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2008年07月 アーカイブ


2008年07月31日

金子國義さんについて  | 一考   

 金子國義展へ行ってきた。足を引きずりながらであったが、あまねさんと約束していたので無理を押して出掛けた。会場は「L'Elegance」のサイン会で賑わっていた。
 如何な作品であろうとも、それは描き手の歴史観や世界観を如実に顕している。従って、詰らないものは詰らないし、詰るものは理句義のよく詰る仕掛けになっている。何を持って詰らないと云うのか、その事訳は簡単である。多くの作家や物書きは自らの美学を信じ、自らの文章を矜る。自分の体験や価値観がものをいう世界に繭籠もり、いっかな殻を開こうとしない。孤高などという障壁を大事に抱え、抱え込むだけならまだしも、その境地に安住してヒステリカルにまわりを睥睨してみせる。大尽風を吹かし己が空疎な知識をひけらかす俗人たち。彼等の言うことはことごとくが大本営発表である。文学そのものはともかく、そこから得た知識が自らの考えや生き方になんらの影響も与えていない。まるで生き方と知識とが別会計になっているかのようである。「それは小説のなかのはなしだから」とよく云われるが、そのような詭弁を人生に対しても抱いているなら悲しいことである。
 知識の反映の結果が大本営発表(欺瞞とでたらめの代名詞)では、箸にも棒にもかからない。そして、言葉に対する美意識や矜恃を持ち出すようでは未熟の謗りを免れない。会得していて当たり前で、ことさらに強弁する理由がどこにも見当たらない。美などというものはおよそ芸術にとって副弐的なものに過ぎない。浮きて流るる細波のごとき波動、振幅、屈折のようなささめきが皆目見受けられないのである。
 その点、金子國義さんは面白い、作品と人とのあいだになんら乖離がない、これは簡単に思われて大変なことである。金子さんは一見趣味の人であり、一流の美学に支えられた楽園を顕現しているようにも思われる。「L'Elegance」の文中にも「好きなものと好きなものを組み合わせるのが肝心でそこからいいものが生まれる」との金子さんの言葉が引用されている。ところが、この文章の要点は「組み合わせ」にある。思うに、彼の組み合わせはあまりにも大胆である。傍若無人と云っても差し支えはない。「そこからいいものが生まれる」と書かれているのは一見、弁証法的展開のようにも思われる。もっとも、弁証法的であろうとなかろうとそのようなことはどうでもよい。問題はかれの好奇心の旺盛さにある。彼は尻込みしない、ひるまない、作品と人とのあいだを填めるために日夜邁進する。その飢餓感に、私は旧家の今際の炎を想い起こす。
 芸術とは野放途なものである。際限やしまりがあってはならない。一切の約束事や因縁、来歴は積極的に拒否しなければならない。言い換えれば、人生に禁忌があってはならないのである。さらに大切なことは一度拒否したならば、死ぬ日まで拒絶し続けなければならないということ。金子國義さんを見ていて個の冒険者を憶う。


旧字の薦め  | 一考   

 一度削ったものの、問題はなかろうと思い再録する。

 昨夜、加藤郁乎さんが来店。考えてみれば郁乎さんは会津藩士の末裔、とすれば御預一千七百四十二名のなかに入っているはずである。今度機会があればと思ったが、私が家系図を繙くことは二度とない。郁乎さんと私のあいだにもきっと不思議な縁があるのだろう。
 酒井良佐、八木操利、渡邉千之助ら八十八名は高田藩を脱藩、神木隊を編成して彰義隊と合流。上野で官軍と激闘のあと、一部は会津戦争へ、一部は榎本武揚の蝦夷共和国に渡り、伝習士官隊、遊撃隊、新選組などと共に第一列士満を編制。函館戦争で神木隊は全滅する。
 「上越市史・通史編」や「浅川町史・第一巻」には寛政10年(1798年)正月、越後高田藩浅川領内で起きた百姓一揆について著されている。仕置きをしないとの領奉行の申し渡しを破り、一揆を主導した者は捕えられ打ち首になった。この浅川一揆に対する権力者側の言い分など私が知りたいことは多い。
 一級資料と云ったのは家系図そのものにあらず、一緒に綴じられた書き込みにある。江戸時代の上級管理職の苦衷のほどが淡々と綴られている。ただ、書体もさまざまにして字体はことごとくが俗字、なれば私に読み解くことはかなわない。

 思うに、美華書館に範をとった築地活版製造所や秀英舎に端を発する活字の歴史などはなしにならない。況や第二次世界大戦後に現れた正漢字なる概念など笑止千万。一点之繞と二点之繞の違いや、三画の草冠と四画の草冠の違いなどはなしを不必要に混乱させるばかりである。当用漢字、正漢字などという不毛の争いはやめて旧字や俗字を大らかに用いればよいと思う。
 正漢字を意識して用いはじめたのは塚本さんだが、当時の編輯者にとっては正漢字と俗字の区別すらつかず、みなさん諸橋大漢和をこぞって購入したものである。その塚本さんにしてからが、この漢字は冨山房の、こちらの漢字は角川のそれをと言い出す始末。何をもって正漢字とするかの定見はどこにもない。その水掛け論を私は笑止といっているのである。
 先頃、間村さんが句集を上梓されたが、その「間」には百けんのけんが用いられていた。渡辺のなべにしてからが邊が正字にして邉が俗字だとか。しかるに古文書で邊の字は見たことがない。現在の大家の姓はクワムラだが、そのクワは木が三つである。柿なども正字を用いるのはその人の勝手だが、見ていて滑稽である。
 そもそも正字の範をかつて用いられていた旧字にとるのであれば、木版を含めて印刷会社(要するに母型や版木)の数だけの漢字がある。字体が異なるからと云って、誰もそのことに不自由を感じなかったのである。返り点が付いていようがいまいが、そのようなことはどうでもよい。問題は書き文字を活字に置き換えようとした戸籍事務の電算化にある。後述する「担当者」から為の字の四点が連なっているので一にすべきだと、これは某大学の学者(名前も聞かされた)が口にしたようである。古文書を読み解くに学者では覚束ない、草書または行書などくづし文字を知り尽くしている書家の手を借りるにしくはない。書き文字をそのまま活字にしようとするから無理が生じる。

 「はなしは旧字、略字にとどまらない。渡辺の辺には六十五種類、斉藤の斉には三十一種類、佐藤の藤には十四種類、高橋の橋には六種類の異体字が謄本や住民票で用いられている。かつて当掲示板で改名について書いたが、明石の市役所で六十五種類の「辺」を見せられて愕然とした。まるで八百屋の店先で今日の「なべ」に入れる具材はどれにしましょうかと、品定めをさせられているような塩梅である。
 異体字が際限なく膨らんだ理由の半分は謄本をデジタル化するときの書き文字の判読にあり、あとの半分は官による字体の統一がなされなかったところにある。之繞の崩し字の「てん」が繋がっていればひとつ、分かれていればふたつ、といった滅茶苦茶な分類・識別が繰り返されたと担当者から聞かされた。
 国家や政府による規制の有無に対して私は意見を持たない。ただ、「りったつ」の「てん」や「そうへん」または「はね」や「かえりてん」のように、字形の異なる母型が無数に存在する理由はすべてを民間に委ねたところにある」

 とかつて掲示板で書いた。オフィシャル・ボトル同様、正字などというもっともらしい権威主義的な表記が人を狂わせる。歴史的仮名遣いはともかく、正漢字は古文書のなかにはほとんど存在しない。


