の書籍の口入れや編輯にかかわったが、お客さんのなかからも、書籍や詩誌が数多く上梓された。そして店の余命はあと七日、書きたくないのだが、年長者としての責の一端を吐露する。
 同人誌や結社誌は相応の才能の持ち主が集って可能になる。まず同人誌ありきで、あとからの員数合わせなど論外である。こころがあるのなら個人誌をはじめるべきである。過日、書き物は個のはかなごとだと書いた。
 同人誌はそれでなくても悶着が多発する。それが才能と才能の激突なら嬉しい悲鳴になるのだが、大半はたけのこ族の意地の張り合いである。まず、原稿の書き直しを要請するなど考えられないことである。自分で自分の文章の判断がつかないところに最大の問題がある。そのようなひとが十回書き直そうと二十回書き直そうとなにも変わらない。初稿の段階で掲載を拒否すべきで、書き直しを要請する側の無責任さが窺える。編輯とは闘争であり喧嘩である、ひととひととのかかわりを生涯にわたって歪める結果を招く。その覚悟のない者が編輯に携るなどあってはならないことである。
 さて、原稿の書き直しを要請される側である。その場合の要件はふたつ、中身がないもしくは肉声がないのどちらかであろう。要請は叱咤であって叱責ではない、思うにありがたいはなしである。叱咤は自己の確立(なんと薄っぺらな言葉か)、要はひとりだちを促している。そして自立とは自分自身への懐疑であって、慢心を意味するのではない。仕事が多忙をきわめる、生活に煩わされる、他人に引っ掻き回される、孤独が必要だ、心身ともに自由でありたい等々、他者に責任を押しつけて知らぬ顔の半兵衛をきめこむのを慢心という。
 「私」に憑かれたひとがここにもいる。「私」が邪魔をしてなにも見られない見ていないということになる。過日著した「ひとの言葉の読み取り、解体、透過、吸収という一連のサイクル」に無縁で、なんの文学なのか。書くことが目的化するのを馬鹿の骨頂という。猛省を促したい。
 さて、彼たち、彼女たちがですぺら其二へいらっしゃるかどうかは分からない。ただ、お薦めはしない。なぜなら、ですぺら其二は私の個人バーである。重しを私は喪った、されば仮借ない批判が待ち受けている。


2007年06月14日

アドリブ  | 一考   

 旧掲示板では書き直しや修正に難儀があって、書いたものを一旦手元に置き、次の日に読み直してから載せるようにしていた。今回は自分でログインできるので、アドリブで書いている。即興であるがゆえに誤字脱字が著しい。たまに振り返って字句の修正を施しているが、既に十数箇所に及んでいる。例えば上記の「載せるようにしていた」を「載せるとの手法を採っていた」と訂すがごとしである。
 ところで、活字の世界にアドリブは効かない。修正するには組み直しが必要になるし、一度上梓された書冊の字句を訂すには重版の機会を待つしかない。
 ネットと活字の世界の大きな違いはその修正の容易さにあると思っている。意の足らないところ、表現の稚拙なところを掲示板なら気が済むまでさわることができる。活字の場では書きっぱなしだが、掲示板なら反芻可能なのである。この大きな利点があまり顧みられないのは不思議である。


各種ワインについて  | 一考   

 ワインはスティル・ワイン(赤、白、ロゼ)、スパークリング・ワイン、アロマタイズド・ワイン、フォーティファイド・ワインの四タイプに分けられる。香草や果実等の香味を付されたワインがアロマタイズドもしくはフレーバードで、ヴェルモット、デュボネ、ジンジャー・ワイン、サングリア、キール等が代表的。フォーティファイドは酒精強化ワインと訳され、シェリー、ポート、マディラ、マルサーラ、マラガの他、仏蘭西のヴァン・ドゥー・ナチュレルやヴァン・ドゥ・リクールがあり、コニャック同様、百年を超える長期熟成のものもある。フォーティファイド・ワインは高級品になるほど澱が多く、開栓と同時に濁り始める。その日のうちに飲みきるしかない。

 【フルーツワイン】
 サングリアはワインにオレンジや檸檬果汁等の香味と甘味を加えたもので、西班牙の国民酒。キールは辛口の白ワインにカシス(黒すぐり)を加え、風味に変化を持たせたもの。

 【マルサーラ・ワイン】
 シチリアの果実酒。熟成期間によって、フィーネ、スペリオーレ、ヴェルジーネに分けられる。フィーネは甘口、ヴェルジーネは長期熟成の辛口。スペリオーレは辛口が主だが、甘口もある。辛口をスペリオ−レ・セッコ、甘口をスペリオーレ・ドルチェと英国式に表記することもある。
 三十種ほどが輸入されているが、モスカート・パッシート・ディ・パンテレリアとディエゴ・ラッロ社のヴェルジーネ十二年ものが美味。他に、カルロ・ペレグリーノ社の創業年を冠した三十年熟成品ヴェッキオ・リゼルヴァ・ヴェルジーネ1880も美味。
 ですぺらでは三十種すべてを置いていたが、出水扱いのマリニ以外、すべてはホテルに買い取られた。

