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2010年01月 アーカイブ


2010年01月31日

最後の鍋会  | 一考   

 おっきーさんのご好意によって一羽九千円の鴨がみなさんの胃袋におさまった。当方で用意した鴨が恰度二羽分、併せて三羽の鴨が地上から消えた。おっきーさんには後片付をお願いした。そうでなければ、後片づけに朝まで掛かっていたに違いない。これでですぺら最後の鍋会が無事に終了した、それほどに身体が弱っている。おっきーさんに深く感謝したい。
 片づけが終わり、帰ろうにも身体が動かない。店で休憩しているところへ山崎医師が来られた。他にも一時を過ぎてから常連さんが複数来店、事情を説明して早急に切り上げていただく。帰宅は三時半だった。

 今週も血液検査で山崎医師を訪ねる予定だが、病院外で話し込むのは久しぶりである。このところの体調不調など、人前では憚られることを細々と相談する。全身に拡がってきた発疹、皮膚の剥離感、睡眠中にまでつづく痛み、むくみと頭痛、倦怠感と疏外感、目に見えて衰えてゆく生気等々、ことごとくがはじめての経験なので施す術が分からない。
 「よく喧嘩をしたのは吃音がもたらす精神的緊張と意志疎通が思い通りにいかないことが理由である」と前項で書いたが、精神的緊張が吃音をもたらすのでなく、吃音が精神的緊張をもたらす。今回の病症から感じる疏外感を顧みて、鬱病と同種のものを嗅ぎ取った。健常者(この言葉の概念はいまだに理解できないが)にも、さらには医師にすらどこまで理解できているのかすこぶる疑問が残る。医師の場合は症例に対する記憶の引き出しが一般と比して格段に多いのは認めるが、理解という点では同じように心許ない。医師としての発想が時として患者の疏外感を昂進させることもありうる、と医学の本質に迫るような会話がつづいた。
 看る側と看られる側、双方がより多面的な発想法を持たない限り、医学が医学として成立し難いのではないだろうか。かかる柔軟な意見を持つ山崎医師の素晴らしさを思う。吃音と同じで、病人にとってはまず症例ありきである。症例がすべての発端となるのであって、そこに意志力や精神力の軟弱を読み取るのを藪医者という。日本の医学は遅れている、とりわけメンタルな面にかんしては未だに戦時のそれ(大和魂)と大差ないのではないだろうか。
 さて、わたしは看られる側だが、そのわたしに多面的な発想法の持ち合わせがあるのだろうか、自らの生と死をどこまで客体化できるのだろうか。山崎医師から学ぶことは多い。


種村薫さん逝去  | 一考   

種村薫さんが亡くなられた。種村季弘さんの奥様である。

通夜は二月二日(火)十八時より。告別式は三日(水)十時から十一時。
西湘ホール 足柄下郡真鶴町真鶴1902-2 電話0465-69-1444(代表)


2010年01月29日

鴨鍋会  | 一考   

 明日は鴨鍋会です。この種の会はなんども催していますが、ですぺらでの消費量は半端でない。鴨一羽で胸ロース二枚、もも肉二枚が採れるが、これでやっと二人前にしかならない。前回は七人で二十人前を食している。今回はつくねを作らないので、さらに量が増えると見込んでいる。
 あしらいに白菜、葱、椎茸、しめじ、豆腐などを用意したが、青物で困ってしまった。季節から推して芹を用いたいのだが、芹は香りが強く、合鴨とバッティングする。そこで水菜を使用することにした。食べ方にコツがいるがそこはよろしくお願いします。
 例によって午後七時半から閉店までの貸切。会費は5000円。酒は別料金だが、モルト・ウィスキーはアフター以外は厳しく、前述のビールと今日焼酎をお持ちします。

 なお、あと一名は参加可能です。


2010年01月28日

皮膚感覚  | 一考   

 鴨鍋に必要なものの一部を仕入れにゆく、併せてビールもである。何時ものマーフィーズ、ボディントン、ギネス、白生などを各四本づつ、手に持ってですぺらへ戻る。道半ばにして動かれなくなる。あとは休みながら時間を掛けて歩くしかない。
 わたしが子供のころ、アトピーなる概念は一般的でなかった。よって分類はアレルギーもしくは蕁麻疹である。そしてわたしは蕁麻疹に苦しめられた。因果関係はいまだに分からないが、発疹、鼻炎、吃音等々、さまざまな疾病に遭遇してきた。
 例えば、よく喧嘩をしたのは吃音がもたらす精神的緊張と意志疎通が思い通りにいかないことが理由である。先日、「すうどん」のことを書いたが、あれは「かけうどん」の最初の「か」が発音できないからである。わたしが「かけうどん」を注文すると必ず「ぶっかけ」が出てくる。それが分かっているので「すうどん」としか注文できないのである。これは吃音者にしか理解されないが。
 蕁麻疹は二十歳ぐらいで収まっていたのだが、腎臓が悪くなってから同じ症状が再発した。わたしが風呂嫌いになったのは、風呂自体は良いのだが、その後は全身が引きつれたようになる、あの感覚が嫌なのである。毛細血管かリンパ管か汗管かなにか分からないが、その一本一本に七味唐辛子を擦り込むようなぴりぴりした感覚なのである。弱電気を流されて皮膚が剥がれ浮游してゆくような感覚、それが長く続くといつしか激痛に変化する。
 人と暮らすと、風呂へ這入ることを強く勧められる。当たり前といえば当たり前なのだが、それがいかような苦痛をもたらすかについては前述の吃音と同じで、おそらく経験者にしか理解されない。