新入荷ボトルの一部  | 一考   

 ヘヴィリー・ピーテッドの寡多録を解体して本体へ収録。新入荷ボトルの寡多録を新しくした。それに伴って寡多録の三分の一を刷り直した。このところ、ボトルの新陳代謝が目まぐるしく、二箇月に一度は寡多録を刷り直している。
 クラガンモアの17年と29年の在庫はほぼなくなったが、新規に購入した。エイコーン扱いのグレン・キース(イアン・マクロード、13年43度)とポニリ・ジャパン扱いのブナハーブン・ピーテッド(シグナトリー、10年46度)とスリーリバーズ扱いのブレイヴァル(イアン・マクロード、11年46度)が入荷した。売価は1000円から1300円のあいだ。
 ブナハーブン・ピーテッドは前回紹介したカスク・ストレングスの加水タイプ。アン・チル・フィルタード・コレクションの一本、リフィール・シェリー・バットで852本のリミテッド・エディション。ポートエレン・モルティング社のモルト(38ppm)を使用。チーフテンズにはたまに失敗作があるが、アン・チル・フィルタード・コレクションは後熟がうまく行っている。今のところ失敗作に当たったことはない。ブナハーブン・ピーテッドもすこぶる美味である。
 
 「嗜み」第二号の取材先が目白の田中屋に決まった。いよいよ栗林幸吉さんの出番である。ウィスキーとワインに関しては東京随一の酒屋である。地酒日本一の神戸のすみの酒店の先代から和泉を教わり、その和泉のワインの卸し先ということで私は田中屋を知った。もっとも田中屋で私はモルト・ウィスキーしか買っていないが。とにかく栗林さんはウィスキーに詳しい。十年前、二十年前のモルト・ウィスキーのはなしが自在にできるのは彼しかいない。
 今回は酒のためなら乾坤を賭すといわれる佐々木幹郎さんが相手である。栗林さん曰く「要は飲ませてりゃいいんでしょ。飲ませるのは得意ですよ」幹郎さんは彼となら間違いなくはなしが合う。実はさらにめずらしいウィスキーをと、三回目にはエイコーンを考えている。バーの次が酒屋、その次がインポーターで、そのまた次がボトラー、その次に蒸留所を予定している。勝手にボトラーも蒸留所も決めているのである。


2008年07月29日

自家中毒  | 一考   

 湯川成一の名で検索しても当掲示板のほかには出てこない。ある時期ある時代がウェブサイトから欠落しているのは周知だが、人の興味のありようは想像以上に偏っている。
 先日、木村さんと話していて思ったのだが、やはり出版は自己満足ではできない。自己満足を辞書で引くと「客観的評価に関係なく、自分自身にまたは自分の行為に自ら満足すること」とある。「関係なく」とあるからには「客観的評価」などどうと云うこともない。問題は「自ら満足する」にありそうだが、どのように考えても自らに満足している出版人などいそうもない。居るかもしれないが、それはよほど経済的に恵まれるか権威・権力を手にした人だろう。この経済と権威は一枚のコインの裏表のようなもので、互いに相殺し合っている。
 もしくは「自ら満足する」可能性があるのは、しかるべき対価を得た人ではないだろうか。それならば、経済活動を自らの為事としている人などは似つかわしい。銀行員から大学人、経済的貢献は少ないと思われるサラリーマン編輯者から傭われバーテンダーに至るまでがここには含まれる。
 組織に属していようがいまいが、人は大概が自分を過大評価している。よって自己満足はしていないとの声が返ってきそうだが、もともと客観的評価なんぞこの世の中に存在しない。かつて年功序列から能力給に切り換えたとき、サラリーマンの九割以上が自分の給料が上がると信じ込んだ。これなど、笑えるはなしではないか。これも嗤えるはなしだが、自分の頭が良いと思っている人の比率はなんと九十八パーセントだそうである。そしてなんらかの選民意識を持っている人は九十九パーセントを超えるそうである。間違いなく、この九十数パーセントは自ら満足している。
 どうして自己満足のはなしになったかといえば、湯川書房や南柯書局の本は原料費の段階から原価割れを起こしている。ですぺらにしてからが、十三万円(6、70年代のアードベッグ)のボトルを一杯五千円で売ると十万円にしかならない。その赤字は一杯千円ほどのウィスキーで購っている。経済の法則を無視しているが故に自己満足ではないかとの論法である。吉岡実の限定本は一冊あたり十五万円掛かったが、売価は二冊(薬玉とポール・クレーの食卓)で十五万円だった。これは金のある時に原材料の多くを購入していたからである。当然、購入していた材料費は加算されていない。死に際に帳尻が合えばそれでよいと思っている。もし死に際に間に合わなければ自死すればよいだけのはなしである。
 この辺りからはなしはアナーキーになってくる。自己満足はおろか、自己なんぞ一体全体なんぞやと云いたくなる。好きな本を好きに造って好きに死んで行く。そんな本を買う物好きは百万人に一人しかいまい。売れようが売れまいがそのようなこともどうでもよい。かわべの佃煮と共に送られてきた手紙に「龜鳴屋は自律神経に失調をきたし、長期スランプから脱け出せずにいる」と勝井さん。しかるに少々本が売れてくれればスランプはどこぞへ霧散する。そうした繰り返しのなかにわれわれはいる。経済活動でないところにわれらが寄る辺がある。されば、われわれは小児性嘔吐症、いわば重度の自家中毒患者なのである。


歪み  | 一考   

 日曜日はオートバイの修理。一日ではなにも片づかないが、取り敢えずハンドル回りを分解。フロントフォーク、ステム、ブリッジを分解して再度組み立ててみると、思っていたよりも歪みは少ない。ブリッジの三角の部分をもっとも心配していたのだが、速度を出さなければ大丈夫そうである。
 どうやら歪んでいるのはハンドル・バーのようである。それなら身体を捩って乗れば問題はない。もっとも、ひとの身体は左右シンメトリーには出来上っていない。私の場合は大本のこころが大きく歪んでいる。斜に構えて世の中を睥睨するのはもっとも得意とするところである。
 衝撃でメーター内部の電球が切れていたので取換え、純正品の3ワットが手に入らず、四輪用の1.5ワットで間に合わせる。内部には六つの電球が入っていたが、それぞれワット数が異なる。面倒なものである。しかし、夜間に視認できれば問題ない筈。
 ブレーキディスクローターの歪みは素人にはどうすることもできない。練馬の車検場の裏に研摩屋があるのは知っていたが、オートバイというだけで断わられてしまった。
 もっか、ウィンカーの入手待ち。ウィンカーが入れば取り敢えず動くのだが。

 このところ、幹郎さんのところで書き込みが続く。ミクシイの足あとが幹郎さんの友人ばかりになった。当掲示板でしか私は書き込みをしないので、マイミクになられてもなにもない。それでもよろしければマイミク歓迎である。訳知り立ての文学者や物書きくずれはうんざりだが、野放図な幹郎さんの友人なら「わたしの友人か、友人の友人でもあります」


2008年07月28日

若いアードベッグを飲んで  | 一考   

 アードベッグ蒸留所の創業者はアレグザンダー・スチュアート。創設は1794年だが、その年のうちに敢えなく倒産。1815年にマクドゥガル社が再興、同社は1959年に経営が行き詰まった。以降はアードベッグ・ディスティラリーズ社のもとで生産が続けられたが、1973年にカナダのハイラム・ウォーカー社の傘下に入った。1981年から操業は停止されていたが89年に再開。1997年にグレン・モーレンジ社が買収、グレン・モーレンジ社は04年にルイヴィトン・モエヘネシーグループに買収された。
 フロア・モルティングが最後に行われたのは1976年から77年にかけてであり、80年代の閉鎖期間の後はポート・エレンが供給する麦芽を用いている。ヘビーにピートを焚き込んだ昔ながらの自家麦芽を用いたモルト・ウィスキーの蒸留は98年から。わが国では20008年7月25日に10年ものがお目見え。

