出雲とか熊野とかいうだけで生理的嫌悪感を催す、ことほどさように歴史、文化、伝統等々、日本的なるものを憎悪している。にもかかわらず、入沢氏の詩を読むことが可能なのは「いつ、どこで」を「なぜ、いかに」へと切り換えるフェリーニ張りの魔術であろうか。もとより、リアリズムで夢を見させるのが幻想小説だが、そのリアリズムを刮げ落としてゆくのが詩歌の務めではあるまいか。幻視とは詩歌のための言葉であって、決して散文のためのものではない。
先般、のんちさんから「おにがいた」とのメールを頂戴した。「おにがいた」をおそらく相澤さんは意識していないだろう。アナグラムの結果の「おにがいた」であって、ここにはのんちさんの眼力すなわち熟読だけがある。詩歌にあっては、なにもかもが用意されている。だからこそ、予想外の展開もあり得る。この「詩歌」は「想像力」と同義である。
無理、無体、不可能、なんと言ってもよろしいが、出来ないということを信じなかったひとだけが、海に舟を浮かべ、空に飛行機を飛ばした。「出来ないということを信じなかった」と「出来るということを信じた」では意味合いがまるで違ってくる。それは蝶と猪との違いである。蝶が海を渡り、大陸を横断することは誰もが知っている。それは詩歌によって証明されている。
永田耕衣、塚本邦雄、葛原妙子、三橋敏雄、加藤郁乎、高柳重信、春日井建、寺山修司、高橋睦郎等々を繙くまでもなく、言葉を覚えはじめた頃の誤用すれすれ、もしくは意図せぬ誤用が新たな面白味を生む。それを「痙攣的な美」という。意図すれば間の抜けた緩慢なものになってしまう。文字を正確(正確などという概念がどこにあろうか)に用いるとは、てんかん・ヒステリー・脳腫瘍・中毒・高熱・テタニーなどを起因とする癇疾を言葉から奪うことにしかならない。痙攣をさらに助長させるところに詩歌の大事がある。そしてその典型が西脇順三郎であろうか。
イノベーションとネショーベンの違い、それは進化と退化。矜りはひとが纏う皮膚、そして埃は皮膚の残滓。こうしたことを垂れ流してゆくと西脇流の詩が出来上る。詩も死と同じで皆に平等に与えられている。従って、「詩は万人によって書かれなければならない」というのは間違っていない。間違っていないが故の失意であり絶望である。
さて、のんちさん、どうだろうか。