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2011年01月 アーカイブ


2011年01月31日

転蓬の憂え  | 一考   

「ノミトビヒヨシマルの独言」の末尾を書き直した。季村敏夫さんはすぐれたドゥルーズの読み手である。遊牧的、流動的な思考回路を持つ詩人は極端に寡ない。相互嵌入を詩形に定着させた希有な手練である。それを書こうとしたのだが、当方の読みが浅くて巧く表現できない。季村さんに深謝する。


2011年01月30日

除水率  | 一考   

 寿命や余命について何度か書いてきたが、そのようなことで一喜一憂しているわけではない。透析患者のサイトを読み、もっとも気になることだと思ったから書いている。楽観的なひとがあれば悲観的なひともいる。それらは生まれつき持っている稟質であって、悲観的なひとを楽観的に改造するのは不可能である。ひとそれぞれで良いとわたしは思っている。
 もっとも大切な水分管理にしても、現状では少量だが自身で排尿されている。よって除水率は少ないが、尿が出なくなると一挙に除水量は増える。そうなった時にも管理できるかどうかの自信はない。
 意外と見落とされているのが、食べ物が含んでいる水分である。食べ物の七割近くは水分である。二キロの摂取によって一キロ半ほどの水分が蓄積される。二日間水を一滴も飲まなかったにせよ、三キロの除水になる。仮に一日一リットルの水を飲んだとすれば、計五キロの除水になる。これでは心不全を惹き起こす。従って、一日の摂取を一キロ以内に、一日に飲む水を五百ミリリットルまでに制禦しなければならない。それで二、五キロの除水になる。ちなみに、松屋の牛めし並盛りが四百グラムほど、三食喰えばそれだけで一キロをオーバーする。
 このようなことを何故書くかと云えば、「透析時体重減少(除水)率と1年間の生存に関するリスク」によると、ドライウェイトに対する除水率は、
 2.0〜4.0パーセントの場合1(最もリスクが少ない)
 4.0〜6.0パーセントの場合1.02
 6.0〜8.0パーセントの場合1.16
 8.0〜10パーセントの場合1.68
とリスクが増えてゆく。体重六十キロの場合、除水量は一、二キロから二、四キロが理想であって、それを越えるとリスクが増える。リスクが増えるとは寿命を縮めることである。現実的な数値ではないと思うが、余命はそうして決められる。長生きをしたければ、節食、節飲に務めることである。わたしにはそこまで徹底する気は毛頭ないが。


2011年01月29日

利尿  | 一考   

 今日は技師でなく看護師が穿刺に当たった。曰く、「前回が600、今日は500(ミリリットル)、除水の単位ではないのですが。本当に食事しているの」と叱られてしまった。わたしは朝飯を食べてすぐ病院へゆくので、一日のうちではもっとも体重が重い。玉子ふたつのオムレツと飯を150グラムそれとコップ二杯のお茶、きっちり食べて出掛けたのである。にもかかわらず、このような結果になった。
 透析をはじめる前は惨憺たるものだった。買ってきた弁当を一日がかりで食べていた、それを思えば食事量は倍以上に増えている。体重も徐々にだが増えている。ところが除水分がなかなか出てこない。二リットルぐらいはなんとかと思っているのだが。
 まだ当分はもっとも細いダイアライザーで間に合いそうである。主治医は利尿だよ、と云ってくださるが、どうもそれだけではないようである。量をもう少し増やそうかと思うが、これ以上は食べられそうにない。週に一度ぐらいは猛烈に腹が減ることがあるが、それも単発で終わる。処置なし。

 追記
 最近アクセスログを見るのが嫌になってきた。物騒な項目が多く、動脈へ注射針を刺して自殺というようなものまであった。生きたいひとは生き、死にたいひとは死ねばよいと思っている。人品骨柄は病に罹ったから罹らなかったからで変わるものでない。三万人の内、二万人に這入ろうが、一万人に這入って居残りを決めようが、大したことでない。なるようにしかならない、狼狽えるなと云いたい。