 どこの蒸留所もそうなのだが、さまざまな香味のウィスキーを造り、それらを混ぜ合わせて蒸留所元詰めを発売する。従って、テイスティングもしくはブレンドをする人のセンスひとつで酒はいかようにも化ける。
 今回、アードベッグを十二種類飲んで、旨かった順に書けば、コニッサーズ・チョイス、マーレイ・マクデヴィッド、オールド・モルト・カスク、インプレッシヴ、リンブルグ、プロヴァナンスとなる。アルコール度数の違いは差っ引いている。要するにディスティラリー・ボトルは順位に入らない。敢えて申せば、加水タイプの10年ものなら入れてもよいというのが私の評価である。
 ウーガダールを飲んだときにバーベキューソースやスペアリブにつけるソースのような味が濃厚で嫌な予感がしたのだが、それが的中してしまった。前述のウィスキーと比して、なにかしらディスティラリー・ボトルには雑味が伴う。ピートのフェノール値を高めた結果だとしたら、いささか切なくなる。しかし、フェノール値の問題ではあるまい。パシフィック・カレドニアン社のアイル・オブ・ジュラ、グレン・スコシア・ピーテッド、キャパドニック・ピーティー・バレル、シグナトリー社のベンリアック・ヘヴィリー・ピーテッド、ゴードン&マクファイル社のベンローマック・ピート・スモーク等を私たちは知っている。
 上記のうち、ゴードン&マクファイル社からダンカン・テイラー社までの四種類にはやわらかさの中に、ほんのりとした煙香が漂っている。ピート香よりもさらにソルティーな味わいが強調されている。これはポート・エレンにも共通した香味で、ソルティーなポート・エレンといえばゴードン&マクファイル社のカスク・ストレングスにとどめを指す。「接着剤と含嗽(がんそう)剤を綯い交ぜたエキセントリックな臭い。塩辛く鋭角なこく。舌を刺す刺激と極めてスパイシーなフィニッシュ」といった表現はレアモルトやポート・エレン・モルティング社名義のボトルからは窺われない。ユナイテッド・ディスティラーズ社のポート・エレンはカスク由来のシェリー香が強く、旨すぎて本来のポート・エレンとは懸け離れている。
 ブレッヒンほどではないにせよ、アードベッグのディスティラリー・ボトルにはココアパウダーもしくは胡瓜のへたのような苦みが感じられる。それは10年ものを除いて、アリー・ナム・ビーストからルネッサンスに至る全商品に共通している。それが蒸留所としての姿勢なら仕方がない。ゴードン&マクファイル社はアードベッグ蒸留所との契約更新がかなわなかったと聞く。されば、ダグラス・レイン社やダンカン・テイラー社のシングル・カスクを飲むしかあるまい。それにしても、リンブルグのボトルはディスティラリー・コンディションである。蒸留所のブレンダーの手が入らなければ、かくまで旨いアードベッグがボトリングされる。管理体制の刷新を強く望む。


2008年07月24日

ですぺらモルト会  | 一考   

7月26日(土)の19時から新装開店後、七度目のですぺらモルト会を催します。
会費は11200円。
ウィスキーのメニューは以下のごとし。詳しい解説は当日お渡しします。
今回はアードベッグ・ルネッサンスの発売に合わせた飲み会となります。同じ蒸留年数の6、8、9、10年ものを順次味わうことができます。序でにリンブルグのウィスキー・フェスティバルへ出品されたディスティラリー・エディションのスティルベリーヤングも加えます。
他に若いアードベッグの加水タイプ三種とプリファード・ストレングス一種、カスク・ストレングス二種、そしてアリー・ナム・ビーストを加えました。
今回は隅田川花火大会のために参加なさる方が寡なく、ゆるりとモルト・ウィスキーの話ができると思います。

ですぺらモルト会(若いアードベッグを飲む)

01 アードベッグ '90(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの11年もの、40度。
02 アードベッグ '90(ダグラス・マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。バーボン・カスクの10年もの、43度。
03 アードベッグ '90(マーレイ・マクデヴィッド)
 バーボン樽の9年もの、46度のシングル・カスク。
04 アードベッグ・アリー・ナム・ビースト '90※
 バーボン・カスクの16年もの、46度のディスティラリー・ボトル。
05 アードベッグ '91(スコッチ・モルト・セールス)
 ディスティラリー・コレクションの一本。バーボン樽の10年もの、60.1度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。
06 アードベッグ '93(ダグラス・レイン)
 オールド・モルト・カスクの一本。10年もの、50.0度のプリファード・ストレングス。限定348本のシングル・カスク。
07 アードベッグ '00(ダンカン・テイラー)
 インプレッシヴ・カスクの一本。6年もの、62.7度のカスク・ストレングス。
08 アードベッグ・ベリーヤング '98※
 ディスティラリー・ボトルの6年もの、58.3度のカスク・ストレングス。
09 スティルベリーヤング・アイラモルト '00(リンブルグ)
 リフィール・シェリーバットの7年もの、59.1度のカスク・ストレングス。
10 アードベッグ・スティルヤング '98※
 ディスティラリー・ボトルの8年もの、56.2度のカスク・ストレングス。
11 アードベッグ・オールモスト・ゼア '98※
 ディスティラリー・ボトルの9年もの、54.1度のカスク・ストレングス。
12 アードベッグ・ルネッサンス '98※
 ディスティラリー・ボトルの10年もの、55.9度のカスク・ストレングス。

ですぺら
東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F
03-3584-4566


出版人  | 一考   

 数箇月後のはなしになるが、湯川成一さんの出版人としての仕事について書くことになった。書くとは云っても覚束ない。私ごときになにが出来ようか。ただ、生き残りは私だけになってしまった。湯川さんへの感謝の意と出版に対する意見の最後の表明になる。

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2008年07月23日

家系図  | 一考   

 母が死んでやはり問題になったのは家系図だった。歴代の氏名から禄高の推移まで実に細かい。苗字と書いたのは、出藍の誉れ高きが跡を継ぐものであって直系とは限らない。さらに昔は養子や養女が入り組んでい、分家が拍車をかける。とりわけ1741年11月、榊原家九代当主政永が播磨姫路藩第四代藩主から越後高田藩初代藩主へ十五万石で移封、六代を経ての戊辰戦争、また戦後の会津藩士一千七百四十二名の御預に至るまで触れられている。城代の差配の一として当然のことなのだが、一級資料としての価値を内包すると認めざるを得ない。
 榊原家は本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門だが、渡邉家が留守居頭を務めるのは1608年、流罪になった三人の家老のあとを継いでからである。詳細は歴史書や分限帳に譲るが、愕かされたのは勝海舟の執事を務めた者が家系にいたことであった。そちらの末裔は伯剌西爾大使を努めるなど三代に亘る外交官である。
 さて、私はその家系が嫌で家を棄てた。どうしようかと相談を受けても困惑する。隆さんへ渡せばとしか応えようがない。話は変わるが、今回隆さんと会って、どうして音大なのかと問い質した。聴覚能力が足らなくて芸大へは行かれないと彼は答える。何時も幹郎さんと話していることだが、二、三歳からはじめないと音楽は無理である。彼が音楽をはじめたのは小学校へ通い出してからである。無理を知るだけでも、それ自体が一つの識見であり才能である。同様に、彼は文学にも取り立てて興味を抱かない。文学は音楽と違って晩成が可能である。しかし、それにしても十四、五歳が上限であろうか。十八歳にもなってから書物をいくら読んでも身には付かない。それは単なる情報として身のまわりを擦り抜けてゆく。おそらく、隆さんの次の世代に家系図を繙いていただくしかない。
 両親の死によって、私は本籍地を高田から他へ移し、再度改名する。最後にプライヴェートなことながら、父君が亡くなられたのは2000年2月21日、寂年八十六歳。母は九十歳で亡くなった。ひとつの家がこれで跡絶える。