 【マディラ・ワイン】
 葡萄牙領マディラ島で醸される。スピリッツを加え、乾燥炉(エストゥファ)で最終醗酵させる。温熟の間に白ワインは淡黄色から暗褐色に色付き、マディラ特有の芳香を蓄える。辛口から甘口へ、セルシアル、ベルデーリョ、ブァル、マルバジアもしくはマルムジーの四タイプに分けられる。五〜六十種が常時輸入されているが、ボルゲス社のハーフ・スイートやアントニオ・エドゥアルド・エンリケスの十年ものが美味。更に、値は張るがマイルズ・マディラ社のマルバジアとブァルは共に絶品。
 ちなみに、エンリケス社の製品は十三種すべてが輸入されているが、ジャスティーノ社のものと共に品質は安定、評価も高い。他では1860年創業のベイガ・フランカ社の原酒をシルバ・ビニョス社がボトリングしたセレクテッド・ミディアム・ドライも値の割にはまずまずの味わい。
 ジャスティーノ社ではマルムジーのヴィンテージ・タイプがお薦めだが、近年倉庫の奥から発見されたオールド・リザーヴは特筆もの。十九世紀後半の樽で、コンディションは最高だが、ヴィンテージを特定できず、「Old Reserve」規格として瓶詰め。現存する最古の葡萄品種とされるテランテス種を用いている。同種は、「ワインを造るために神が与えた葡萄」と讃えられ、当時は生食は厳禁。十九世紀末のフィロキセラ禍の後も接ぎ木されることなく、結果、収穫量は激減、ごく僅かの株がマディラ島に遺されるのみ。
 こちらも僅かに二本を残して、約三十本はホテルに買い取られた。

 【ポート・ワイン】
 葡萄牙を代表する葡萄酒で、ブランディーを加えて醗酵を止め、甘味を残す。ルビー、トーニー、両者をブレンドしたスペシャル・ブレンデッド、白葡萄から醸するホワイト、数十年瓶詰熟成するヴィンテージ・ポート等がある。ちなみに、ヴィンテージ・ポートは大量の澱を生じるのでデキャントの要あり。ボトリングから十五年目位が飲み頃。なお、レイト・ボトルドと称する、澱引きを施したヴィンテージ・ポートもある。
 ワレ社、テイラー・フラッドゲート&イートマン社、レアル・コンパニア・ベーリャ社のものが評価高く、廉価版ではカレム社のヴィンテージ・ポートがお薦め。いずれにせよ、コニャックとポートは安物に手を出さないのが賢明。
 他ではグラハム・マルベドスのヴィンテージものがお薦め。葡萄の作柄に恵まれた年にのみ生産されるが、トーニーの樽による熟成とは異なり、同品は長い瓶熟を経る。従って、若々しさと熟成香という相反する香味を併せ持つ。

 【シェリー】
 西班牙の南西端アンダルシア地方のヘレス及びモンティリャ・モリレス地区を中心に醸される。ブランディーの添加によって白ワインの醗酵を止め、甘味を持たせ酒精を強化する。フロールと呼ばれる上面酵母の膜の繁殖度、ソレラと称される独特の熟成システム等で、風味はバラエティに富む。パラミノ種を原料とするフィノ、アモンティリャード、オロロソ。葡萄の品種名でもある甘口のペドロ・ヒメネス。サンルカール・デ・バラメーダ産のマンサニーリャ(フィノ・タイプの辛口)の五つのタイプに分かれる。また、オロロソ自体、辛口と甘口(クリーム)に分かれ、オロロソとアモンティリャードの中間の性質を持つパロ・コルタードも少量ながら生産されている。他にクロフト・オリジナルのように各タイプのシェリーをブレンドしたものもある。