余命  | 一考   

 毎年三万人が新たに透析患者になり、二万人が亡くなるため、約一万人が純増している計算になる。現在総数は二十八万人とも三十万人とも云われている。単純計算だと三分の二は一年未満で死去している。単純計算と述べた理由は発祥時の年齢を考慮していないからである。「透析患者の寿命」で記したように、余命は透析を始めたときの年齢に左右される。透析生活三十五年十一箇月との記録があるが、これは二十歳で透析をはじめたケースで、かつ二十八万分の一の確率である、従って参考にはならない。
 透析患者の死因の一位は減少傾向にあるものの心不全。心不全は水分管理を怠ると惹き起こす。血圧値や心胸比を参考にしながらドライ・ウェイトのこまめな調整が必須。二位が感染症で肺炎が含まれ、高齢者、糖尿病性腎症の増加に比例している。風邪引きは命取りと書いたが、風邪に予防薬はない。罹ったときに重度に陥らないためのインフルエンザワクチンや肺炎球菌ワクチンの積極的な接種が肝要である。
 透析を受けながら何年生きられるかは分からない。膠原病やアルポート症候群の患者もいて、一括りでは考えられない。医師は大きく別けて糖尿病と糖尿病以外とに分類しているようだが、やはり個体差があってなんとも云えない。「透析時体重減少(除水)率と1年間の生存に関するリスク」などを検索しても、具体例に触れているわけでない。自らの寿命は自ら考えろということのようである。ただし平均値は出ている、健常者と比して極端に寿命が短くなるのは間違いない。


透析掲示板  | 一考   

 グーグルから新春特別無料お試し抽選券なるものが送られてきた。金額は三万円、これで宣伝がもう少し続けられる。当方のカウント数が高いせいだが、グーグルにはお世話になっている。もっとも近頃はシングルモルトでなく、透析掲示板の趣が強くなっているが。

 わが国にはろくでもないソーシャルサイトしか存在しないと思っていたのだが、フェイスブックは良さそうである。匿名でないこと、本名、顔写真というのが気に入った。かねてより、匿名子の発言には胡散臭さを感じていた。匿名ゆえの著作権無視など以ての外である。わたしは掲示板を開いているので用事はないが、フェイスブックなら参加しても良いと考えている。


2011年01月28日

寿命  | 一考   

 骨密度が戻ったのを祝して半額の海胆丼を四百四十円で買ってくる。値が値だけあって、軍艦巻の二巻ぐらいの量の海胆である。北海道の海胆丼は三千円から四千円はするが、海胆の量がこちらの丼の五、六倍は盛られていて、結果的には安いのである。
 近頃は刺身、鮨、焼き肉と好きなものを喰っているが、量は少ない。例えば焼き肉は80グラムから100グラムまで、三切れか四切れしか食していない。飯が150グラムなので、併せて250グラム以内である。それを一日二食、当然、間食はしない。それでもじわりじわりと体重を増やしている。ちなみに、週一回は味噌汁も頂戴している、ただし総量規制はしっかり守っている。守らなければ血液検査はクリアできない。
 ダイアライザーで尿毒、クレアチニン、尿酸などは除去できるが、カリウム、リン、ナトリウムなどは全量処理できない。腎臓は二十四時間動いている。週三回四時間の透析で代行できるのは腎臓の機能の七パーセント。生きてゆくのに最低の機能をダイアライザーが担っている。従って、通常の食事を摂るのはかなわない。特にリンを減らそうと思えば蛋白を減らすしかない。蛋白を減らすとは食事の量を減らすことである。
 いずれにせよ、透析によって尿毒素が浄化されるが、次回の透析まで血液中の老廃物は体内に残されてゆく、それが寿命を短くするのは当たりまえである。

追記
 前項の透析患者の寿命について一言。英国では七十歳を越えるとと移植はおろか、透析さえ拒否されるようである。瑞典では自力で食事ができなければ餓死するしかない。看護師は食事は出すが、それから先の面倒はみない。外国は実に明解である、老人は寿命を守れ、不必要に長生きするなということらしい。


2011年01月27日

「ノミトビヒヨシマルの独言」  | 一考   

 わたしの父は五度召集令状を受けている。新潟県人なので行き先は五度(たび)満州である。二等兵からの従軍なので、招集の度に階級が上がり、終戦は曹長で向かえている。要は青春のすべてを満州で過ごしたのである。父が死んだ折、いくつかの従軍記章とともに勲章が出てきた。このようなものを置いていたと云うのがわたしには不思議だった。扇動され、動員され、そして裏切られ、国家の表象とでも云うべき勲章にどのような思いを抱いていたのか。戦地のはなしならいざ知らず、戦争について父が語ることは絶えてなかった。
 震災の日、季村敏夫さんから詩集が送られてきた。題して「ノミトビヒヨシマルの独言」(書肆山田)。文中「海峡にさしかかった瞬間、外地の記憶は貨物船から棄てました」とあって、眼が釘づけになった。重いテーマの詩集である。昭和二十一年四月、アビの捕虜収容所を出て復員した彼の父への思慕と同地へ救い出しに行かざるを得なかった子息を綴った詩集である。巻頭ふたつめに「生かされる場所」と題された詩がある。