2008年07月22日

湯川書房愛惜  | 一考   

 書肆季節社の政田岑生さんにつづいて湯川書房の湯川成一さんが亡くなられた。政田さんが逝いたのが1994年6月29日、寂年58歳だった。叢書溶ける魚、水の梔子、火の雉子などは政田さんが編輯を担当し、湯川さんが装訂する。湯川さんと政田さんとは盟友にふさわしい親密な間柄だった。
 湯川成一さんは一時期、数もの出版を試みた。76年以降の数年間がそれで、77年1月に季刊「湯川」が創刊されている。同誌に郡司正勝さんや十四次新思潮の面々が執筆しているのは私のいたずらである。湯川さんは加藤周一をはじめとする「進歩的文化人」が好きで多くの著書を出版している。私は彼らの毒気のなさが嫌で、ちょっとした異議申し立てをしたまでである。
 出版社としての体裁を整えるために、元コーベブックスの川畑さんが湯川書房へ入社したのも76年末。吉行淳之介の著書などを担当し、隆さんの母親でもある。
 湯川さんと政田さんの後を継ぐ形になったのが書肆山田と小沢書店。共に戦後の数もの出版のレベルを引き上げるのに尽力したと私は思っている。政田さんと違って、湯川さんは最後までアマチュアにこだわった。レイアウト用紙を用いない。新聞紙や週刊誌から文字を切り抜き、バラ打ちよろしく貼り付けたものを印刷会社へ持ち込む。晩年は京都と大阪をやめて、神戸の創文社と須川製本所を専らにしたが、それは同社の岡田巌さんと呼吸があったからに他ならない。
 78年に私が交通事故で二百万の示談金を手にしたとき、湯川さんはそれを羨ましく思い、しばらくのあいだ交通事故、交通事故と呟いておられた。生憎と湯川さんが交通事故に合うことはなかった。湯川さんのところへ出版を志す若い方が来られた際、「ところで親御さんはいくつ山をお持ちですか」。これは湯川さんの口癖になったが、昭森社の森谷均さんを念頭に置いての話に違いない。
 とにかくに私たちは金がなかった。当時は一点の限定本を造るに二、三百万の金が掛かった。私が土方をしたり、期限切れのドッグフードや破摧された古米で五年の歳月を過ごしたのも、すべては書物の制作費を捻出するためだった。湯川さんが経験なさった辛酸は私のそれをはるかに超えていたが、それは書くまい。書いたところで誰も信じないであろう。
 光文社の古典新訳文庫は望月通陽さんの装画だが、彼がデビューしたのも湯川書房である。加藤周一詩集の箱を染めたのが最初で、「出埃及記」では彼の作品に塚本邦雄が短歌を添えている。齋藤磯雄が籠っておられた山中湖のペンション「モーツアルト」は望月さんのモーツアルトに関する作品が多く飾られている。湯川さん亡き後も湯川成一の精神的遺産のなかにわれわれはいる。(私自身、彼がいなければ出版に手を染めることはなかった。湯川さんについてはいずれ稿を改めたい)


2008年07月19日

母の死  | 一考   

 当掲示板は身内の方もご覧になっていらっしゃるので一言。
 十九日十一時五十五分、母君渡辺千代子死去。通夜は二十日十八時から、葬儀は二十一日十二時から十三時。場所は山の街平安祭典会館(神戸市北区山田町下谷上字上の勝3-10、Tel.078-583-9754)。なお、葬儀は身内のみにて執り行います。香典、献花の儀は辞退申し上げます。
 家族の筆舌に尽くしがたい苦衷を察するに「相済まぬ」を繰り返すのみ。幾重にもお詫び申し上げる。今日ですぺらの営業を済ませたあと、私は神戸へ向かいます。
 それにしても、位牌の処置に困惑している。父の遺骨は宗派の異なるお寺さんへ預けたものの、家族も私も早晩お迎えが来る。その後はどうすればよろしいのか。当然のことだが、私は無縁仏を望む。戒名も墓も位牌もなにもいらない。どこかですべてを消し去らなければならないのだが。


2008年07月17日

赤い雨靴  | 一考   

 笹目さんが九条今日子さんと共に来店、昔話に花が咲いた。こちらでは書かれないことばかりだが、差し障りのないことのみ著す。
 東急百貨店でのタロット展初日、寺山さんが雨のなかを赤い雨靴を履いてこられた。どうして覚えているかといえば、お手伝いいただいた大泉女史も真っ赤なビニールの雨靴を履いていたからである。多量の荷物(タロットカード)に押し潰されて東京駅で立ち往生していた私を、設立間もない牧神社のスタッフが総出で手伝ってくださった。私が二十五歳の折のはなしである。
 寺山さんもタロットの蒐集家で、後年オリジナルのカードを制作された。その彼が一人目の客になろうとは予想だにしていなかった。独得のアクセントで「やあ、元気、儲かっている」が最初の挨拶で、「雨のなかをありがとうございます。儲けるのはこれからです」が私の返事。早朝から爽やかな笑顔で迎えられて、私は嬉しかった。問われるがままにタロットの説明が続いたが、他愛ないひとことひとことに秘められた彼の発想のユニークに笑い転げた。お会いした回数は少ないものの、彼の立ち居振る舞いというか造詣の非凡さ(ここでは詳細は書かない)に常に感心させられた。
 1969年夏の渋谷事件のときも私は現場にいた。アマンドから出てきた唐さんがサイドミラーに映り、車を停めたのがわざわいしたと九条さんからお聞きした。詳細は四谷シモンさんの「人形作家」(講談社現代新書)に譲るが、双方の親分通しは仲が良かったのである。演じたのは間違いなく大立ち回りだが、激怒とか襲撃ではなかったと私は思っている。あの乱闘騒ぎで天井桟敷も状況劇場も一気に全国区へ昇格したと、これは私の冗談である。
 昔は寺山派、唐派と別れていて囂しかった。私のように両方が好きな者にとってはずいぶんと肩身が狭かった。現在では九条さんは李麗仙さんと競馬仲間で、親しくお付き合いなさっている。今度馬で儲けたとき、一緒に飲みに来ましょうと仰有っていた。李さんとは澁澤さんの葬儀以来、お会いしていない。
 亡父は神戸駅前の進駐軍の米軍キャンプで働き、西宮の鳴尾へのベースキャンプ移設に伴って移った。寺山修司の母ハツさんと似た経歴を持っている。そのあたりを話したかったのだが、機会はなかった。中井さんがらみで書くことも多々あるのだが、頭で触れたように、書くことは未だかなわない。ゴシップと受け取られるのが嫌なのである。いつの日か、寺山の俳句と短歌については書きたいと思っている。
 ところで、二代目高橋竹山には寺山修司が彼女のために作詞した「さらば東京行進曲」「歌のわかれ」「せきれい心中」「紅がすり抄」などがある。小室等さんには状況劇場の思い出が深い。嬬恋村の佐々木幹郎さんの山小屋でのコンサートを楽しみにしている。