 右足の痛みもさることながら、ビールをぶら下げた手にはじまって、ぴりぴりしたもしくはびりびりした痛みが全身を蠢く。それが理由で立ち止まってしまったのである。狂いそうになる種類の痛みであって、全身を掻きむしりたくなる。この種の痛みには慣らされてきた筈なのだが、どうにもならない。汗をかく夏が思いやられる、その頃まで生きていたとしての話だが。


2010年01月26日

フラット  | 一考   

 近所のプラセールでおまけの葉巻をもらってきた。パンター・カフェとパンター・アロマ(共にオランダ)、前にも頂戴した記憶があるのだが、ダヌマン・ムーズ(ドイツ)、そのほかにパイプ煙草を二種。ありがたいはなしだが、ゴールデンバットの客にしてはサービスが過ぎるようである。
 それにしても、昨今喫煙量がめっきり減った。同時に食事の量も減り続けている。飯は一食140グラムにまで減ったが、それすら残すことがある。ますますもって喰うことへの執心が薄らいでくる。そして血圧は上がり続けている。
 血圧で思い出したが、先日ディスカバリー、チャンネルでブロンクスの救急病棟を見た。血圧が85-55の急患が抛り込まれるシーンがあった。体内出血だが、CTスキャンを中断して血圧の維持をはかる。医師は明日まで生きるかどうかは五分五分といっていたが、二十時間ほど生きてその患者は死んでしまった。思い起こせば、わたしが大腸の出血で入院したときの数値と同じである。やはり、死んでいたのかもしれないな、と思うと妙に悲しくなってくる、生き残ったことがである。木村さんが血圧が50にまで下がるとフラットになると云っていたが、人の精神がフラットになるとどうなるのだろうか。もっとも、変化がなく平板であるのが人生の常なのだが。


2010年01月25日

反省  | 一考   

 モルト会の土曜日は大入り満員だった。立ち客が出る始末、みなさまに迷惑をお掛けして申し訳なく思います。終日、元Ageのママ清水弘子さんに手伝っていただいた。満席のですぺらは珍しいとのことで、さっそく写真を撮ってですぺらファンが営まれる山口のバーへ送る、夢の一日だった。営業は三時半まで続き、往時の新宿を思い起こさせる雰囲気となった。
 かような席でプライベートなはなしは禁句である。飲み屋にあって絶対に避けなければならない事態に陥り、いささか気まずい思いをさせられた。酒はまだあって、話題は尽きることがない、そして話はオチを拵えてからでなければ語ってはいけない。店主としての至らなさを痛感させられた。幾重にもお詫び申し上げる。


訂正箇所  | 一考   

 1月21日の訂正箇所で書き忘れた。
 12月16日の「水と茶」で「濃縮還元なのでカリウムの心配もなさそう」などと書いたが、濃縮還元の方がカリウムは高い。わたしの勘違いで、やはり飲まれるものは葡萄ジュースぐらいなもの。
 大方は検索で当掲示板へ這入ってこられる。従って、違う箇所で訂正しても訂正の意味をなさない。遡って加筆か削除、もしくは追記でもって訂している。諒とされたい。


2010年01月22日

かも鍋会  | 一考   

 今回の解説を書き上げてふうっと溜息をつく。右手の人差し指一本で一時間半キーボードを叩きっぱなしである。かつて書いた稿のコピーペーストの部分があるので助かっているが、いつもぎりぎりになってから書きはじめる、悪い癖である。すぐ白髪葱に取りかからなければ土曜日に間に合いそうもない。
 今回はともかく、来週の土曜日(三十日)の鴨鍋会はどなたかに手伝っていただかないと一人では処理しきれない。今月なら手伝えると仰有っていた方がいらしたが、いかがかしら。もっかのところ、参加者数は五名もしくは六名、鴨肉の仕入れは六名分にする。おっきーさんがなにかお考えのようだが、味見用に二、三人前もあれば十分でないだろうか。後はこちらで潤沢に用意する。

追記
 二十九日に野鴨が送られてくる。こちらでバラすのかと思いきや、部位ごとに下ろしたものがくるそうな。鳥をまるごと下ろすのは久しぶりなので、どうなることかと気をやんだが、一安心である。


2010年01月21日

モルト会解説  | 一考   

ですぺらモルト会解説(スペイサイドを飲む)

01 アベラワー '90(ブラックアダー)
 ロウ・カスクの一本。シェリー・ホグスヘッドの11年もの、61度のカスク・ストレングス。限定283本のシングル・カスク。
 蒸留所はヴィクトリア朝の美しい建物。モルトもまた、その佇まいに似て、華麗なシェリー・ホグスヘッド。酒質は軽いが甘口のため食後酒に。
 ソフトな口当たりとクッキーの甘さ、我が邦でいえばティー・キャンディの「純露」。とめどなく拡がる芳醇なバニラ香とまろやかな喉ごしはニート(水を加えない)がお奨め。くつろぎの一本。
 ブラックアダー社は1995年にザ・モルトウイスキーファイルの著者であるジョン・レイモンドとロビン・トゥチェクが創業したウイスキー専門のボトラー。ロウ・カスクの発想はきわめて単純でユニーク。大きな木片のみを除去、オリ(沈殿物)も一緒にそのままボトリングする。もちろん、氷点下フィルターもカラメル着色も施さず、すべてはカスク・ストレングスである。