 ふしぎ、である
 わたしが、父であり
 おまえが、息子であること
 父であるわたしが
 息子でもあることに

 待つ、待たされる
 子であり、母であるひとが
 家のなかでうなだれる

 波の火につつまれる

 うごめきのなかの
 おまえを包む精霊
 王である父とその息の子が
 救出に向かって
 波の火をくぐったこと

 生まれる前
 おまえもわたしも
 ひかりであったこと

 大地にたたきつけられ
 父たることを知り
 子であることを知らされ
 ともに立ちあがったことが
 ふしぎ、である

 遠ざかっているのに
 森の精霊にいざなわれ
 ざわめきのなかの声を感じとれるのが
 ふしぎ、である

 おまえとわたしが死んでも
 森や波は動きをとめないだろうことが
 ふしぎ、である

 わたしの父が息の子であったころ
 茸採りをして歓声をあげたこと

 その歓声が北ボルネオの森からよみがえり
 孫であるおまえを救出したこと

 息を吹き
 息を吹きかけ
 手をたずさえ
 起きあがって歩むことが
 ひとつの災厄からもたらされたこと

 炎の森を
 三人の木霊がしずくとなり
 火の玉となって転がったこと

 三つ巴になった三叉路から
 野犬が飛び出し
 ことばが目覚めたこと
 
 ふしぎ、である

 昔、澁澤氏からその書冊がすぐれているかどうかは腰巻きに使えるような名文章が這入っているかどうかだと、聞かされたことがある。そのような観点で「ノミトビヒヨシマルの独言」を読むことはできない。できないと云うよりも意味をなさない。名文句などと伺う前に、なぜ詩を書くのか、なぜ詩であらねばならぬのかとの問いかけでこの詩集は充ちている。どの頁を繙いても季村敏夫という詩人の肉声が蠢いている。巧い下手を口にする前に、わたしは季村敏夫のルサンチマンに圧倒される。
 一読すると、未整理にして乱雑な詩の羅列にしか思われない、ところが熟読すればひとつひとつの詩語が常に置換可能であり、実に注意深く並置されているのが分かる。わが国にあっては非常に珍しい詩形である。彼はこのような手法をどこで学んだのであろうか。
 「ノミトビヒヨシマルの独言」は一般受けする詩集でない。詩集で一般受けもないものだが、通常は読者を想定する。この読者設定は作品をより普遍化する。普遍化とは、作品を分かり易くすることである。しかるに季村敏夫の姿勢は一貫して読者不在である。おそらく、読者とは彼にあっては内に秘めた憤りそのものであって、憤りが憤りを伴って際限なく分裂してゆく。一種の怒りの細胞分裂である。
 このように書くと怒髪衝冠を思い浮かべるかもしれないが、ご当人は牧師のごとく温厚にして柔和な性格の持ち主である、脆弱ですらある。だからこそ、ルサンチマンが際立つ。自身の無力を痛感し、自身の能動性を受容し、弱者の憤りや怨恨、憎悪が繰り返し詳述される。言い換えれば、弁証法的止揚とか批判的活動を廃し、ルサンチマンを肯定的かつ反弁証法的に再生しつづける。現在では絶えて見ることがかなわなくなったタイプの詩人である。
 彼の詩から「独言」が消えることはあるまい。彼はそれでよいと思っているに違いない。止揚という概念が顕れたとき、それは季村敏夫が季村敏夫でなくなるときである。彼は自らと闘いつづけるが、他人と諍うことは絶えてない。自虐的なまでの彼の姿勢にわたしは並列共存の思想を視る。それを被虐と名辞しようが、倒錯と名辞しようが一向に構わない。そして、彼にあっては顔と言葉が相似形を成す。そこには掛け値もなければ、自負のような選民意識もない。多くの詩人が持つ酔いや陶酔ともっとも遠いところに彼は存在する。
 さまざまな詩があってよい、あるべきである。そのことを彼は彼の詩作でもって証明してきた。もっとも新しくかつ難儀な精神のひとつの有り様を彼は審らかにする。転蓬の憂えを身に纏ったわたしが愛する詩人である。