湯川書房  | 一読書人   

ご承知のことかと存じますが、
平成20年7月11日
湯川成一様が死去されたそうです。

http://suijinsha.jugem.jp/


お好み焼き  | 一考   

 不良の名はヒロユキ。彼がですぺらへ迷い込んできたのは先週の火曜日、もう名前を出してもよいと思う。
 彼にもっかお好み焼きを覚えていただいている。二十一日に嬬恋村の佐々木幹郎さんの山小屋で小室等と竹与こと二代目高橋竹山のコンサートが開かれる。コンサートには地元の小、中学生が多く集まる。その彼らにお好み焼きを食べさせたいと彼は云う。嬬恋村にお好み焼き屋は当然ない。彼もですぺらではじめて食べたらしい。彼の感想は旨いのひとこと。でも、それを年少者に食べさせたいとの思いは旨いとの言葉をこえて重く響く。彼のためにのみ、今日一キロのすじ肉と同量の蒟蒻を買ってきた。センチメンタルな不良にセンチメンタルに惚れたとでも云っておこうか。
 その心意気を忘れないでほしい。料理とは、割烹とはつねに人様に食していただくのが目的であり、一種の供物である。文学と同じように、自己表現が目的ではない。どんなに腕が達者でも、こころの伴わない割烹は画竜点睛を欠く。割烹にもしも目的があるとするならば、それは主人と客人とがもてなしを挿んで相対する、その会話であり対話である。例え無言であっても一向に構わない。私は彼に権威づけに奔命した本膳料理を学んでほしいとは思わない。江戸時代に入って生産が本格化する醤油の登場以降でよい。煩瑣な約束事に対する批判として生れ、簡素化され闊達を重んじた懐石だけを学んでほしい。


2008年07月16日

元運転手  | 一考   

 フクさん来店。大阪へ行かれてからも、変わらぬご贔屓に感謝。昨夜は日赤の方が多数見えられて店は満席だった。製薬会社の方は前店舗からの長い付き合いになる。一昨夜は前川佐美雄賞の授賞式、今年の受賞作は島田修三さんの「東洋の秋」。関係者が徒党を組んで見えられ、深夜の三時まで騒いでいらした。
 それにしても、足が痛い。今日も痛みに耐えかねて主治医のところへ出掛けた。精密検査の要ありとのことで、明日結果が出る。取り敢えず座薬を打って、ハイペン錠200mgを頂戴してきた。この種の打撲は結論が出るまでに時間が掛かる。山崎医師とちはらさんの初の対面である。ちはらさんは「一考になにかあればここへ放り込めばよいのね」と主治医の場所が分かっただけでも一安心だそうである。
 ところで顛倒の後、オイルでやられたねとは大型トレーラーの運転手の弁、見れば後輪にはオイルがべったり。大きなバンパーを避けて端へ寄ったつもりがオイルに乗り上げたのでは身も蓋もない。これで前方不注意なら、完全停車しかないのか。ちなみに後続の四輪車はことごとくが、残骸の上を乗り越えて走り去って行った。箒がないので、道を掃除したと云っても完全な除去は不可能。四輪車はバリバリと音をたてて細かいバンパーをさらに細かく砕いていた。四輪には問題にもならないことが、二輪では致命傷になる。
 私は大型二種免許を持っている。飲み屋をはじめる前はトラック運転手をしていた。それが理由で酒気帯び運転は一度もしたことがない。安全運転には人の二、三倍気を遣っている。それでも駄目なときは駄目なのである。


2008年07月12日

事故其三  | 一考   

 「心配することも許されない」とちはらさんから叱られたので、主治医のところへ出掛けた。骨と靱帯に異常はなかったが、靱帯膜の損傷は十分に考えられる、だとするならば、骨折よりも時間が掛かることもあり得る、と脅された。さらに一週間ほど様子を見ないと軽々に判断は下せないが、打撲にしては少々痛みが過ぎるようである。
 山崎医師とは久しぶりで、2006年10月の偏頭痛事件以来である。あの時紹介された南浦和の映像フェチの医師は津々として興味は尽きない存在だった。当時、「編輯は偏執に通じる。従って、なにごとによらず偏ったものに興味がある。ただし、オタクであれマニアであれフェチであれ、パラノイアやモノマニアにとどまる限り、箸にも棒にも引っ掛からない。一つのことに異常な執着をもつのは結構だが、それが人格の荒廃をきたさなければ、なんのための固執であり妄想なのかと問い質したくなる。一度偏りはじめた障害者の行き先は餓鬼偏執しかない」と書いた。
 浦和の駅前の区画整理が終わり、路地奥にあった病院が四車線の公道に面している。改めて覧ると立派な建物であり、山崎医師が一層頼もしく思われた。主治医と常に書いているものの実体は押し掛け患者である。東京へ出てきてかつての主治医とはぐれ、困惑しているときに松友さんが紹介してくださった。都立病院で三度ほど手術を施していただいたが、腕は秀でている。私は医師であれ、物書きであれ、翻訳者であれ、料理人であれ、生業のいかんを問わず腕達者が好きである。ちなみに私は口達者である、そつがあって、抜け目があって、このようなデタラメな日本語を平気で用いる脆弱さを併せ持っている。来週、四年ぶりの健康診断をお願いしたが、彼のためにしかるべきモルト・ウィスキーを持参しなければならない。

 ところで、事故の当事者が判明した。隣の町内(笹目四丁目、拙宅は三丁目)の運送会社だった。早朝に警察から、さきほど運送会社から人が見えられて挨拶があった。運送会社であればなおのこと猛省を促したい、事情のいかんを問わず逃げるのはよろしくない。あとは保険会社との交渉であって、事務的に済むのは結構なはなしである。単車の修理費を一部負担していただければありがたいのだが、どうなるかは分からない。
 書いている最中に保険会社から連絡があって、どうやら修理してくれるようである。詳細は月曜日になるが、これはありがたい。

追記
 顛倒のあと、大型トレーラーの運転手と二人で散らかったバンパーやランプの残骸を道端へ片付けた。そうこうする内に、運転手の仲間が事故現場へ到着、発炎筒を焚いたりして後続車両を誘導していた。それとひとこと云っておきたいのは、深夜に道に黒い滲みがあったとしてそれがオイルだと誰が判断できるのか。気付いたときには既に単車は宙を舞っている。あのバイパスは国道であり、故意にオイルを撒いたとなれば立派な犯罪である。
 ぶつけた側の運送会社の人が「居眠り運転をしていて」と弁護していたが、まさか事故の後まで眠り続けていたわけではあるまいに。居眠り運転のまま、バイパスから離れて細い側道へハンドルを大きく切って逃げ出したとでもいうのかしら。今回は人命にかかわらない事故だからよいようなものの、しでかしたことの後始末ぐらいは自分でつけろと云いたくなる。昨今の日本人は不始末の後、まず遁走する、逃げてしまえばまるで現場が無くなるかのようである。福岡の事件を持ち出すまでもなく、機転が利かない人とわれわれは共生している。恐怖はすぐ隣に在る。