 ヘレス地区のマルケス・デル・レアル・テソーロ社の創業は1860年。フィノはキリッとした味わいとアロマティックでナッティーな香り。トラディショナル・オロロソはヘーゼルナッツの香りと干し葡萄の味わい、熟成を想わせるテイスト。クリームはペドロヒメネスのとろりとした甘さ、杏のような雅な香り。また、同社のティオ・マテオ・フィノは評価の高い一本。
 モンティリャ・モリレス地区のバルケロ社の特徴はデリケートな酸味、ワイン好きには堪えられない。グラン・パルケロはフルボディであるにも関わらずアロマティックなアモンティリャード。
 有名なハーベイ社ではパロ・コルタードにとどめをさす。パラミノ種から造られた逸品で長期熟成古酒、甘味と雅味の調和、ブーケを愉しむに最適のシェリー。
 ハーベイ社と双璧をなすバルデスピノ社は創業年には諸説あり不明。最も古い家族経営のシェリー・メーカー。亜米利加では一番の売れ筋ブランド。アモンティリャード・コリセオの他、パロ・コルタードとマジェスタッドと名付けられた辛口オロロソが美味。皇帝陛下と名付けられた百年超熟成の逸品もある。
 サンチェス・ロマテ・エルマノス社は1781年の創業。家族経営のシェリー、ブランディー専門メーカー。オロロソ三十年とアモンティリャード三十年、ラ。サクリスティア・デ・ロマテ・ペドロヒメネス三十五年がある。
 私がもっとも好きなエミーリオ・ルスタウ社は家族経営のシェリー醸造所。一切の加糖、着香、氷温濾過を施さず、謂わばスコッチのシングル・バレル。香りはユニーク、酒質は軽く極端にドライ。大手メーカーものと比して、フィノやマンサニーリャは些か水っぽく感じられ、好き嫌いの分かれるところ。初手は甘口がお奨め。同社がボトルに冠するアルマセニスタとは、小さな醸造所に携わる人、もしくはそのシェリーのこと。
 ルスタウ社は小規模な生産者から集めたシェリーをブレンドすることなく出荷、生産者名が記されたラベルが多い。ちなみに、全ボトルにナンバーが記入されているが、分数はソレラの最下段の樽の数を表す。エンペラトリス・エウヘニアはトネル樽の逸品、1895年の樽詰めになる百年もので筆舌に尽しがたい一本。
 文中に著した以外では、ウイリアム&ハンバート社のドス・コルタドス、ゴンザレス・ビアス社のデル・デューク・アモンティリャードとノエ・ペドロヒメネス、ボデガス・ピラール・プラ社の熟成品二種、即ちエル・マエストロ・シエラのオロロソとアモンティリャードが特にお薦め。
 こちらは三百本を越える逸品を東京へ持ち込んだが、沖山さんが数本を飲まれたのみ。他は四本を残してすべてホテルへ身売り、酒に対して申し訳がたたず、慙愧に堪えない。


2007年06月13日

縮緬山椒  | 一考   

 広島産だが、まずまずのちりめんが手に入った。で、この店で最後のちりめん山椒を拵えた。最終日まで在庫がある、お好きな方はどうぞ。


男根扼殺者  | 一考   

 櫻井さんが菎蒻の罐詰拉麺について書かれていたが、あれは猫灰だらけを通り越してグロテスク乃至はデカダンスですらある。文学におけるグロテスクやデカダンスは私の好むところではないが、性的なデカダンスは謳歌している。
 ラテン語のim-potensが私の病名である。私の場合は器質的なものではなく、機能的な原因によるものだそうである。機能的インポテンツでは性交に際しては勃起しにくいが、それ以外のとき、たとえば自慰や睡眠時あるいは早朝などには勃起が起こるのが特徴だとものの本に書かれている。要するに勃起神経になんら異常は見受けられないのである。
 挿入に成功しても射精しにくい、または射精できない。それを女性から指摘されることによって萎えてしまう。その繰り返しのなかで、この次も射精できないのではないかという失敗恐怖観念にとらわれ、ついには自分はインポテンツであるという固定観念に陥ってしまう、その典型なのだそうである。「だそうである」 のであって、私はことなる意見を持っている。
 主治医にいわせると、そこいらの心理学や精神分析の専門家では一考に歯が立たないし、ましてや一考がいうことを聞くはずはなく、まったく無駄であるそうな。女が変わればできんじゃないのと、彼は鷹揚に構えている。
 別に射精できようができまいが、たいした問題だとは思わない。それをコンプレックスに思っていないからである。そんなことよりも、インポテンツにはインポテンツであるがゆえの気宇がある。
 冥草舎の西岡さんが書いて人口に膾炙するようになった「君、禁欲とは限りなく淫蕩になることだよ」との塚本さんの言葉がある。この文言に対する出自や詳細には一切触れない。私は扇動家であっても舌禍の一群ではないからである。問われるのは個性であって情報ではない。
 塚本や足穂のような似非ホモは多い。ただ、似非であろうがなかろうが、そのようなこともどうでもよい。本質となんらの脈絡も有しないからである。
 サドの女陰の封印同様、男根を扼殺しなければ淫蕩にはなられない。淫蕩とは妄想の謂いである。これは種村さんの「躄にならなければダメだよ」と消息を一にする。表現者とは人生の故買屋である。そして窩主で売買されるもの、それが妄想でなければなんなのか。