02 オスロスク '89(ケイデンヘッド)
 オーセンティック・コレクションの一本。シェリー・バッドの15年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定636本。
 15年を経てもフッと居なくなるようなあっ気ないフィニッシュに変わりはない。香味とフィニッシュのなさとのバランスがユニーク。クラガンモアと共に、スペイサイドのよさをすべて備えた銘酒。
 ケイデンヘッド社は1842年、エディンバラにて創業。現在はキャンベルタウンを本拠地とし、エディンバラのキャノンゲートとロンドンのコヴェント・ガーデンに店舗を持つ。スコットランド最古のインデペンデント・ボトラーにして、ゴードン&マクファイル社と共に業界の雄。オーナーはJ&Aミッチェル社でスプリングバンク蒸留所とは同資本。「オーセンティック・コレクション」「オリジナル・コレクション」「ボンド・リザーヴ」「チェアマンズ・ストック」等のコレクションがある。着色と低温濾過を施さず、樽と樽とのヴァッティングも一切行わない。一樽限定のシングル・カスクという贅沢な飲み方を世界に広めた第一人者。子会社にダッシーズ社とイーグル・サム社(現キングスバリー社)があり、サマローリ社やスコッチ・モルト・ウィスキー・ソサエティー社等、多くのボトラーに樽を供給している。ユナイテッド・ディスティラーズ社のボトルに満足せず、さらなる刺激をお求めの方にお薦め。

03 クラガンモア・カスクストレングス '93(DB)
 ボデガ・ユーロピアン・オークの10年もの、60.1度のカスク・ストレングスにしてディスティラリー・ボトル。15000本のリミテッド・エディション。
 熟成年とアルコール度数を感じさせない柔らかさを持つ。コーヒーやビターチョコレート、グレインや皮、マディラ酒などの香り。加水すると、スモーキーさからウッディな芳香へ、さらにナッツ系の香りへと変化してゆく。ハーブやスパイス(月桂樹・胡椒の実・ナツメグ等)のキャラクターを内包。さまざまな暗示があり、名状し難い複雑な味わいを呈している。
 他にリフィール・アメリカンオーク・ホグスヘッドの17年ものと29年ものがボトリングされている。

04 クレイゲラヒ19年(イアン・マクロード)
 チーフテンズ・チョイスの一本。43度。
 香りは非常に華やかで、フルーツの香りが濃厚。はじめにビールのホップのようなほんのりとした苦味を感じるが、アップル、ライチ、フレッシュな洋梨の味わい。クリーミーでバランスが良く上品な味わい。心地よい余韻が長く続く。
 1999年に頒された「チーフテンズ・チョイス」は2001年に「チーフテンズ」と変更。ラベル、パッケージ共に一新、フルラインナップとなった。初入荷は14点、同シリーズの売りは、ラム、ポート、シェリーなど、さまざまなカスクが用いられる点にある。ダグラス・レイン社の「オールド・モルト・カスク」と共に今後目の離せないシリーズとなった。他に「ダン・ベーガン」「アズ・ウィ・ゲット・イット」「シールダイグ」「ファラン・イーラ」等、多彩なボトル展開をしている。

05 グレンアラヒ '91(シグナトリー)
 シェリー・バットの8年もの、43度、限定902本のシングル・カスク。
 女性に人気のエレガントな食前酒であり、僚友アベラワーと通底する味わいを持つ。きれのよさは心地よく、極上のフィニッシュに飲み手を誘う。オーク・カスクにはない、アーモンドのようなナッツ系の香りが特徴。
 シグナトリー社からは数種の加水タイプが、ケイデンヘッド社、ゴードン&マクファイル社、スコッチ・シングル・モルト・サークル社、ダグラス・レイン社、イアン・マクロード社からカスク・ストレングスが頒布されている。

06 グレン・マレイ '89(シグナトリー)
 シェリー・バットの9年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定640本のシングル・カスク。
 ディスティラリー・ボトルではシャルドネやシュナンブランの樽を熟成に用いたものが知られる。本品は過去飲んだグレン・マレイのなかで一押し。
 インデペンデント・ボトラーのボトルでは加水タイプがイタリアのドナート社から、ケイデンヘッド社、シグナトリー社、ブラックアダー社、マキロップ社からはカスク・ストレングスが頒布されている。現在グレン・モーレンジの傘下から離れた。
 シグナトリー社はゴードン&マクファイル社、ケイデンヘッド社に次ぐ三番目のボトラー。同社のカスク・ストレングスにあって、ダンピー・ボトルのシリーズは逸品揃い、ぜひ味わって頂きたいモルト・ウィスキーである。上記シリーズに取って代わったカスク・ストレングス・コレクションは同社の総力を挙げての快挙。グレンキース蒸留所で実験的に造られたクレイグダフ等が入っている。

07 グレンロッシー '81(シグナトリー)
 甘口シェリー樽の17年もの、43度、限定595本のシングル・カスク。
 とりわけ81年は珍重される。ヘイグとディンプルの重要な原酒モルトで、ブレンダーの間でも高い評価を受ける。
 清々しい白檀の香りが特徴。ミント香とクリーミーなピート香。U.D社のものと比して円熟度高く、よりスイートな味わい。重厚な香りと切れ上がりの暖かさが絶妙。
 シグナトリー社は1988年、リースで創業。現在はエディンバラに事務所兼倉庫を持ち、ボトリングから保管に至るすべての業務をを行う。「ダンイーダン」「サイレント・スティルズ」等、他では飲めない稀少なシングル・カスクが多い。ヨーロッパ向け限定商品として「アン・チルフィルタード・コレクション」をボトリングするなど、多彩なコレクションで識られる。