2008年07月11日

意地っ張り  | 一考   

 根性、覇気、やる気、意気込み、意志力、闘志、精神力などという戯れ言を久しぶりに聞かされた。特殊な技術や知識を得たいもしくは学びたいと思うからこそ相手のいうことを甘受するまでであって、その人の人品骨柄に惚れてのことではない。特殊な技術や知識を得るに際して、上述の戯れ言を必要とするかどうかは個々の問題であって、一般論としては成り立ちがたい。「根性」が必須であれば「根性」に精進すればよいのであって、「ちゃらんぽらん」が必要な人は「ちゃらんぽらん」にひたすら励めばよいのである。
 指物師や板前をはじめとする職人から、大学や研究機関で文学なるものを教えている職人に至るまで、精神論と自らの人格の問題とを混同しているのではないだろうか。精神などというものは私には意地汚さにしか思われない。理由は後述する。
 かつて空手に通じた人から「俺が若い頃は花粉症などというものはなかった。近頃の若いものは弛んでいる」、また調理に通じた人から「俺が若い頃は暴力でもって身体に技術を刻み込まれた。近頃の若いものは甘やかされている」と。前者は戦後の林野庁の全国森林計画に対する無知を露呈しているに過ぎないし、後者に至っては人権侵害であろう。いずれにせよ、睹ざる所を以て人を信ぜざるは、蝉の雪を知らざるが若し(塩鉄論)である。
 確かに、私は撲られ蹴られて育った。昔の板前修業ではそれが当たり前だった。吸い物仕を造る、出来上るのを待っていて鍋ごとぶっかけられる。一瞬、何が起こったのかが理解できず、熱いと気付くまでに時間が掛かる。叫びにもならない「ヒェー」とのうめき。頭からホースで水を被り身体を冷やしていると、板長から「遊びに来たのか、仕事をしき来たのか」と怒声。
 仕事ができなくなるからこれ以上は勘弁してくれと土下座をして謝っても無駄である。土下座している掌を高歯で踏み付ける、指の骨が折れる音が聞こえる。包丁が飛んでくる、鍋が飛び交う、フライパンが跳び、熱湯が舞う、それでも技術を奪いたいから黙って耐える。板長の木刀が止めになって身体が動かなくなる。どうやら失神したらしい。バケツの水をかけられて、その後は精神論の説教が続く。これは映画のはなしではなく、私の体験を書いている。
 そのような世界へ若者をひとり送り出さねばならない。事情の何如を問わず気が重い、憂鬱な日々を送っている。これから彼は理不尽な世界へしばし追いやられる、そこで得るのは技術や知識といった情報でしかない。しかるに実体は誤った精神訓の洪水である。洪水を往なしはぐらかす狡賢さをまず学んでおかなければならない。そのこつは沈黙でしかない。沈黙とは動じない心である。若者に動じない心を薦めるのは一種の自己矛盾である。さて、どのように説得しようかと迷う。
 それにしても、と思う。かくまでして型に嵌まった人間を拵えてなんとする。若者には老人にはない夢があり一途さがある。歳老いたというだけでも、それは一種の権威、権力を有する。老いたる者は心しなければならない。にもかかわらず、老いたる職人は尊大になる。それが理由で、京都では素質を持つ板前がみんなフレンチやイタリアンへ逃げ出してゆく。名のあるフランス料理店の半数は板前出身者がシェフを努めている。その逆はあり得ない。わずか四、五年で割烹を遁走、そのような未熟者でも東京では西洋料理のコックとして十分に通用する。かくまで割烹の修業は苛しい、いっそ修行と呼称したい。

 右手を折られたら左手で喧嘩をする。左脚を折られたら右足を軸足にする。ドスで刺されても三分の一の血が喪われるまでは闘える。私の生への意地汚いまでの執着はそのような状況下で培われた。昨年の十月、鉄工所で左手を削った折、吹き出る血をタオルで縛って鉄板を研摩しつづけた。傷が塞がらなければ瞬間接着剤を多量に流し込めばくっついてくれる。夕方、仕事を終えて家へ戻ったとき、ちはらさんはただ呆れ返っていた。繰り返すが、そうした意地汚さが間違いなく私のニヒリズムの根幹を形づくっている。


2008年07月10日

顛末其後  | 一考   

 佐々木幹郎さんと高遠弘美さんのご厚情に感謝。四輪と違ってバイクは倒れるもの、致し方ございません。若いときなら平気な打ち身が前期高齢者ともなると、スプレーをかけたり湿布をしたりと大騒動になります。お恥ずかしい限りです。
 以下は自らへの誡め。已んぬる哉、昼の光で眺めるとヘルメットやサイドミラー、革靴にも大きなダメージが残されてい、ナンバープレートは辛うじてネジ一本でぶら下がっている。人の身体は自動修復装置が働きますが、バイクはそうもいかず、ヤフオクで安いバイクを探したり、出費が重むようであれば、庭に転がっているBMWを車検に出そうかと思いおる次第。
 顧みるに、車重が軽いために割れたバンパーへ乗り上げただけで単車はあらぬ方向を向いてしまう。車重があればバンパーを砕いて止まっていたのでないだろうか。ただ、今の私の体力でリッターバイクが取り回せるかどうか、何かしら心許無い。


2008年07月09日

事故  | 一考   

 川越街道から十七号バイパスへ曲がったところで、ホンダのミニバンが三十頓の大型トレーラーへ追突。バンパーとラジエーターを大破し、オイルを撒き散らしながら逃走。逃げた理由は酔っ払い運転と思われる。私はその後を走っていたが、割れたバンパーとオイルへ乗り上げて顛倒。時間は二時十五分。バイクは壊れ、左脚をしたたかに打った。前方に何があろうが、状況の何如を問わず顛倒は当方の責任、オイルの奴めと地団駄踏んでも後の祭り。
 パトカーが三台と近所の下赤塚の交番の警察官が出動、後者はしきりに同情してくれるが、交通警官はけんもほろろの応対だった。可哀相なのはトレーラーの運転手で、新潟まで運ぶ荷物が遅れるとかで電話対応に追われていた。私もつい先頃まで運転手をしていたので、事情はよく分かる。荷が生鮮食料品で市場への搬入が一分でも遅れるとその食料品は運転手の買い取りとなって、四、五箇月は無給になる。私が営業車の進路妨害をしないのはそうした経緯を飲み込んでいるからである。
 一時間ほど触っていて取り敢えずエンジンは掛かった。ちはらさんに迎えに来ていただいて荷物は車へ、トコトコ走って家まで辿り着いたものの、ハンドルの歪みがひどくウインカーは前後共に破損、前照灯とタコメーターは機能的には問題ないがやはり破損、右のマフラーとブレーキレバーも破損、バッグはセンター・サイド共々飛び散っている、要するにバイクは重体である。
 よって今日からは車出勤である。車は費用が掛かるので早急の対策が必要である。困った、困った。


2008年07月08日

金子國義展  | 一考   

 先日、あまねさんや土屋さんに誘われて酒を飲んだ。私は四時四十分に泥酔、そのまま車のなかで高鼾、その日の夕方まで死んだ振りをしていた。あえて書き置きたいのだが、気持のよい酒で久しぶりの天下太泰を決め込むことができた。またの小斟を庶幾する。
 話していて改めて思ったのだが、何を読んだの、何を書いたの、何をしたいのと、みなさん自己顕示欲に駆られているとか。私の虚言癖はつとに知られるが、これはヒステリー的性格異常者に見られる空想性虚言症であって、人がそれを真似るのは怪しからぬはなしである。掲示板にせよ、ブログにせよ、控えるべきこと遠慮すべきことがある。プライヴェートに過ぎるのはいかがなものか、プライヴェートと肉声とはなんの関わりもない。もっとも書き込みが随筆としての体を成しておればその限りでないが。
 意思、感情、思考をいま少し律するべきではなかろうか。律するを「ため(日舞などの用語)」との言葉を用いて警めてきたが、ひとさまの勝手な解釈の前では形無しである。昨今のそれは「吾落拓邪遊」に過ぎない。
 比して金子國義さんの作品には圧縮され密度が高くなった締り雪のような緊迫感がただよっている。そして、あまねさんが金子さんの展覧会の案内状を持って来られた。今回は平凡社から上梓される「L'Elegance(金子國義の世界)」の出版記念を兼ねての展覧会と聞く。期間は七月九日から十五日、場所は伊勢丹新宿店本館五階のアートギャラリー、なお、日曜日の午後四時から五時はサイン会の予定とか。ただし、同会場で書冊お買いあげの方に限るそうな。私はミーハーなので、署名を頂戴しに日曜日に行く、みなさん挙ってのお出掛けを願う。