 昨夜、帰りの地下鉄のなかで櫻井さんが私の腹をさすっていた。呼応して「腹がへこみ、久しぶりに息子と対面できたのだから、性欲が黄泉帰えるかもね」


猫嫌い  | 一考   

 私はキニコス学派なので猫は苦手である、しかし魚は好物である。一昨夜「かさね」から飛び魚の棒鮨と胡瓜魚を頂戴した。胡瓜魚の学名はキャペリン、近隣のスーパーではカラフトシシャモもしくはししゃもの名で売られている。胡瓜魚は柳葉魚の従兄弟だが柳葉魚ではない、味がまったく異なるのである。ところがカラフトシシャモを食しても胡瓜の味はしない、きれいさっぱり拭い去られている。まるでブリーチに漬け込まれたようである。ここから先は書かない、営業妨害に当たるからである。
 そうしたことの種明かしは当掲示板でなんども試みてきた。饂飩や蕎麦の食感、すなわち腰の強さを愛でるひとがよくいるが、あの本体はタピオカである。日本では第二次大戦後の食糧危機のさい、輸入食糧第一号としてフィリピン産のタピオカ四百十七トンが放出されたことがあり、現在では主としてタイから輸入されている。
 「添加物によって不必要に堅くされた麺など御免被りたく、自然な歯応えこそが『嚼』の字に相応しいものと心得ます」と書いた。添加物を用いる側が詭弁を弄しているのか、それとも業者にそれを強いる消費者を嗾すメディアが詭弁を弄しているのか、さらにはメディアの弁を鵜呑にする消費者が自らに詭弁を弄しているのか、ことはいささか複雑である。もっとも私に言わせれば企業や政府に責任などあろうはずがない。阿呆な消費者は手に手を取って死ねば結構、猫灰だらけ。


覇気  | 一考   

 二十三日までの営業が可能になった。今日を入れて残りは十日、うち一夜は酒精強化ワインの飲み会を予定している。この間に家賃をつくらなければならないが、それは端からあきらめている。
 ひとりになってから極力話すように心掛けている。従って、複数のお客がいらっしゃるときはお好み焼きは不可能、そこでちぢみを買ってきた。既製品なのでどうというものではないが、食べられないわけではない。

 昨夜は江戸っ子以来の付き合いの小倉さんが来店、小出さんの書き込みを読んでいらしたとのこと。横須賀さんとの出遇いをもたらしたのは彼である。ちなみに、彼は二十一歳の女性と結婚した。私流に言えば、偶然性に対するおそらく生涯最後の賭けを試みたとなる。マラルメからドゥルーズに至るその理を説明する気は毛頭ない。ただ、彼の自らに対する意気込みと締付けのバランスのよさに驚嘆させられる。
 死が目前にあるからといって、だらけた生き方は自分自身に対して許されない。死を意識せざるを得ない情況に至ったときこそ、ひとは一所懸命考える。そして、考えるとは詭弁を弄することでもある。はぐらかしは屡々新たな領域へとひとを誘う。「少年や六十年後の春のごとし」との耕衣句を曲解すれば、年をとるのは年をとっていない者である。ゆえに、年をとった者は若者であるとなる。要するに、私は文学とはソフィストだと言っているのである。


2007年06月12日

ソフィスト  | 一考   

 ありがたいお言葉、恭悦至極に存じます。葡萄酒にかんしては、銘柄を決めての在庫は今後とも維持します。チョイスが売りのですぺらゆえ、まったく切り捨てるということはございません、ご安心を。明日夜に結論が出ると思うのですが、うまく行くと二十三日まで営業を続けられそうです。再開は八月の予定。
 cobraを持ち出したのは今日越に適きて昔至るの類い、ごまかしの人生に範を得ての詭弁です。腓腹筋が絶稜に身を投げ云々は大宮伯爵の句からの連想ゲーム、多田智満子さんの駄洒落づいたる神無月→神在月に基づきます。かような遊びがないと息が詰まります。書き込みの半数はなんらかの意味で書評を構成しています。ただ、書名や著者名を入れるがごとき衒学趣味は持ち合わせず、ひとさまの理解を得ようとの考えは毛の先ほどもございません。

 矢野峰人選集の完成おめでとうございます。矢野峰人、平田禿木、竹友藻風、山宮允の初出誌校訂を試みようと、小出昌洋さんと国会図書館へ半年ほど通い詰めたことがございます。当時はコピーが高くて、二千枚ほどの複写で二人の給金が消えていました。文筆の譎詭に悩まされた時代、それは「日本でも腹を日に干す小舟町」の時代でもございました。空きっ腹を抱えても、野暮だけはやめようねと、二人で頬を寄せ合っていたのです。書誌学の幅を拡げ、明治、大正を加えられないかとの純な目的を当時は抱いていました。その心算は谷沢さんの遊星群—時代を語る好書録によって漸漸現実のものとなりました。
 前項の揀択去取は「凡そ飲食を喫するには、揀択去取すべからず」から奪りました。飲食を読書に置き換えての六十年、もっか人生の食い逃げを諮りおりますが、流石にいささかの綻びが生じてまいりました。身体とはさびしいものでございます。