08 ダフタウン '87(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。シェリー・フィニッシュの14年もの、43度。996本のリミテッド・エディション。
 軽くドライで食前酒向きだが、ベクトルが定めなく稀薄、総体として纏まりに欠ける。おなじ飲むなら、兄弟蒸留所のピティヴェアックのほうが美味。ベルの原酒モルト。
 蜂蜜、バター・キャラメル、クッキーのような柔らかく甘い香り。ただし口に含めば、さらさらと流れるが如き辛口。こくのなさが淋しく、些か物足りない思いに。フィニッシュは軽く短く、舌先に苦みが残る。
 スカイ島の豪族、マクロード家のイアン・マクロードがオーナー、エディンバラ近郊のブロックスバーンに本拠地を置く。同社はイングランドでの「グレンファークラス」の発売元。「タリスカー」をベースに用いたブレンデッド・ウィスキー「マリー・ボーン」「アイル・オブ・スカイ」や「クイーンズ・シール」で識られる。蒸留所名を記載できるボトルはイアン・マクロード社、蒸留所名を記載できないボトルはスコティッシュ・インデペンデント・ディスティラーズ社というように区分している。

09 バルヴィニー '89(DB)
 ポート・ウッド、40度のディスティラリー・ボトル。
 ポート・ウッドの21年もの43度のディスティラリー・ボトルとは異なり、初のヴィンテージ・ボトル。
 スペイサイドのみならず、スコットランドのすべてのモルトを代表する酒のひとつ。グレンフィディックとは兄弟蒸留所だが、フィディックが二級酒とするならば、バルヴィニーは大吟醸。加水にもバランスを崩さない腰の強さが身上。
 シナモン、ジンジャー、オレンジピール等、稠密な芳香と甘味、香りの迷宮に立ち至った感あり。タンニンが支える味わい。ずしりとくる重厚なフィニッシュ。
 ディスティラリー・ボトルには、ファウンダーズ・リザーヴ10年、ダブルウッド12年、シングルバレル15年、ポート・ウッド21年、他に数種のヴィンテージものシングル・カスクがあるが、すべて製法が異なる。職人の妙技と芸の細やかさに脱帽。かかるこだわりこそが、愛飲家の耳目を峙たせる。 麦はすべて自家栽培、現在なお、フロア・モルティングを行う数少ない蒸留所のひとつ。5世代にわたる家族経営にて、モルト担当が4人、マッシュ担当が3人、タンルーム3人、スティルマンが3人の計13人ですべてのモルト・ウィスキーを醸す。

10 ブレイヴァル '96(ダグラス・マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。シェリー・バットの9年もの、46度。
 アルタナベーンとは兄弟蒸留所だが、こちらは重厚な味わい。メイプルシロップや干し葡萄の甘い香り、蜂蜜のような深くまろやかなこくとオレンジ・ピールの風味。フィニッシュは長くドライ。創業は73年と新しいが、ストラスアイラと共に傑出したモルト。ストラスアイラが甘すぎるという方に強くお薦め。
 蒸留所名はブレイヴァルだが、長くブレイヴァル・グレンリヴェットの名でボトリングされていた。シーバス・リーガルの原酒モルトのためディスティラリー・ボトルはなく、インデペンデント・ボトラーを介してやっと入手可能になった。しかし近年、入手がむずかしくなっている。
 ダグラス・マクギボン社は1949年、グラスゴーで組織された瓶詰業者。蒸留所の作業に携わった職人の末裔による同族会社にして、ダグラス・レイン社の系列。広大な熟成庫を持ち、60年代以降、色付けとチル・フィルターを拒み、「プロヴァナンス」の名のもとにコレクションを頒布。特にアイラ島の蒸留所とは太いパイプを持つ。2008年にラベルを一新。

11 マッカラン '96(ウイルソン・モーガン)
 バレル・セレクションの一本。マルサラ・フィニッシュの10年もの、46度。
 マルサラ・フィニッシュのマッカランは本品がはじめてでないだろうか。ラムやポート樽のダブル・マチュアードと比して、甘すぎず、適度の酸味が加味される。これはマルサラとマディラに限られる。すこぶる美味。
 ウイルソン&モーガン社は古くからエディンバラに拠点を置きさまざまな樽をリリースしてきたイタリア資本の会社。謂わば、イタリア系ボトラーズ・ブランドの「はしり」ともいえる老舗で、ムーン・インポートやサマローリよりも幅広い支持を受けている。バレル・セレクションの名でコレクションを頒し、イタリア国内の三ツ星レストランやバーなどではよく知られた瓶詰業者である。

12 モートラック '90(ヴィンテージ・モルト)
 ヴィンテージ・モルト社のクーパーズ・チョイスの一本。シェリー・カスクの8年もの、59.1度のカスク・ストレングス。
 濃厚なピート香と僅かに青林檎のキャラクター、柔らかいタンニンを持つミディアム・ボディ。シェリー樽由来のナッツ香とソフトなバニラの味わい、甘さとピート香のバランスに優れる。フィニッシュは長く、U.D社の16年ものと比べ、より爽やかにしてエレガント。
 ヴィンテージ・モルト社は1992年、ブライアン・クルックによってグラスゴーのバーズデンで創業。ヴァテッド・モルトの「フィンラガン」をボトリング。シングル・モルトでは「クーパーズ・チョイス」の名でコレクションを頒している。クーパーズとは樽職人の意。2001年5月にラベルが一新された。


訂正箇所  | 一考   

 前述したように頭が尿毒素でピンボケなので、このところの書き込みに誤字、脱字が多い。気付けば遡って訂正しているが、変換ミスのように分かるだろうと思われるものはそのままにしているものもある。平井功のように一部文章を差し替えたものもある。要は気分次第、申し訳のないことである。