料理人  | 一考   

 宛先のない小包に宛先を書き加えるに十年は掛かる。赤坂の料理屋で三年、京都の割烹で五年、仕上げに自らの創意工夫が任意の店で二年、合わせて十年になる。
 仕出しにとってもっとも大事なのは炊き合わせ、こいつが一番時間が掛かる。そうでなければ、赤坂の三年と京都の五年が逆転する。それでなくとも、既に五年が喪われている。料理人は舌が定まる前にはじめなければならない。それが理由の十五歳である。二十歳にもなった人を京都の割烹は雇わない。なにかしらの方策が必要である。後れ馳せながら、今日から不良さんの時間との格闘がはじまる。頑張ってほしい。


恐縮  | 一考   

不良の御託にお付き合いいただき、ありがとうございます。

マイミクさんのような哀悼の文は私には書かれません。
私にとって友であれ家族であれペットであれ、死は言祝ぐべきこと。
海辺にてひとりきりで見送るのを常としているのです。


2008年07月07日

他者  | 高遠弘美   

「私が受け容れる他者、それは書物だけであった」

 このお言葉、深く納得いたしました。一考さんのやうに徹底して「不良」を思想化すなはち、行為化してゐるわけでもない自堕落なわたくしですが、他者とは書物。それは幼き頃からずつとさうだつたやうな気がいたします。
さまざまに感謝をこめて。


不良つづき  | 一考   

 前項で著したように、不良を概括的に扱うことはできない。同様に文学を概括的に扱うことはできない、一般論としての文学なんぞ存在しないからである。文学は常に個別的ないしは具体的な問題を提起する。いっそ、不良を学ぶのが文学ではなかろうかと私は思っている。
 「自分も社会もくそったれ」と思いつつ、人は生き延びねばならない。人生の前半にあっては自殺を考えつつ、後半はわが身がどのようにしてこの世と別れてゆくのかを考える。あるときは悶え、周章て、狼狽え、畏れながら、死と隣り合わせに生きるのである。生れ来たものの宿命とはいえ、容易ならざることである。
 私は学校へ行かなかった。人から教わることを拒否したのだから自分で学ぶしかない。それが理由の読書だった。学研の文庫で加藤郁乎や酒井潔に託つけて私は私自身の読書論を書いた。購入なさった方には申し訳ないが、私は自分のためにのみ文章を綴る。他人のことなんざあ、私の知ったことではない。それこそ「くそったれ」である。「くそったれ」の裏返しには恐怖心が横たわっている。怖いが故の暴力にまみれた人生だった。私が受け容れる他者、それは書物だけであった。


Explorer 5.1  | 一考   

 mixiがExplorer 5.1に対応した。ずっと未対応だったのでNetscape 7.0.2もしくはMozilla1.3などを併用するしかなかった。昨日の深更には駄目だったので、おそらく今日明けてからだと思う。実にありがたい。これで遣い勝手がよろしくなる。ですぺら掲示板にも対応してくれると助かるのだが。


予定の予定  | 一考   

 ですぺらへ不良が舞い込んできた。詳細は書かないが、元不良と進行形の不良が来週からしばらくのあいだ一緒に仕事をする。従って、お通しから乾き物は徐々に減らしてゆく予定。ただし、お客の註文を受付けるのはスモークとお好み焼きだけで、他は日替わりの小鉢ものを造る。こちらも現在のところ予定のみ。一緒に仕事をするのは一箇月だけなので、フードの再開というわけではない。滅多にないが、金曜日や土曜日のような忙しいときはお断りすることもあるので、悪しからず。
 さて、元不良とは私のことで、未成年の喫煙、酒婬、登校拒否、引き籠もり、薬物乱用、銃刀剣不法所持からはじまって、最後は行き着くところまで行ってしまった。昨今、秋葉原で行き摺り殺人があった。「親が悪い、会社が悪い、社会が悪い」が犯人の捨て台詞だったが、このなかに「自分が悪い」が入っていないのが、現在の自己中心的な世相なのかと思われた。被害者には申し訳ないが、犯人はちょいと拗ねてみせただけであって、彼のような人間を不良とは呼ばない。
 私の時代に遣わなれなかった言葉に「自己責任」がある。本来、他者に対する責任転嫁をいましめる言葉なのだが、他者に対して責任を負うべき者の責任回避に利用される危険性がある(例えばイラク日本人人質事件における一部政治家の言動)。この場合、自称ボランティアの側の是非は問わない。
 言葉というものは常に相反する意味を内包する。それどころか、「自己責任である限りは何をしても良い」との逆説すら成り立つのである。それ故、誤解が生じ、あらぬ非難を被ることになる。ひとつひとつの言葉の意味ないし定義づけは個々の性格の違いに求められる。私が匿名性を非難する理由はそこにある。
 性愛構造同様、不良といっても百人いれば百通りの不良がある。要するに、不良を概括的に扱うことはできない。不良について考えようとすれば、その対象たる個人のなかに深く水準器を沈めるしか手立てはない。これは不良に限らないが。
 彼の目は尖がっている。それだけで不良入門としては申し分ないが、目が据わっただけの不良なら世の中に掃いて捨てるほどいる。これから彼を私なりに知らなければならない。思い詰める、身を焦がすといった一途さや餓えと対峙しなければならない。ひとつ気になるのは、他者に対する甘えのようなものが彼にはある。これは不良らしからぬ部分である。生きることにも為事にも恋愛にもなんにも意義なんてものはない、「自分も社会もくそったれ」が不良が持ちうるおそらく唯一の理念であり憲法でないだろうか。生きのびるために「くそったれ」と「まあ、仕方がない」のぎりぎりの攻防がはじまる。例え意義はなくとも、そのための方向性を示唆することは可能である。それが私にできるかどうかはやってみないと分からない。根競べになるが、彼が私にとって久しぶりの友になる可能性だって皆無ではない。不良、これもまた宛先のない小包である。


2008年07月05日

平常通りの営業  | 一考   

今日の土曜日は平常通りの営業です。私が飲みに出掛けるのは深夜の十二時からです。


2008年07月04日

スランジバー  | 一考   

 こちらでは書かれないが、本当に嬉しいことがあった。まずはTさんにおめでとう。五十年後に生きる同時代人に乾杯。


食み出た荷物  | 一考   

 シェリー香はシェリー樽ですが、バニラの甘さやクリームの滑らかさを附与するのはバーボン樽です。元々、ウィスキーの熟成にはシェリー樽が用いられてきました。昨今さまざまな樽が用いられるのはシェリー樽が減ってきたからです。世界中の人がシェリー酒を飲めば、シェリー樽の供給は潤沢になります。
 日本酒から洋酒に至るまで酒は甘いもの、というよりは甘いものほど高級品でした。カクテルは洋酒をさらに甘く飲むための調法ですし、羊羹は日本酒の肴として開発されました。ただ、世界的な傾向として、甘いものは流行らなくなりました。その端緒になったのがスモール・バッチ・バーボンであり日本のビールであり酒だと思うのです。
 ピートの効いたウィスキーが男性の飲み物で、シェリー香のある甘いウィスキーが女性のそれ、というのはまったく理解できません。そして、嗜好品であればこその棲み分けというのは何に対しても当たりません。
 あなたが女性であるとして、さらに甘いウィスキーが好きであるとして、それはあなたの嗜好であって女性一般の嗜好ではありません。6月19日の「シングルカスク」で「最初からサントリーのウィスキーとして生れてくるのではない」と書きましたが、女性は最初から女性として生れてくるのではなく、半ば強制的に女性として育てられるのだと思います。
 男女という分類、それ自体に私は反感を抱いています。世の中には男、女といった区分に収まりきらない人が多くいらっしゃいます。「茶毒蛾その二」で「昨日単独行の幼虫を発見した。毛虫の世界にまで欄外に食み出すやつがいるようである」と書きましたが、私はそうした食み出し者に共感を抱いて、当掲示板を開きました。ちなみに、食み出し者とは男女の問題に限りません。


