4月26日 | 一考
2003年から毎年、空白の4月26日が繰り返される。寂しいといえば寂しい、切ないといえば切ない。吉行が「こんなことってありませんか。自分が67歳にもなって、取り乱せば乱すほど、自分が確かめられるというようなことが・・・」と書いている。わたしは取り乱せば乱すほど、ますます自分が分からなくなっていく。あの日はなんだったのかと。
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2003年から毎年、空白の4月26日が繰り返される。寂しいといえば寂しい、切ないといえば切ない。吉行が「こんなことってありませんか。自分が67歳にもなって、取り乱せば乱すほど、自分が確かめられるというようなことが・・・」と書いている。わたしは取り乱せば乱すほど、ますます自分が分からなくなっていく。あの日はなんだったのかと。
月曜日にあまねさんが飲みにいらっしゃるかも、との電話があった。増田さんご一統に続いての歓びである。あまねさんは当掲示板で書く内容に精通していらっしゃる。今回も「くそったれ」に引っ掛かってこられた。その思考回路の複雑さにわたしは惹かれる。
彼は女性の裸を見たぐらいで躪り寄るほどやわな男ではない。単純な男は世の中に掃いて捨てるほどいる。そして掃いて捨てられるような塵とばかり付き合っていると、女性の頭の中までが腐ってくる。当然のことだが、わたしは男女というような二項対立だけでものを云っているのでない。ひとがなにをしようが自由であって、他人がとやかくいうようなことでない。ただ、世の中には塵と塵であることを潔しとしないタイプとがあって、付き合い方は相手に応じて識別しなければならない。この峻別こそ、自らが生きる糧のようなものでないだろうか。
思考とは相手の立ち位置をおもんぱかっての精神的交流、謂わば弁証がなされてはじめて成立するものである。わたしはそのように互いが混じり合う関係をより上位に置いてきた。肉体の交わりも大事かも知れないが、精神的糧すなわち苗床を与えてくださる相手との交わりこそ何物にも代えがたい宝物だと思っている。そして、苗床をもたらす相手はいつの時代にあっても少数者である。ひとは一人でさまざまな物事について考えることは不可能である。だからこそ、身の回りにいる少数者はとりわけ大切にしなければならない。
何時でも絶交はできる。しかし取り返しのつかない絶交はなにがあっても避けなければならない。たとえ、謝罪してでも。腹を立てる自分を信じる前に、他に信じるものがあるかないかに思いを致すべきでないだろうか。そうでなければ、腐った頭が次には朽ち果ててしまう。お分かり頂けたであろうか。
日本年金機構から書類が届いた。今般の法律改正により、わたしにも年金が下りるようになったらしい。今まで25年以上だったのが、29年8月からは10年以上になったそうな。早速、年金請求書を書いて手続きを取るが、そちらの年金より、障害者年金の方が気になる。なぜなら、遙かに金額が大きいからである。
年金資格がない場合、自動的に障害者年金も下りなかった、わたしの障害は1種1級、最も金額が多い部類である。こういう時だけ、時の政体万歳である。わたしの身勝手わが儘はみなさんの知るところ、ついこの間も、東京の某女性よりその点を叱責され、いたく落ち込んでいるところである。しかし辻潤も「天皇陛下万歳と唱えて死のうではないか」と宣っている。自分の思い込みや都合で主義主張が変遷するのもやむを得まい。後せいぜいが2.3年、よほど生きても4.5年である。その期間ぐらい、勝手に生きさせてくれと云いたくなる。されば、期間が短ければ短いほど年金が当たるのは嬉しい。辻潤に倣って万歳とでも叫ぼうか。
追記
つい調子に乗って4.5年と書いたが、どこの医師に聞いてもそのような答えは返ってこない。明石へ引っ越してからトラブルが嫌で、最近謝ってばかりいるが、考えてみればどうでも良いではないかと思う。たかが2.3年、くそったれである。
去年の4月末にうすいまめを用いた豆ごはんのコツについて書いたが、今年もうすい豆の季節がやってきた。懇意にしている篠山食料品店の案内によると、実山椒に続いて丹波篠山うすいえんどう豆の予約販売がはじまった。