2011年01月26日

シール交換  | 一考   

 タイミングベルトの脱着、カムシャフト、クランクシャフトのオイルシール交換と車の修理は大事になってしまった。パーツ代だけで六万円ほど掛かったが、どうもオイル洩れはフロントだけでなさそうである。とりあえず、オイル洩れの添加剤を抛り込んだが、どうなることやら。同添加剤は日産の製品を使った。トヨタ製やBMWの添加剤も使ったことがあるが、安いだけにあまり性能はよくなかったと記憶する。
 裏窓のバタンバタンは結構だが、車のバタンバタンは困惑する。行き帰りの道ではせいぜいが出しても120キロまで、だとすれば相手がベンツだろうとなんだろうと関係ない筈である。ところが軽四にすら追い越される有様。久しぶりに普通に加速するようになった。
 今回も使えるものは日産のパーツを利用したが、オイルシールの類いはトヨタが圧倒的にすぐれている。現在の走行距離は137000キロだが、インプレッサのシールやOリングはこちこちに固まっている。スバルはトヨタの傘下に入ったが、パーツ類も日産からトヨタへ移行するはず、そうするとこの距離では問題がなくなる。


2011年01月25日

免疫抑制剤  | 一考   

 帰りしなに代車を駆って山崎医師のところへ寄る。腎臓ならびに体調の有様を解いて意見を伺う。排尿があること、造血されている(エリスロポエチンが生成されている)ことを指摘。ヘマトクリットが35.8、ヘモグロビンが12と細かく説明。壊死するのは時間の問題だと思うが、いまなお腎臓のごく一部が機能しているのが面白い。山崎さんも不思議だと強調なさっていた。
 腎不全の患者は貧血と高血圧に悩まされる。同時に高リン血症、二次性副甲状腺機能亢進症(要するにリンとカルシウムの調整)は厄介な病である。しかし、透析に伴う合併症が多発するのは三年後とのこと。
 腎移植による免疫抑制剤の副作用について話する。透析よりは移植の方が平均生存年数はほぼ倍になるものの、表に出てこない数値として免疫抑制剤の拒否(腎臓に限らない)による自殺がかなりの数に上ると聞く。副作用にも個体差があって一概に云えないが、重度の鬱病を惹き起こすようである。
 透析か移植かはむづかしい問題を孕んでいる。透析による時間的制約が気にならなければ移植は避けた方がよいのかもしれない。ただし、移植から透析へ戻ってきた患者に後悔の弁はない。例え一時にせよ、拘束を解かれたことに対する感謝の言葉しか聞こえてこない。

 山崎医師と話すのは楽しい。あと三、四年が寿命です、または長生きの話になると彼はその芽を摘んでゆく。癒らない病と云うと、人は暗い顔をする。しかし山崎さんは違う、優雅なる冷酷とでも云おうか。こんな症状も出る、あんな症状も出る、やはり長くないよ、否わたしは死なないよ、そうかなあ、と物云いがつづく。二人で他人事のように病症を分析する。その他人事にどれだけ救われたか分からない。事前に知識があるとないとでは対応の仕方がまるで違ってくる。期待するから裏切られるのであって、はじめにどうにもならないと教わるのは正しい。山崎さんから透析を薦められたことはない、しかし、透析をするとなるとちゃんと紹介してくださる。判断は自分でしろと云うことである。
 クリニックの技師からは本人があと何年元気に生きたいかで総てが決まる、と云われている。精一杯寿命を全うさせるための協力はする、あなたには七十歳近くまで生きていてほしい、とも云われている。今後、いかなる感染症に罹ろうとも、例えわたしが死ぬことはあっても精神を病むことはない。気力そのものがわたしの最大の抑制剤である。


代車  | 一考   

 車の修理に戸田へ出掛ける。プラグ、プラグコード、点火コイルの交換である。工具を借りて無事に修理完了、念のために車を持ち上げてみる。右エンジンの後部パッキングは入れ替えたが、オイル洩れはそれだけでなかった。エンジンの下部、ドライブシャフトのフロント部分からのオイル洩れが激しい。これはわたしの手に負えない。必要なパーツを註文、ここから先の修理は専門家に任せるしかない。明後日の夕刻出来上る予定、代車を借りてすごすごと引き上げる。
 その代車だがFFである。わたしはFRもしくは4WDにしか乗ったことがない。速度が出ると同じだが、スタートで必ず前輪が空転する。右左折の時など特に空転が激しく、車があらぬ方を向いてしまう。アクセルの踏み込みが急すぎるのであって、わたしの足癖の悪さを思い知らされた。