モルト会追記  | 一考   

 グレンロッシー '81(シグナトリー)の購入価格が思いのほか高くついたので、9700円の会費を10000円にさせていただきます。それとクライヌリッシュを一杯おまけに付けさせていただきます。ラ・トゥールのワイン樽をフィニッシュに用いた逸品で、おっきーさんのご協力によるもの。お通しは前回同様、合鴨もも肉の白髪葱和えを考えております。
 なお、アードベッグのコリーヴレッカンが入荷しました。請求書が届いていないのですが、売価はシングルショット1500円です。


どこへ行く赤坂  | 一考   

 ですぺらを出て左へ行くとコンビニがあって、その向かえに鮨心があった。過去形で書くのは閉店したからである。戸田公園や川口にも屋号を同じくする鮨屋があるが、おそらく経営は一緒なのだろう。鮨ネタに不満はあるがそのことはどうでもよい。書きたいのは家賃が坪二十万円というバブル期そのままの値だったことである。
 駐車場が月十五万円だったのだから坪二十万と聞かされても驚きはしない。ちなみに、コンビニの反対角には薬局が這入った。以前は長く理容室だった。こちらの家賃は坪五万円、設備がないために物販専門の店舗である。しかし、物販で坪五万はどう計算しても出てこない。さらなる転居のための前段階のようだが、月三百万ほどの赤字が出ているはずである。
 他人の財布の中身はどうでもよろしいが、鮨心の赤字は維持費に限っても月八百万円は出ていたと思われる。回転率を二倍と見立てても消費単価が一万円を超えないとやっていかれない。不思議なのはそこまでして赤坂へ店舗を出すことにメリットがあるのかどうかである。チェーン店ゆえ、全体で収支が合えばよいのだろうが、この時世ではそうもゆくまい。
 もっとも、無理をしてでも赤坂へ出店したいというひとが、企業が引きも切らない。それゆえ、適当に開店が続いているものの、新築もしくは改築を試みてそれきりになったビルはことごとくが空いたままである。なかには施工主が夜逃げし、宙に浮いたビルが四棟もある。目立たないが、開きテナントが着実に増えている。赤坂へもシャッター商店街の魔手は近づいているのである。


2010年01月20日

浅川マキ死す  | 一考   

 昨夜、櫻井さんから浅川マキが亡くなられたことを聞き及び、終日マキさんのCDをかけていた。素天堂さんの奥方から頂戴したダークネスである。
 昨日の朝六時頃、裏窓の店主がナベサンへ来店、泣き伏していたと聞かされた。昨夜はゴールデン街のそこかしこで個人的な追悼が営まれたようである。
 個人の情念を詩うアンダーグラウンドの星がまたひとつ墜ちた。アイドルだかなんだか知らないが、詰らない歌手ばかりになってゆく。


ですぺらモルト会  | 一考   

1月23日(土曜日)の19時半からですぺらモルト会を催します。
今回はスペイサイドのダブルマチュアードから選びました。会費は9700円。
ウィスキーのメニューは以下のごとし。詳しい解説は当日お渡しします。
なお、アイラ、キャンベルタウン、ハイランド、ローランドは別の日に催します。

ですぺらモルト会(スペイサイドのダブルマチュアードを飲む)

01 アベラワー '90(ブラックアダー)
 ロウ・カスクの一本。シェリー・ホグスヘッドの11年もの、61度のカスク・ストレングス。限定283本のシングル・カスク。
02 オスロスク '89(ケイデンヘッド)
 オーセンティック・コレクションの一本。シェリー・バッドの15年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定636本。
03 クラガンモア・カスクストレングス '93(DB)※
 ボデガ・ユーロピアン・オークの10年もの、60.1度のカスク・ストレングスにしてディスティラリー・ボトル。15000本のリミテッド・エディション。
04 クレイゲラヒ19年(イアン・マクロード)
 チーフテンズ・チョイスの一本。43度。
05 グレンアラヒ '91(シグナトリー)
 シェリー・バットの8年もの、43度、限定902本のシングル・カスク。
06 グレン・マレイ '89(シグナトリー)
 シェリー・バットの9年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定640本のシングル・カスク。
07 グレンロッシー '81(シグナトリー)
 甘口シェリー樽の17年もの、43度、限定595本のシングル・カスク。
08 ダフタウン '87(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。シェリー・フィニッシュの14年もの、43度。996本のリミテッド・エディション。
09 バルヴィニー '89(DB)※
 ポート・ウッド、40度のディスティラリー・ボトル。
10 ブレイヴァル '96(ダグラス・マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。シェリー・バットの9年もの、46度。
11 マッカラン(ウイルソン&モーガン)
 バレル・セレクションの一本。マルサラ・フィニッシュの10年もの、46度。
12 モートラック '90(ヴィンテージ・モルト)
 ヴィンテージ・モルト社のクーパーズ・チョイスの一本。シェリー・カスクの8年もの、59.1度のカスク・ストレングス。