今年は若干の値上げだが、実山椒、うすいえんどう豆、たけのこ、わらび、木の芽など、春を彩る旬野菜がならんでいる。
久しぶりに燻製を作った。失神のダメージから解放されたようなので煙を薫いた。店のゴミは家で処理しているので、今朝は分別とゴミ捨て、洗濯、風呂の掃除、オートバイの夏向け改装等々、特にバイクは結構忙しかった。ひとにお見せできるような下着を持っていないので(変態ですね)毛の起きたズボンからジーパンへと履き替える。去年と比してジーパンのサイズは二回り小さくなった。血圧は毎日3度計っているが、体重は久しぶり、70キロ代から60キロ代にまで下がっている。ちなみに、透析時のドライウエイトは62.8キロだった。
この肉体と精神の関わり方は難儀な問題を秘めている。対立するものではないし、分離できるものでもない。身体があるから心があって、心があるから体があり、互いに密接な関わりを持つ不可分なものである。わたしには、それは肉体の問題だからというふうな割り切りはできない。身体と精神のこれが境界線だといったものが見極められないからである。
先ほど、東京の友が残した吸い止しを吸ってみた。このところ、吸いたいなとずっと思っていたのである。くらくらするよと云われていたが、別にどうと云うこともない。やはり止めることにした。
吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず (寺山修司)
昨日は東京の友人のために西明石まで寿司を買いに行き、その駐車場で失神してしまった。およそ1時間半ほど気を失っていたのだが、心臓マッサージもなく無事に生還した。店は開けたものの身体はふらふらで、再度倒れそうになった。友には申し訳なく、魚も買ってきていたのだが出さずじまい、もっともこちらは非常に不味かった。
失神の理由だが、掲示板で書くべき内容なので、記しておく。実は自慰が失神の理由である。医師からどうせ出来ないだろうからどちらでも良いのだが、自慰は控えた方がよろしいと云われていた。これはバイアグラのようなEDの薬の処方を申し出たときに、それはまずいと云われたのである。理由は簡単、過去23単位と13単位の輸血をしている。今も1.2単位の少量の輸血は繰り返しているが、圧倒的な高血圧の貧血である。勃起は海綿体に血液が大量に集まることによって起こる、従って貧血のひとが勃起すると血液が陰部に集中し、脳が血液不足に陥る。結果、失神で倒れてしまうのである。EDの薬もまた血液を陰部へ集中させるため、同じ結果をもたらす。
要するに、腎不全の患者は基本、セックスは諦めた方がよいのである。そこへ降って沸いたような刺激(詳細は憚られるので記載しない)がもたらされ、かつ6年ほど勃起と縁がなかったわたしの下腹部が頭をもたげはじめたのである。身の程をわきまえず、調子に乗ったのが運の尽き、1時間半の失神と相成った。機械による射精だとあっという間なので問題は生じない。ただ手動式がいけないのである。というようなことは、どなたも書かれることがない、敢えて記した理由である。
追記
貧血が治まれば、勃起能力は回復する。ただし、5年や6年のスパンではどうにもならない。通常、男は正常位での射精時が血圧、脈拍ともに一番高くなる、よって女性上位や側臥位がいいそうである。
妙な天気である、しばらく煖かかったが、昨日は帰りしな震え上がった。
今日は酒の仕入れとヤフオクの配達、それと合鴨を仕入れに走り回った。それは良いのだが、貧血でなんどもバイクを止める。貧血がひどくなると指先の通風も痛みを増す。東京でバイクで事故ったときの嫌な思い出が頭をよぎる。ヘマトクリットが30では貧血は防がれない、典型的な貧血の高血圧である。
いまは店だが、無闇に身体が重い、このような日は早く店仕舞いをしたほうがよい。明日は東京からお客さんがいらっしゃる。楽しみにしている。
ここ3日間深夜は雨である。雨のなかをオートバイでとろとろ走っている。店が暇で駐車場代がもったいないのである。
いそざかな 一とくの御主人がいらした、ワインのソムリエだそうで、アルザスワインやドイツの赤ワインのはなしをした。アルザスはロゼのように色の淡いルージュ・ダルザス・ピノ・ノワールにとどめを指すが、ドブフ・イリオンのアルザス・シルヴァーネル(白)も忘れがたい。キュヴェ・デ・コント・デギシェムで知られるレオン・ベイエ家のワインは特筆もの。一とくではシルヴァーネルが一年に1本売れると聞いた。