2011年01月24日

透析患者の寿命  | 一考   

 某移植外科医が拵えたデータ、他のブログからの無断引用です。
 移植に関しては生着でなく生存ですから移植後、再度透析に戻った人も這入っている。

 年齢     血液透析(平均生存年数) 移植(平均生存年数)
 15歳〜19歳  男24.8年 女24.6年   男46.1年 女47.0年
 20歳〜24歳  男21.5年 女21.6年   男41.9年 女43.0年
 25歳〜29歳  男18.5年 女18.9年   男37.6年 女38.9年
 30歳〜34歳  男15.5年 女16.3年   男33.3年 女34.7年
 35歳〜39歳  男13.0年 女13.8年   男29.2年 女30.9年 
 40歳〜44歳  男10.8年 女11.8年   男25.3年 女27.3年  
 45歳〜49歳  男 9.0年 女 9.9年   男21.8年 女23.8年     
 50歳〜54歳  男 7.4年 女 8.1年   男18.5年 女20.5年  
 55歳〜59歳  男 6.2年 女 6.7年   男15.7年 女17.8年 
 60歳〜64歳  男 5.2年 女 5.6年   男13.2年 女15.2年 
 65歳〜69歳  男 4.4年 女 4.8年   男11.0年 女13.2年

 透析や内シャントが治療法として確立されたのは1966年。翌年に人工透析装置が米国から輸入され、69年に国産第一号作製。下って72年身体障害者福祉法の対象となり、75年に現在の構造と同じ人工腎臓の登場によって急激に人工透析治療が普及する。この初期段階で透析をはじめた若人で、透析生活三十五年という猛者もいる。
 人工腎臓、すなわちダイアライザーは無選択的な濾過機能を代行するに過きず、尿細管における選択的再吸収や分泌機能は行なわれない。すなわち、エリスロポエチン、プロスタグランディンというホルモンや、レニンなどの酵素は生成されない。


骨密度  | 一考   

 血液検査と同時に骨密度の検査結果が出た。骨密度にもいろんな種類の検査があるが、わたしが受けたのは音響的骨評価値である。数値は2.694、同年齢の骨密度と比して101パーセント、若年成人時と比して93パーセント、要するに異常なし。一年半前には川久保病院で靭帯剥離骨折の理由を腎臓由来の骨粗鬆症と診断された。骨粗鬆症が癒ったとは信じられないが、検査を繰り返したので間違いない。木村さんからゾンビのような人間だと云われたが、そうなのかもしれない。
 松葉杖が不要になってから久しいが、いまなお歩行の一部に不便がある。歩くもしくは階段を上るのは人並に出来るようになったが、下りるのが未だに不器用である。おそらくハムストリングが恢復していないのだと思う。ハムストリングは膝関節の屈曲・内旋を行う筋肉だが、動きがぎこちない。サイクリングで鍛えたつもりだが、素早く階段を下りられないのである。
 川久保病院にはリハビリ科もあったが、腎不全が酷くなり、尿毒症の痛みでリハビリどころでなかった。結果、丸一年にわたって脚を引きずりながら店へ通った。完全に癒るかどうかは自信がない、こちらもやはり長い目で見るしかない。


満点  | 一考   

 北里では医師が自ら穿刺していたのに愕かされたが、現在のクリニックでは穿刺は技師か看護師に限られる。医師は一日に一度回診に来るだけで、問診のみ。従って、医師と親しく会話できないのが少々不満である。血液検査の結果は栄養士と、分担が決まっているようである。レントゲン、心電図、エコーなど、他に定期検査は多いが、結果に異常が見られない限り、説明もなにもない。わたしは異常が出ないので、「どうですか」「なにもありません」それで頷いてお仕舞い。血液検査にしても専ら自己判断で済ませている。
 その血液検査だが、一昨日は四十一項目すべてに亙って結果値が許容範囲に収まった。このようなことは始めてである。看護師からもなにも云うことなし、見事なものです、敢えて云えば食がちょっと細いようですが、と云われる。これは尿素窒素が56と低いのを指摘されたまで、60を切れば食欲不振と診断される。診断はともかく、食欲は旺盛である。正月明けが大変だったので、その分もりもり喰っている。前回は50なので、随分と改善されている。たかが血液検査だが、学生時代にテストで満点を取ったような嬉しさである。