ですぺら
東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F
03-3584-4566


2010年01月19日

剃毛礼讃  | 一考   

 福原について書かなければならないことは山のようにある。しかし、書きづらい。ちょんの間の母娘がどうしてわたしを受け容れたのか、覚醒剤と性病が蔓延するなかで、あの人たちはわたしになにを伝えようとしたのか。もしくはわたしにいかに生きろと、一体なにを助言しようとしたのか。今いえるのは、書物からは得られない生きた情念を彼女たちはわたしの身体に刻み込んだということのみ。
 お名前は伏せるが、Sとだけ申しておこう、往時わたしより十二、三ほど年長だったので、存命ならば七十半ばである。否、生きてはいまい、あのような稼業のひとの寿命は極端に短い。女郎ならば三十代、拘束を受けない私娼であってすら四十代であって、五十歳まで生き延びるのは奇跡に近かった。戦後、GIによってペニシリンがもたらされたが、梅毒がひいては性交渉が死と直接結びついた時代がその後も長く続いたのである。それ故、「Oの物語」の取って付けたような最終章を読んで鼻白む思いを抱かされた。なぜなら、ビクトリア朝時代、陰毛は汚染物質のように忌嫌われた。夥しいエロティック絵画が発表され、陰毛を描かないことで、ポルノグラフィーか否かの識別がなされていた。「Oの物語」は剃毛という儀式によってビクトリア朝以来の性的道徳のパースペクティブを逆手に利用し、ポルノグラフィーに新たな概念を与えた。言い換えれば、なにが裏でなにが表かといった相対として揺れ動くポルノグラフィーに妄想という決定的な因子を付け加えたのである。わたしは妄想というよりもいっそ夢物語と名付けたいのだが。その性倒錯において「Oの物語」は「ジュスティーヌ」と列ぶ作品となった。已矣かな、あの最終章がなければ。
 わたしがもしも福原を描けば夢物語はおろか、べたべたの私小説になってしまう。泰西とわが邦の気質の差違であろうか、どのように考えても「Oの物語」のようにはならない。悍しいまでの悲惨さを見てきた者にとって、まったく合点がいかないのである。

 閑話休題。エロ子さんが剃毛は女性の身だしなみだと云っていた。わたしはその身だしなみを具えた人と多く付きあってきた。福原という街がそうさせたのかもしれない。ただ、その身だしなみの裏には宿命とも云える深い嗟咨が寄り添っていた。聴くところによると、多くは十代からカミソリと戯れはじめたという。そのことは性衝動の激しさを示唆している。ただし、このリビドーとデストルドーは識別しにくい。自我リビドーと対象リビドーは一種の入れ子関係にあって、リビドー概念はつねに量的な概念を構築する。フロイトの本能二元論である。
 ところで、世の中には自分の才能を信じたり、自分の存在に過剰な自信を持つ方がいらっしゃる。それらは自我リビドーやナルシシズムとは関係なく、わたしに云わせれば単に自己中心性が強いだけの論理回路が未発達なひとを指す。
 動物にはグルーミングという行動特性がある。友好的態度を表すか、攻撃性を隠すかのいずれかが基本にあるのだが、剃毛を一種の毛繕いと取ってとれなくもない。そして女性の身だしなみと書いた理由のひとつが内省にあると思う、心理学でいう内観である。リビドーが力学的なものである以上、そこには搖れとか振れが生じる。わたしが興味を抱くのはそこから先である。性器を赤裸にするための剃毛であっては困る。剃毛はあくまでも攻撃性、翻っては内省をすら隠秘するためのものでなければならない。
 さて、エロ子さんが剃毛なさっているかどうかをわたしは知らない。一度チラとでも覗いてみようか。


2010年01月18日

平井功  | 一考   

 昭和四年八月十八日平井功の纂輯になる襍誌『游牧記』が創刊された。木炭誌を本文に用い全頁二色刷りの手縢本、表紙に用いた極上の局紙には上海の聚珍倣宋字体の活字によって「游牧印書局」と刷られている。扉には限定記号および蔵儲の氏名が活版にて刷り込まれ、巻末には第一号より最終号に至る全冊子の購読者氏名が記されている。恐るべき執心であるが、かかる定見は本邦における先駆的な造書家の一人にこそふさわしく、あっぱれな為事であった。
 当時、改造社の『現代日本文学全集』に端を発した大量生産による廉価版は空前の盛況を呈し、世に謂う円本ブームの真直中。その雑駁な出版界にあって衆愚を厳しく蔑如し、またなんら典籍学上の規矩を持たないいわゆる〈豪華版〉を忌みきらった平井功の見識は、襍誌の部数を六百十六部と劃った事に端的に現れている。もとより書物とは選ばれた少数者のために在し、内容に応じた活字と用紙と装いが献ぜられねばならない。造書家平井功の面目もまたそこに存在した。かつて処女詩集『孟夏飛霜』(大正十一年十二月)の上梓に際し、典籍の形態美における特異な才能の片鱗を示した平井功の、蘊蓄を傾けたであろう開板趣向書が、世の具眼者を瞠目せしめた事は想像するに難くない。だが、この日は栄光への苦衷に満ちた歩みの始まりでもあったろう。十一月三日発售の第一巻第三冊の游牧後記には、両手に小包を持ち、郵便局へと、ぬかるみを雨にうたれながら幾度となく往復する様がこと細やかに記されている。
 「わたくしは何の為にかくの如くにしなければならないのかと考えずにはいられなかった。唯損失を招き、自己の時間を奪われる為だけに、こんなことをしている自分の愚を嘲らずにはいられなかった」
 個人の手になる出版事業が引き起す問題のすべては財政上の一点に帰着すると言っても過言ではあるまい。単なる奢侈逸楽を排し、すぐれた材質の用と美を極限まで活かし、印刷と造本に完璧な気韻を求めた平井功も、拠りてたつ基盤を持たぬ以上自滅するの他はなかった。かくて自家の排印工房を夢み、「書肆経営術に頼らず、専ら純粋の典籍学上並に造書術の知識による書肆の経済的独立」を究めんがため剏められた游牧印書局は、わずか四冊の襍誌を刊して終焉を迎える。所詮は〈南柯の一夢〉であろうか、いま「游牧記」は清楚な趣に溢れてかぎりなく淋しい。