明石でアルザスワインのはなしを聞こうとは、お名前は存じ上げないが、すごいひとが明石にいらっしゃった。お客の原田さんが具志さんとともに、一とくへ行こうとのお誘いを受けた。ありがたいはなしである。
松戸の東葛クリニック病院の口コミで個人を特定できる雑言が書き込まれていた。わたしにとっては親しくお付き合いさせていただいた恩人のひとりである。それゆえ、Yahoo!ヘルスケアへ褒め言葉を書き込んだ。題して「行き届いたインフォームド・コンセント」。
ネット上で悪口を書くこともあろうかと思う。しかし、個人が特定できるようなものは論外である。ある人にとっては腹が立つ相手であっても、ある人にとっては救いの神なのかも知られない。個々の評価はまるで異なる。だからこそ、迂闊なことは書かれないのである。
わたしは同病院から離れるとき、涙したのを鮮明に覚えている。
霧雨のなかを帰る。霧雨とは申せ、オートバイではびしょ濡れになる。昨日の客はわたしの好きな二人連れ、ウイスキーを12杯飲んで帰られた。好きなというのは、幹郎さんの「スコットランド酔夢紀行」を読まれているからである。
このところ暇である、よって知己とメールでお喋りをしている。もっとも変わりにくいもの、それは性愛だと、常日頃から述べている。その生と性愛について語り合っている。
ひとは極力多くのひとと関わりを持つべきでないだろうか。異なる文化の多様性に触れてはじめて、ひとは解体し、理解し合える。偏狭な排外主義や差別思想、要するにレイシストを知己は否定する。同様に、限りない自己解体を知己は自らに課している。つまり、理解そのものをも否定してやまない。
知己のあまりにも強烈なニヒリズムには手を焼いている。手を焼くのでなく叶わないのである。まるで、モンス・デジデリオの申し子のようなひとである。わたしは生き延びる途を選択してしまってから、大きなことはなにひとつ云えなくなってしまった。そろそろ別れの季節がきたのだろうか。
先日はひどい目にあった。旧ですぺらの懐かしい顔ぶれが来店、それはよかったのだが、帰り道で突然オートバイのエンジンが切れた。ガソリンは満タン、バッテリーはフル充電、ガソリンタンクのドレンにも異常はない、にもかかわらずエンジンが始動しない。
雨が降ってきたので近くの工場までオートバイを押していき、軒下で雨宿りとなった。時間は午前2時半。始動しない理由が分からないので、JRS(日本ロードサービス)を呼ぶ。神戸市西区伊川谷のあかつきからレッカーが行くとの連絡。待つこと20分、こちらは小型バイクなので軽四が来るのかと思いきや、大型トラックが到着。あまりの大きさに驚愕する。
整備士が二人降りてきてどうしました、エンジンが掛からなくってと応える。すると整備士がハンドルカバーを外そうとする、その瞬間、わたしにはすべてが分かった。防寒防水のハンドルカバーがキルスイッチと接触、普段使わないスイッチなので、迂闊にも気付かなかったのである。
それにしても、キルスイッチの誤操作に気付かないライダーなんぞ、愚の骨頂と思っていたのに、それがわが身に降りかかったのである。恥ずかしくて顔も上げられない。平身低頭して詫び、お引き取り願った。
追記
今日は雨、久しぶりに四輪で通勤。
アイナメは関西ではアブラメという。カサゴ、メバル、カジカ、クジメ、ホッケなどと同じカサゴ目に分類される。今年はじめてのアブラメの刺身を食べた、値は1000円、実に美味い。油が回ってくると湯霜作り(鯛の湯引きは松皮作り)もしくは焼霜作りが旨いが、この季節は刺身が最高。焼霜作りにはマダイ、金目鯛、サーモン、太刀魚、カマス、イサキ、ノドグロなどが適している。
当地、明石浦漁協で採れるアイナメの幼魚「あぶらじゃこ」を天ぷらにしたものは美味。小骨が軟らかく、揚げるとふっくらとして甘みがある。
ですぺらの近所に「いそざかな 一とく」(いっとくと読む)との会席料理の店がある。名の通り、磯魚が有名らしい。ディナー6000円、ランチ4000円、もちろん一品から頼まれる。鯛めしが名物で、これだけを食べに来られる方も多いとか。店主が2度ですぺらへ来られた、料理人らしく無口な方で食べに行きたいと思っている。(写真は一とくの鯛めし)