2011年01月22日

メンソール  | 一考   

 例によって何時もの煙草屋へ。普段ならパイプ煙草かシガリロの試供品をおまけに頂くのだが、今回はメンソールは咽むのかとの問い掛け、で、ケントのブーストメンソールなる新製品を一箱頂戴する。フィルターの中央部に一ミリ足らずのブルーのカプセルが入っている。それを割ってから咽むのだが、恰度、ビールのカスクフローと似ている。ニコチンとタールを落としてメンソールを効かせるにはこの方法しかあるまい。アイデアとしてはすこぶる面白い。
 好みのコイーバは五百円に値上げ。紙巻きと比してシガリロは相対的に安かったのだが、今回は随分と値が上がった。上がったからといって止めるつもりはない。あと何年咽むことになるか分からないが、ベースにしているゴールデンバットは二百円である。安価な煙草がある限りは咽み続ける。


2011年01月21日

マッカラン  | 一考   

 マッカランの新製品を購入、メーカーズ・マークのカスクを熟成に用いたもの。何時も書いていることだが、マッカランはシェリーカスクでない方が好みである。シェリー香が強く、渋味が勝ったものが多いように思われる。長期熟成品ならともかく、十年から十二年ではシェリー香は押さえ気味の方が旨いと思う。
 以前、ボトラーものでマッカランのバーボンカスクを飲んだが、マッカラン固有の男性的な味わいに惚れ直したことがある。今回のボトルは当たりは柔らかいが、マッカランの違う側面を強調している。
 序でに、ファインオークの十二年もののニューラベルを購入。ラベルにトリプルカスク・マチュアードと記されている。フレンチオークのシェリー、アメリカンオークのシェリー、バーボンの三種だそうである。以前のファインオークはフレンチオークのシェリーとバーボンの二種だったと記憶する。色も随分と異なる、もっとも色ほど当てにならないものはないが。新しいファインオークの方がシェリー香は強い、渋味が表面に躍り出た感じである。旧ボトルがわたしの好みに近い。オーナーが変わってからマッカランの試行錯誤が続く。今のところ、大量生産が裏目に出ている。


紅茶  | 一考   

 最近エスプレッソのミルク紅茶が増えてきたが、いずれも頗る旨い。香味は一律に濃厚である。珈琲ならロブスタ種を増やせば簡単に苦味が出るが、紅茶の場合はどうしてるのかしらと思う。わたしは紅茶党なので、かかる商品が発売されるのは嬉しい。珈琲は煎茶と同じくカリウムが高いので喫まれない。
 エスプレッソとは正反対だが、中国の紅茶はインドやスリランカ産の紅茶に比べてタンニンが少なく(要するに渋味が少ない)、素直な味を楽しむことができる。有名な台湾の鶴岡紅茶に一炮紅(イーパオホン)というのがあって、かつて喫んだ中国紅茶のなかでは群を抜いていた。
 プヒプヒさんに買って頂いた電気ストーブと同じものを拙宅で使うために購入。「修行」で書いたように、風邪に対する意志力の補完財のつもりである。上述の紅茶も補完財のひとつと考えている。風邪を避けるには水分が一番、大量の紅茶を淹れて冷蔵庫で保管、必要に応じてレンジで温めて嗜んでいる。尋常な喫み方でないのは分かっているが、一人暮しだと一杯ずつ淹れるのが面倒なのである。


2011年01月20日

感染症  | 一考   

 何度も書いていることだが、透析治療を受けている人は感染に対する抵抗力が著しく低下する。風邪に罹ると癒りにくく、感染期間が長引く。高齢者は肺炎に移行する場合もあり、日ごろから細心の注意が必要。
 市販の薬は厳禁である。胃腸薬にアルミニウムが含まれているように、風邪薬には熱冷ましや咳止めなどが含まれており、体外へ排出されにくい成分が多い。栄養ドリンクの類いもビタミンAをはじめ、透析患者が摂ってはいけない成分が含まれているので禁止品である。
 要するに、体力や免疫力が落ちている透析患者が風邪をひいた場合、最悪の状況を覚悟した方がよい。そしてさらに怖いのは院内感染である。両手を拡げれば隣の患者と手が触れるような環境である。一人が風邪を引けばたちどころに蔓延する。わたしが通うクリニックなら一室六十名が感染する。重度の場合は入院、そして個室で透析ということになる。
 いずれにせよ、透析患者は風邪を引かないように、普段から格別の注意を払う必要がある。