2007年06月11日

お見舞ひいろいろ  | 高遠弘美   

一考さま。
 さまざまにお辛き御身のうへ、心よりお見舞ひ申し上げます。葡萄の安酒しか受けつけぬ身となりてより、純粋なるモルトウイスキーにおそれをなし、他用のありしことも重なつて、ひとまづの千穐楽に参ることあたはず、失礼をばお詫び申し上げます。再開の暁にはぜひとも御挨拶にうかがひたく存じます。
 さて、腓返りを「こぶらがへり」と云ひしこと、日本国語大辞典第二版には載つてをります。そもそも「こむら」を「こぶら」と云ふ語源に四説あり。今、用字を無視して紹介いたせば、
1 「かぶら」(根茎)と通ずる。根茎と同じく離れた所の意。こは「大言海」の説。
2 「こはら」(小腹)の転。
3 股(ゆら)肉に次ぐ小肉であることから「こゆら」の転。
4 「こぶ」は瘤の意。「ら」は「らか」の反。
 「こぶらがへり」の用例として日本国語大辞典が挙げしは「雑談集」(1305)なり。
眼鏡蛇のcobraの例としては、「蘭説弁感」(1799)があり、いづれにしても「こぶらがへり」とは無縁のやうでありまする。

 しばしば薬局の看板に「脚のつる方、応相談」などと書かれてゐます。年を取るからといふだけではないのかもしれません。
どうかくれぐれも御身大切に。一考さんのお話をうかがふ、否、お目にかかるだけで嬉しくなる者、あまたゐることをお忘れなく。


腓返り  | 一考   

 櫻井さんから気遣いの電話、心配をお掛けして申し訳ない。書き込みへの若干の補足を喋り、安心していただいた。たまに繰り言を書きますが、これも精神衛生の処方、滅多なことで潰れはしません。それと死への憧憬は誰にでもあることで、揀択去取を原則拒む私なればそれも当然と心得ています。

 高遠さんも書かれていらしたが、右足ふくらはぎの腓返りの多発に泣かされている。昼夜を問わず悩まされているが、血中の炭酸ガスを増やすのが手っ取り早い治療法で、対処には慣れている。また車の運転は普段から両脚を用いているので、非常とは言え周章てはしない。
 こむらがえりを私はこぶらがえりと教わった。間違いではないのだが、いかなる地域での名称なのかは調べたことがない。イナバウアーよろしく、蛇のコブラが身を捩るようにふくらはぎの腓腹筋が絶稜に身を投げ、悶絶するところからこぶらがえりという、と覚えていたのである。
 ただ、激痛に目を覚ますので、少ない睡眠がさらに少なくなる。疲労回復の手立てが睡眠しかないのに、その疲労が睡眠の幅を狭めている。老人性腓返りに妙薬はないようである。


2007年06月10日

Oさんへ  | 一考   

 Yさんが亡くなられたとき諍いが生じ、ですぺら掲示板で後味の悪い思いをさせられた。同様に、先日友を失い捫着に巻き込まれている。あるひとにとって悪しきことであっても、あるひとにとっては必ずしも悪しきこととは限らない。さまざまな側面をひとは内包している。従って、どのようなひとにもきっとすばらしい部分があるに違いない。ただ、チャンネルの掛け違いでひととひととの関わりはいかようにも推移する。そして不器用であればこそ、掛け違いが多発する。今回の相方の遁走などもその典型かと自責している。「相手を見て法を説け」との差別的文言を是認するのがいかに切なく悲しいことか、身につまされる思いである。
 私はどうあっても人生のプロにはなられない。おそらく唯一の友であるようなひとにすら、かかわりの凍結を宣する愚鈍な人間である。自らの稚拙を嗤いつづけての六十年だった。現世を離れるときはステキなウィスキーを一本くすねるつもりである。そのときは俗事を離れ、心中に屈託なく二人きりで酔いに身を任せられるひとが現れるであろうと思っている。


とりとめなく  | 一考   

 今朝は六時半に帰宅、一滴の酒を飲むことすらかなわなかった。五月七日以降、はじめて死ぬように顛れた。きつい厭世気分に陥っている。ちはらさんをお送りしたあと、川越街道へ出てからはひどい運転で、急ブレーキを一度ならず繰り返し、自宅へ辿り着けるのかと不安になった。
 彼女から、「一考さんは土曜日はいつもこんなに疲れ果てているのですか」と訊かれた。どうやら、毎週、金曜日にエネルギーを使い果たしているようである。それにしても、この種の鋭敏な感覚は怖い、ほんの一握りの表現者が備える感覚である。穎敏な頭脳の持ち主とは彼女のようなひとを指すのかもしれない。

 「攪拌」で書いたように、自らの疲れを言訳に勝手な物言いを繰り返している。昨夜もりきさんやそえさんにつらく当たった。申し訳なく思っている。こころにもなきことなれば、どうかお気になさらぬように願う。
 そして松友さん、まなさん、上條さんに感謝している。上條さんには閉店までお付き合いいただいた。朝の九時に家を出たので脚はかなり与太っていた、彼がいなければ無事に終えることはかなわなかった。

 のんちさんに肩を揉んでいただいたが、かような体験は七年ぶりである。ピアニストの強烈な握力と指の力を思い知らされた。あれは並みの方なら痛みに耐えかねて逃げ出すのではないかと思う。人工呼吸や心臓マッサージを施せば肋骨の一本はかならず折れる。骨がぼきぼきと音を立てているのが聞こえた、ここちよい肉体の悲鳴にしばし酔いしれた。