ブナハーヴン・ヘヴィリー・ピーテッド  | 一考   

 「本品(シグナトリー)に先行してドイツのスコッチ・シングルモルト・サークルから97年蒸留、8年もの、57.8度のボトルあり。同じくシグナトリー社のアン・チル・フィルタード・コレクションからリフィール・シェリー・バットの加水タイプがボトリングされている。共にヘヴィリー・ピーテッド」と6月5日の「新入荷のボトル」で書いた。
 昨日、栗林さんからファクシミリがあって、もう一品あることが分かった。サマローリ社の97年蒸留、10年もの、45度である。なお、九月にはジャン・ボワイエ社のベスト・カスク・オブ・スコットランドの一本として43度のヘビーピートがボトリングされる。スリー・リヴァーの扱いだが、ボワイエのボトルはユニークである。
 サマローリのブナハーヴンは塩素系で、シグナトリーのそれとは香味が異なる。ピーティーな味わいではなく、市営プール(都営でないところがミソ)の水に含まれる消毒剤の臭みが強調されたものらしい。プール熱(咽頭結膜熱)やあたまじらみに注意。なお、あたまじらみに消毒剤は効かないことに留意。

 ところで、M・フォレスト氏のボトリングになるジュラ・ヘビーピート・カレドニアが入荷の予定。99〜02年の3年もの、水色ラベルは既に市場になくクリームラベルの方である。水色ラベルは60.7度、447本のリミテッド・エディション。パワフルでスモーキーなジュラだったが、クリームラベルはどうだろうか。ディスティラリー・ボトルはフェノール値40ppmのポート・エレンのモルトを使用しているが、こちらは60ppm。楽しみである。


残念です  | tk   

返信読みました。
ピートのウィスキーが新しく出始めたからテースティング会なのですね。
やはり男性や紳士向けの会のようで残念です。
だけれど嗜好品なのでこうして住み分けをされてしまうのも仕方ありませんね。
最近やっとこの現実も仕方のないものだと受け止められるようになりました。


2008年07月03日

ウィスキーの寡多録  | 一考   

 クレッグホーンについて書いていて思ったのだが、ホームページの記述はおよそ十年前、半数はそれ以前の西明石時代に書かれた。従って、すべてに亘って記述が古い、早いはなしがなんの役にも立たないのである。その間に、蒸留所は閉鎖されては新たに生れ、蒸留所のオーナーは変遷し、多くの食料品店やワイン商がボトラーとなった。なかにはブローカーがボトラーになった例もあって、その逆も現在進行中である。
 オーナーの変遷と書いたが、それに伴って夥しい数のディスティラリー・ボトルが誕生した。昨今ではディスティラリー・ボトルしか飲まないような人がいる。それはそれで構わないのだが、ディスティラリー・ボトルを頒していない蒸留所はその人にとって存在しないのかしら。ちょいと不思議な気がする。
 先日のヘヴィリー・ピーテッドのように、新たな情報はできるだけ掲示板で触れるようにしている。今だからこそ書くこともあって、いっそホームページを書き直せばよいのだが、その気力は既にない。とても一人で処理できるものではないのである。ただし、店内のカタログだけは最新のものに常に書き換えている。二週間に一度、約三分の一ずつ更新している。要は一箇月半毎にカタログは生まれ変わっている。もっとも、読まれる人はほとんど居ないが。
 情報だけならウェブサイトに濫れている。気になる人はそれらを糊と鋏でコラージュすれば済むのであろう。先日の書き込みにプラスカーデンを忘れていた。書き加えるに際し、一部字句の修正を施した。


2008年07月02日

クレッグホーン・ディスティラリー  | 一考   

 サマローリやムーン・インポートなど著名なボトラーのボトルは少々古いものでも手に入る。他方、いくら探しても入手が難しいボトルもある。例えば、クレッグホーン・ディスティラリーなどがそれに相応しようか。
 クレッグホーン・ディスティラリーはリバプールの元ワイン商。クレッグホーン・ヴァントナーズ社と同資本のカンパニーで、ラナークに本拠地を置き、リバプールに熟成庫を持つ。白ラベルの時代を想わせる透明の角瓶を用い、カスク・ストレングスを専門とする。このオールドボトルを連想させる角瓶を現在用いているのはキングスバリーの関連会社アベイヒルぐらいなものだろう。概してコンディションはよいが、酒名から蒸留所を判断するのはきわめて困難である。例えば、アバフェルディをグレン・クェッチ'、タムドゥーをオーキンドゥー、グレンロセスをブルイマレイ、ダルユーインをベルチャロン、プルトニーをワリゴー、ミルトンダフをプラスカーデンと名付ける。この中でなんとか連想できそうなのはブルイマレイぐらいであろうか。
 スコッチ・ モルト・ウイスキー・ソサエティのボトルにみられるヒントやエイコーンが扱う水源地シリーズなどは判りやすい。ラフロイグがキルブライト、ボウモアがザ・リヴァー・ラーガンあたりはさしずめ初級篇である。また、ダグラス・レインのクレディタブルがクラガンモア、グリーミングがグレンキンチー、タクティカルがタリスカー、ローダブルがラフロイグも消息通ならすぐ判る。ところが、クレッグホーンのボトルはひとつひとつ味見するしか手立てはない。
 クレッグホーンを取上げるのは、ここのボトルが蒸留所の素顔に近い香味を持っているからである。例えば、オーキンドゥーは色濃いタムドゥーの中にあって珍しいプレーン・タイプであり、グレン・クェッチはディスティラリー・ボトルと比してよりクリーミーにしてリッチなフレーバーを持つ。ベルチャロンは蕃椒の辛さが著しく、ワリゴーはかつてスリーリバーズが扱ったビーン・ア・チェオと似て、結構な甘口。こちらが本来のプルトニーの香味ではないかと私は思っている。
 スコッチ・モルト・セールスが扱っていたような記憶もあるが、私が知っているインポーターは武蔵府中酒類販売有限会社で、上記六種類だった。欠点はと云えば、売り出しのときの値が少々高かったことであろうか。94年から95年の販売だったが、当時税抜きで八千四百円から一万円のあいだだったと記憶する。田中屋の栗林さんと高いですねえと喋ったのを思い出す。しかし、その値も今となっては安い。どことは書かないが、某所に在庫があると聞く。当掲示板をご覧の方はしかるべき「某所」へお出掛けあれ。

追記
 ですぺらホームページではクレゴーン・ディスティラリーと表記しているので訂正する。スペルはCleghorn Distillers。ちなみに検索では孫引き以外に出てこないボトラーである。

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