 七十二年の頃、図書新聞へ上記文章を書いた。今ではこのような安っぽく非論理的な考え、即ち「書物とは選ばれた少数者のために在し」といった選民意識を憎悪こそすれ、決して受け容れないが、当時は平井功をそれなりに畏敬していたのである。文中にある孟夏飛霜が上梓されたのが平井功十六歳のとき、思うに十五、六から二十五歳位までが人にとっての旬で、あとは老残ということになろうか。
 アナーキーとニヒルでは政治的動機と位置づけが異なるが、わたしは大正期のそれに倣って均しく扱っている。アナボル論争はあったが、アナニヒ論争なるものは存在しなかった。季村敏夫さんの「山上の蜘蛛」を読んでもそうした消息は変わらない。そして平井功もアナーキズムに走り、獄中で感染した病で夭折する。当時のそういった未分化な考えは同じ大正期に流行った相対性とも通底する。要は中心点の喪失である。中心点の喪失を信じる、言い換えれば信じないということを信じるという、撞着甚だしい考えに囚われたきり、わたしの精神から進歩の概念が失われた。
 以降は、どうでもよいこととどうでもよくないこととの撰別に傾注してきた。それこそが趣味に近いどうでもよいことなのだが。いかなる言葉、すなわち概念であろうともなにものかに相対する。その一方をとって絶対視すること自体がどうにもならない矛盾なのだが、その優位性を競ってひとは議論する。わたしがいうどうでもよいこととどうでもよくないことはそこはかとなく漂う臭いのようなもので、議論の対象にはなりえない。


コリーヴレッカン  | 一考   

『救命艇に人を乗り込ませてください!ここに、このおいしく深くて、強力に泥炭質で、素晴らしく野生のウィスキーの第2の波は、来ます。Corryvreckanはアイレーの北方にある有名な渦からその名前をとります、そこで、最も勇敢な魂だけは冒険する勇気があります。
渦巻いている香りと深い、ピートの、ピリッとする味覚の連続は、この美しくバランスのよい一杯の表面の下に潜みます。パリッとした海草、甘いバニラと栄養に富む、暗い溶かされた果物のその海特徴は、あなたを長い深い終わりに引き入れます。
渦そのものの様に、Corryvreckanは気の弱いものに賛成でありません!』

 ウィスキー業界というものがあるのかどうか分からないが、知己の編輯者や物書きで業界という言葉を好んで用いる方がいる。およそパーソナルな仕事であるにもかかわらず、業界などという巫山戯た文言が罷り通るのであれば、ウィスキーに業界があってもなんら不思議でない。
 上記コピーはアードベッグの新作、コリーヴレッカンのもの。ウィスキーのコピーはとにかく酷い。酷いを通り越して無惨ですらある。上記のコピーを読んでコリーヴレッカンを飲みたくなる人がいたとすればお目に掛かりたい。
 それにしても、このようなコピーを作るひとはなにを考えているのだろうか。どうして素直に書かれないのだろうか。置き換える言葉が見付からなければ「ピートが効いていて美味」でも結構、「アイラ島北方のコリーヴレッカンの渦に巻き込まれるような風情あり」でよいではないか、と思う。新作ゆえ、やむなく来週にでも一本だけ購入する予定だが。


2010年01月13日

要介護  | 一考   

 障害者手帳には大きな文字で要介護と印字されている。現状ではそう大した介護が必要なわけではない。身体が重いのととにかく寒い、そして尿毒素のせいで疲れやすいのと常に頭はピンボケ、家ではセーターを襲ね着して蒲団に潜り込んだままである。しかし、買い物や食事の用意は自分でしている。ただし、それは症状が基礎疾患のときに限られる。骨折や出血のような他の症状が加わるとお手上げである。死ぬときは独りかもしれないが、生きてゆくに一人ではまるで間に合わない。とはいえ、わたしの主義主張から推して他人に介護は頼みにくい。この先、どうするべきか考えなければならない。とりあえず、小さな借家へ引っ越して様子を見、将来はさらに小さな一間のアパートか公営住宅(独り者には六畳一間しか貸してくれない)へ身を寄せるしかない。引越に必要な荷物の整理が現状では捗らない。身体が冷え切っていて情けないほど動かないのである、ストーブも炬燵も入れっぱなしなのだが、パーキンソン病のように震えが止まらない。少し暖かくなれば身体の自由を取り戻せると思うのだが。
 それやこれやで、掲示板をやめようと思い、「誤解」を書いた。三、四日考えて極度に個人的な「はみだし者」を書いた。さて、これからどうなることやら。


脚註  | 一考   

 moonさんから「はみだし者」を褒められた。書いていて註が必要な時代になったと思った。「チーチク、チーカマ、魚肉ソーセージ、目刺し、あたりめのフライか醤油焚き」と書いたが、念のために検索してみた。やはり、チーちく、チーかまは商品登録されていた。チーかまは魚肉ソーセージのバリエーションで、丸善(書店ではない)が1970年に発売。紀文のホームページにチーちくヒストリーというのがあって1996年に誕生となっている。わたしが描いた時代は60年代前半で、共に存在しない。要は似て非なるものである。
 魚肉ソーセージが開発されたのは50年代初頭(発売元は明治屋)だが、1966年に六甲バター(QBBチーズ)が魚肉ソーセージにヒントを得て、世界ではじめてスティックチーズを発売、その二年前にはプロセスチーズを売り出している。わたしがいうチーチクはそのプロセスチーズをスティック状に切って竹輪に突っ込み切りそろえたもので、チーカマは鮨屋で流行った板ワサに前述のチーズの薄切りを添えたもの。共にワサビ醤油で頂戴した。竹輪に胡瓜など生野菜のスティックを差し込むのは昔から見られる簡便なお通しで、それをちょいとハイカラにしただけのこと。
 当時は、せこ蟹(コッペ)、蝦蛄(しゃこ)そして烏賊の耳(耳烏賊ではない)は食するひともなく、子供のおやつだった。それに目を付けたのが引揚げ者たちで、戦後の串カツ文化は鯣烏賊の耳と鯨肉、それとラードからはじまったとされる。
 あたりめのフライやげそ醤油煮はよっちゃんイカが有名(ロールスロイスはさらに有名)だが、わたしが頻繁に食したものとよっちゃんイカとでは味が異なる。わたしがいっているものは酢を使わず、醤油と味醂と七味で甘辛く煮付け、ずんと固かった。よっちゃんイカのデビューは60年代だが、さらに古く、神戸や大阪には鯣烏賊のげそを煮付ける小さな家内制手工業が多くあって、駄菓子屋や紙芝居屋へ卸していた。一箇一円で後年には三箇十円になったが、馴染み客にはちぎれた足をおまけに付けてくれる、十円硬貨を握りしめてよく通ったものである。ちょんの間のお通しだけでも、このような脚註が必要になる。