 昼過ぎ、Fさんの訪いあり、葡萄一房と少量の桜桃を届けてくださった。このところ、食することに嫌悪を通り越して憎悪感すら抱いている。かかる折になにかに心を摧いていただき忝なく思っている。
 あなたのことは心配していない、だが、心はともかくも、身体は少しはいたわって下さいますかとの言葉を頂戴する。玄関先でのほんの二、三分の立ち話、果実には「風吹不動天辺月 雪圧難摧澗底松」とのメモ紙が挿まれていた。桜桃を口に含み、ひとり号泣する。


ごめんなさい  | 松友・・・ってゆうか、まっちゃん、っていうか・・・   

 本日、受付を承っておりました松友と申します。諸般の事情によりまして、御主人様始めお越しの御皆様様方のお心使いは、もしかして拝領できましたかしらんとか、あまえて御期待申し上げておりますけれど、しかし、私め個人の止ん事無き事情の為かなりの時間失踪させた戴きました事、深くお詫び申し上げます。
 本日御尽力賜っていた御皆様方、併せて御心遣い頂いていたお客様にも勿論の事深くお詫び申し上げます。
 私めにとりましての事情ですがゆえここに深くお詫び申し上げるものです。
 ごめんなさい。
                 松友・・・ってゆうか、まっちゃん、っていうか・・・です。


2007年06月08日

オチなし  | 一考   

 昨日食したるはところてんのみ。絢子さんがよく利用なさっていた近所のコンビニで、ミニミニ弁当と称する梅しらすご飯を購入、これならなんとか食べられそうである。食事制限とストレッチにダンベルなど、体型を維持するために払っていた彼女の努力を想い起こした。同時に荻窪のミニヨンの一階にあった弁当屋に思いを馳せる。この種の弁当(量が極端に少ない)をよくY・Nさんから馳走になった。
 このところ、食費が激減しているので、煙草でちょいと贅沢してみたくなった。好みのアークロイヤルとラムセス二世を購い、加えるにmoonさんからの葉巻、これでウィスキーを飲む段取りが整った。紫煙とともに燻らす香りはアードベッグかラフロイグと決めている。煙いもの同士が似合いである。とは思うのだが、自宅へ戻るとやはり菊正宗。山本六三さんが亡くなったときも長いあいだ日本酒を飲んでいた。
 今日は送られしメールのおかげで少し元気がでてきた、などというプライヴェートなことは掲示板では書くまいと思っていたのだが、たまには許されるだろう。このところの書き込みは特定のひととのあいだで交わされたものである。以上、酔っ払っているのでオチを拵えないままに掲載する。


2007年06月07日

攪拌  | 一考   

 敷居が高いとの注意をしばしば受ける。理由の過多は私の掲示板への書き込みである。分かっているのだが、私の思いもあってどうこうする気はない。
 何度も書いてきたことだが、学識もなにもなく、やんちゃばかりしていた私になんとか方向性を持たせようとして、多くの先達が書物の世界へと誘ってくださった、十代の頃のはなしである。この歳になって、その恩にお返しができないものかと思い、若い人たちを焚き付けている。
 ひとを啓蒙する識見や智力を持ち合わせない。従って嗾しているだけである。扇動であってトンネル工事に用いるアジテーターを言っているのではない。もっとも、攪拌が目的であるに違いはないが。余談だが、モルト・ウィスキーを樽からボトルに移すときは念入りに攪拌する。香りがより高くなるからである。
 このところ処理能力を上回る難事がつづき、鼓舞せんと欲して自らを攪拌している。捏ね回すのはよいが、勢いが余って隣近所に迷惑をかけている。余波を蒙った方々に済まなく思い、そしてありがたく思っている。
 余波と書いたが、別になにが通り過ぎたわけでもない、当分は渦中にある。

 櫻井さんが私の究極のダイエットについて触れたなかで「上から眺めて陽物が見えるようになったよ、がはは」と紹介なさっている。レスを添えたが、こちらへ転記しておきたい。
 「腹を平らにしようとすれば、さらに10kgの減量が必要で、それをすれば身体が壊れます。上から眺めて見えるようになったのはいいのですが、あまりの小ささに愕然。3センチ5ミリはあると信じていたのですが、実体はめり込んでいました。見えたのは皮の先だけ」
 残照が包皮だけではあまりに無惨、これを人生の残滓といわずになんとしようか。虚無の疾病とはげに怖ろしいものである。
 さて、出勤時間はとうに越えている。今日はこれまで。


2007年06月06日

たけのこ族  | 一考   

 「舌禍の一群」で「ひととの出遇いや読書が持って生れた稟質の変更改竄を余儀なくさせるならともかく、拾い得た知識を自らの属性と曲解し、それを出汁に友と称する悉に異しがるべきものを聚めて悦に入るなど以ての外である」と書いた。
 稟質の変更改竄を余儀なくさせることに於いて友も書物も同質である、されば稟質の変更改竄を余儀なくさせない友や書物はなんなのか。それらを私は筍と称している。雨後の筍という言葉があるように、のべつ幕無しに世に顕れる。堀り立て、もぎたてなら柔らかく、一塩でおいしく頂戴できるが、二、三日で堅くなって煮ても焼いても喰えなくなる。孟宗であれ、真竹であれ、淡竹であれ、その消息は同じである。
 一塩でおいしく頂戴できるさま、言い換えれば柔軟さをいかにして持続させるか、そこが思案の為所、勘所である。思案の案の字が百貫するとは毛吹草だが、安易にものを書いてはいけないとの戒めであろう。
 りきさんが呼応なさっているが、書くという行為を考えるのではなく、書くという行為そのものを著せば良いのである。要するに、自分の考えそのものを書くしかない。「書けないという今の状況」「書かねばなるまいという気負い」等々、なんでもよろしいが、どうして対象となる作家が必要なのか。著す対象はいかように推移したところで自意識でしかない。××○○に託つけて、ひとは過剰な自意識と闘い、抗い、「試行錯誤」し、底の見えない渦に巻き込まれて行く。宇野さんが書かれたベールィ、ゴンブロヴィッチ、クライスト、ムージル、カフカ、リスペクトール、ペソア、メルヴィル、ジェイムズ、シンガー、ベケット、アルトー、ジュネ、ドゥルーズなどは皆そうではないか。
 書物でも友でもよい、稟質の変更改竄を余儀なくさせる対象と出遇ったときは喰らいついて離さないことである。その対象こそが自意識の鏡であり投影であり分身なのだから。対象とは客体ではなく、主体そのものでないだろうか。


2007年06月05日

若さについて  | 一考   

 「ほぞ」で書いたが、七日以降の二十三日間で体重が六キロ減った。精神に変化があれば体重が変わり、体重に変化がもたらされば精神も派手な活動をはじめる。やはり精神と肉体は密接な弁証法的まじわりを内包しているようである。体重の変化はひとときのことなので気にはしていないが、あまりに急な変化のために体力の消耗が著しい。痩せるのは好ましいが、月二キロに抑えなければならない。
 体重の減少を止めようと、このところ無理をしてでも食べるように心掛けている。しかし、先日も海苔弁当や丼の並盛にチャレンジしたが、食することはかなわなかった。朝飯の一日一食に戻ってしまったようである。しかし夜はかかさず酒を飲むので、その肴で栄養を補給している。前項で書いたおおむろさんにもマルゲリータを注文していただき、その内の二切れを頂戴した。

 のんちさんこと川津 望さんの精神の変化が私の体躯にも似て目覚ましい。若さがなせるわざなのか、ひとの言葉の読み取り、解体、透過、吸収という一連のサイクルに非凡なものがある。「断碑」で触れたTさんもそうなのだが、人生にカルノーサイクルはない、ことごとくが不可逆なものだということを彼等は身体で諒解している。
 自然界におこる変化は厳密にはすべて不可逆であるという当たり前のことを人はしばしば忘れる。その理由は分からなくもない。これ以上傷つきたくないとか、傷口を拡げたくないといった自己保身が底流にあるように思う。しかし、外界から遮断されたところでなにをいくら書こうが、それは文学とは看做されない。
 エントロピーが最大値になれば、もはやどのような変化も起こらなくなる、それを避けるために、精神は常に動きを、動揺を、搖れを、振れを冀求する。振れとは場の変改であって、精神はその変改を余儀なくさせる。変改を哲学するこころと受け取っていただいて問題ない。ここで強調しておきたいのは精神とは一刻の休みなく揺れ動いているものだということである。
 心にとって外界は唯一の栄養の補給路である。書くことが目的になっては本末顛倒である。なぜ書かなければならないのか、なにを書くのかが反芻されなければならない。そして反芻の原資もまた外界にしかない。「二切れを頂戴した」と書いたのはその消息を示唆している。人生に過剰な変化を意図してもたらすところに大事があり、その過剰な変化を意図して翳めるところに文学があるのではないだろうか。


好青年  | 一考   

 いつも飲んだくれるばかりで、肴を除いて食にさしたる興味はない。 従って、ファミレスというところに足を踏み入れたことがほとんどなかった。
 日曜日の夜はまなさんの連れ添いに案内されてサイゼリヤへ行った。あまりの安さに愕かされ、そして値のわりには旨いと思った。もっとも、私はビールをジョッキで二杯と白ワイン500㎖をデキャンタで注文、食の方はつまみを摂っただけである。ワインはよく撰ばれている。トレッビアーノを思わせる味わいだが、おそらくオスコのテーブルワインだと思う。店内は若いひとで満席、彼等の旺盛な食欲を横目に、不思議な経験をさせられた。どう不思議だったかは別の機会に書く。
 ここで書きたいのはまなさんの連れ添いのことである。ラリーが好きとかで、滅法車に詳しい青年だった。発動機のはなしに終始したが、青年特有の刷り込みがない。刷り込みは言い換えればこだわりになる。好悪を超えて各メーカーのエンジンの特質をじつに正確に捉えている。そして改造にかんしても、ホイールのインチアップやトルクが抜ける太いマフラーには見向きもしない。要するに、風俗としての改造には興味を示さないのである。彼の車は1Jのエンジンを積んでいるが、サスペンションとショックアブソーバを換装したと言う。まったく正しい改造法である。
 ですぺらでお客さん同士がどのようなはなしをしようが私が関与すべきことではない。ただ、はなしを私に振るのだけはやめていただきたい。ショットバーなので、ウィスキーの質問には誠意お答えするが、書物のタイトルや著者名の無機質な羅列に応じる気はまったくない。好き嫌い、良い悪い、名訳悪訳、文章の巧拙等々を無機質と言っている、それらは文学とはなんの関わりもないからである。言い換えれば、風俗としての文学にはいささかの興味もないのである。
 まなさんの連れ添いは「おおむろ」さんと言う。福島の出身というから大室と表記するのだと思う。浩然の気というか、屈託ない彼の顔つきは清しい。良い酒と酔いに恵まれたことに感謝したい。