2010年01月07日

はみだし者  | 一考   

 昔、福原町に柳筋というのがあった。その筋というか通りは今でも健在である。ただ、わたしが近しくした柳筋はなくなった。柳筋がなくなったのなら、桜筋も三十軒筋もなくなったに違いない。しかし、桜筋や三十軒筋と違って、柳筋はどこか名状しがたいですぺれーとな街だった。桜筋や三十軒筋が女郎屋、待合い、仕出し屋、置屋の街なら、柳筋にはその筋からはみでた人たちがたむろしていた。特に柳筋の東側にはちょんの間がところ狭しと犇めいていた。赤線地帯に隣接した一条の青線もしくは白線(ぱいせん)のようなもので、歌舞伎町の新宿ゴールデン街や横浜の黄金町と同種の街だった。
 わたしが新宿ゴールデン街へ好んで足を向けるのは、あの街には遠い幼少期の思い出がいまなお漂っているからかもしれない。ちょんの間は二階屋で、一階に小さなカウンターがあって二、三人這入れば満員御礼である。冷蔵庫などという気の利いたものがなく、ビールをロックで飲ませるか、燗酒の二種がメニューのすべてで、他にはチーチク(竹輪の穴に乾酪を差す)、チーカマ、魚肉ソーセージ、目刺し、あたりめのフライか醤油焚き、それに鯨か牛罐と銘打たれた畜産肉の罐詰などが用意されていた。それだけ書くとまるで角打ちのようだが、ちょんの間の客と角打ちの客とでは目的が異なる。
 やがて二階から客が降りてくる。ばつの悪そうな、済まなさそうな顔をして「おさき」といって夜の街へ消えてゆく。すかさず女が階段の上から顔を覗かせて次の客を急かせる。カウンターの婆が袋入りの乾きものを破り、「あと一回戦だよ、一回戦。すぐだからね、これでも喰ってな」。ちょんの間を営むのはあらかたが親子である。
 母が客を品定めし、娘が客を取る。昔からある風景なのだが、昭和三十年代から四十年代の柳筋にはまだ戦後の息吹がそこかしこに残されていた。父母は交番を派出所、JRを省線と呼んでいた。その派出所が柳筋西側真ん中にあった。向かえにわたしが日参した浮世風呂「暖流」があって、その横の筋に三軒のちょんの間があった。子供の頃はちょんの間でバヤリースジュースを、十五六歳からは燗酒を嗜んでいた。「暖流」に限らず、「えびす」「いろは」「たまや」等々、往時の浮世風呂にはわたしが親しくしたバーテンたちがい、ちょんの間では恋の手習いを、浮世風呂では洋酒の手ほどきを受けた。
 「その筋からはみでた人たち」と前述したが、どのような世界にもはみだし者、世にいう零落者がいる。なるようにしかならないと固く信じ込み、すべてを投げ打った人たちである。喰うための必要最小限のこと以外、目もくれない。そういう人たちに見守られてわたしは育った。


2010年01月04日

営業  | 一考   

 本日から営業です。どうかよろしくお願いします。
 今月の催し物は23日のモルト会と30日の鴨鍋会です。


2010年01月03日

誤解  | 一考   

 掲示板がどういうものなのか、なにを書けばよろしいのか、2001年10月03日にはじめて以来、迷い続けている。「中庸」で「料理人は客を啓発させるのが仕事であって、決して迎合したり同意を求めてはならない。常にひとりそっぽを向いていなければならないのである」と書いた。この啓発すなわち異義申し立てがわたしの為し得た唯一のことでなかったかと思う。ただ、啓発のために、知人も他人も自分も引っくるめて利用してきた。それ故、誤解が生じる。その誤解は「常にひとりそっぽを向」いておれば済むものと心得てきたのである。
 誤解の構造については当掲示板で執拗に書いてきたつもりだったが、そうもいかない種類の誤解が生じてきた。類推でなく言葉尻を捉えられては何を書いても誤解される。そしてそれら誤解を解くつもりはわたしにはまったくない。どうやらわたしは今一度繭ごもらなければならないようである。これだけでは閉じ籠もりの理由にもなんにもなりはしない。それは分かっているのだが、これ以上の詳細は蒙御免。病気の進行に関する事務的なことがら及びモルト・ウィスキーについては書きつづけるつもりだが、内的なことに関しては口を鉗みたく思う。
 管理乃至は技術指導をお願いした櫻井、ヒロ、おっきーさんに深謝すると共に、いままでお読みいただいた方々に満腔の謝意を表する。

 最後に相澤啓三さんから頂戴した一首、
 「ですぺら」は凄絶の粋 笑ひつつ 
   臓器のテープ靡かせ奔る

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