モルトウィスキーの加水について  | 一考   

 硬貨は用意しているが、札は三万円分の釣銭しか準備していない。この一年間はそれで間に合っていたそうである。ところが、二日は千円、二千円の勘定で、七名のお客さんから万札を出された。近隣の協力を得て対応したが、協力が得られなければ七万円分の札を用意しなければならない。そのような余裕はですぺらにはない。困ったものである。

 困りついでに、モルトウィスキーの加水について一言。
 加水によって香りが増すとの風評がある。あれはまったくのデタラメだと私は思っている。スペイサイドの一部に加水によって香りが変化するウィスキーがある。ただし、あくまで変化であって増すわけではない。それどころか、同割であっても香りのベクトルは十分の一に減少する。氷であれ水であれ、加えることによってウィスキーは水っぽくなるだけである。
 スペイサイドのフルボディ、例えばマッカランやストラスアイラならともかく、アイラモルトはライトボディである。とくにアードベッグやカリラは水で割ると屁のようなウィスキーになってしまう。それがいいといわれれば反論はしない、ただ、ウィスキーが可哀相だと思う。
 モルトウィスキーの特徴は個性の強さにある。その個性をなぜに薄めるのか、理解に苦しむところである。わざわざ淡めて飲むのなら、日本のウィスキーやカナディアンもしくはバーボンのような雑穀で造るウィスキーの方が向いている。
 体調がよろしくない時はアルコール度数の低い酒を飲めばよい。モルトウィスキーの水割りと人生の水割りはあとに悔恨を遺すだけである。


2007年06月04日

報告  | 一考   

 まなさんのご協力を得て、モルト・ウィスキー百四十本を撤収。先月撤収した分と併せて、二百二十本がバックバーから消えました。次回の十日には次の二百本を撤収する予定です。まなさんの他にも、大室さんや松本さんのお世話になっています、ありがとうございます。

 今夜は不動産会社との打ち合わせのため、開店は七時過ぎになります。


2007年06月02日

検索  | 一考   

 海馬車(とどぐるま)の検索で来られた方がいて管理人と大笑いした。私の徒名がとど、とどが乗る車という以外に意味はない。検索されてもですぺら掲示板へ戻ってくるだけである。
 ところで、香辛料で訪なわれる方がすこぶる多い。従って香辛料の頁を充実させようと思っているが、もっかのところ暇はない。香辛料の検索は私もなんどか試みたが、コピペばかりでおよそ役に立たない。ウエブサイトにも著作権を確立させないと検索の労、無駄骨が常態化してしまう。

 ラフロイグのクオーターカスクは先行品とサントリー扱いでは香味が異なることが分かった。先行品がやんちゃで、サントリーのそれは温厚にして美味。軍配は先行品にあがった。
 インプレッシヴ・カスク・シリーズのアードベッグは結局十本購入した。当分は大丈夫である。アベイヒルのラフロイグがエイコーンのキルブライトに匹敵するなら、また購入資金が必要になる。


ラフロイグ  | 一考   

 アベイヒル社からいささか下種なラフロイグがボトリングされます。2000年蒸留、2006年瓶詰、57.5度のシングルカスクです。
 品性悪しく獰猛、素行の不良なウィスキーの典型です。若いだけあって樽の影響が少なく、パワフルな味わいが堪能できます。当然、冷却濾過は施されず、添加物も一切使われていません。
 樽の影響が及んでいないウィスキーを素顔のウィスキーといいますが、これはひとにあっても大切なことで、形振りは時としてもしくは場に即応して捨て去らねばなりません。刷り込みを却け、幼心に戻って懼れを抱いて相対する。それがウィスキーの翻ってはバーにおけるもっとも大切な所作でなかったかと思うのです。
 アベイヒル社はスコットランド・アバディーンに本拠を構えるボトラー、キングスバリー社の関連会社と言われています。過去数回に渡りボウモアのシングルカスクを角瓶でリリースしています。そちらはあまり感心しなかったのですが、今回は期待できます。頒価は七千四百円の予定。

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