2011年01月19日

修行  | 一考   

 クリニックの室温は27度から29度に保たれている。為事をしているとうっすらと汗ばむ温度だが、こちらは身動きできず寝ているだけ、従って寒く感じるときもある。
 体感温度は体内へ戻す血液の温度に大きく影響される。冬場は体温プラス0.5度が適温らしい。わたしの体温は36.0度から36.2度なので36.5度が相応しい。回りを見回すと37.0度がほとんどである。透析をはじめたのは去年の八月末だが年内は36.0度、年が明けてから36.5度を選択している。
 透析は四時間だが、わたしは新米なので順番が最期になる。従って拘束時間は五時間。この間はトイレに行かれない。みなさんは食事したりお茶を飲んだりなさっているが、わたしにそうした余裕はない。わたしは男性だからまだしも、尿道の短い女性だと大変だろうと思う。朝起きるとまずトイレへ行って便意を調整するのが日課だが、便秘や下痢は禁物、二日酔も厳禁である。熱も風邪も食あたりも、とにかく下痢に結びつくことは一切禁止されている。禁止と書いたが、意志力だけで風邪を引かずに済むものかどうか、わたしには自信がない。これは一種の修行のようなものに違いない。
 飲酒は土曜日の深夜に限られるが、ギネスの小瓶一本に収めている。ほんとうは燗酒が飲みたいのだが、癖になると困るので遠慮している。今頃は真澄のあらばしりが旨いのだが。


2011年01月18日

内視鏡  | 一考   

 穿刺の際の「事故」は滅多にないようですが、起こるのは事実で、看護師という職業は大変だと思います。「針刺し元の患者さんへの採血」はわたしが通うクリニックでも行っています。「マナーを当然の事として事業を行うのは、職場管理上、より問題がある」に関しては確かにそのように思います。マナーで処理するのは軽率に過ぎるようです。

 エリスロポエチンの分泌は順調、赤血球は増えています。骨粗鬆症はかなり改善されてきたようです。理由は分かりませんが、骨密度の検査では年齢相応で異常なしと云われました。もっか風邪に注意するよう五月蠅く云われています。もしも風邪を引けば、同室の六十人の透析患者に危機が及びます。命にかかわることなので、この種のプレッシャーには困惑させられます。
 痛み止めなしで大腸の内視鏡検査をしました。内視鏡恐怖症に陥りました。


2011年01月17日

看護師の検査  | 山崎利彦   

連続での書き込み、御許し下さい。
通常の病院では針刺し「事故」が発生した場合、その看護師への採血等は労災として扱い、病院側が負担します。病院の取り扱いに寄りますが、東京都立病院のように強力に官僚支配が行われる場合には、針刺し元の患者さんへの採血も行います(この費用は病院負担の場合と、御本人に請求する場合が両方あるようです)。また、気付かずに感染する場合も当然ありますので、定期的に感染症等の検査は病院が行っています(これは病院の開設者の意識にもよります)。私の診療所でも年に1度は感染症の検査は私が支払います。その場合、診療所の福利厚生扱いですので経費計上が出来ますから、必ずしも損失とは言えません。患者さん側が「マナーとして」普段感染症を検査しておくと云う発想、私には思い付きませんでした。大変有り難いお心遣いではありますが、「マナー」を当然の事として事業を行うのは、職場管理上、より問題があると私は思います。どちらかと云うと、風俗に通う場合にこそ、そのマナーを求めたいとは思いますが(笑)。

追伸:昨年末より、病院入院中の方々の在宅への導入がより進行し始め、私の診療所でも在宅診療が多数に成って来ました。午後の診療が極めて不定期になりつつありますので、不在の折は御容赦下さい。と、同時に、殆ど浦和を出るのが叶わぬ状況にあり、お店にもなかなか伺う事が出来ず、すっかり御無沙汰しておりますが、何とか近々伺いたいとは思っております。


死因  | 一考   

 ブラックアウトのような処理仕切れない痛みはどうにもならないが、昨今の穿刺による痛みは異なる感慨をもたらした。まず生きているとの実感、言い換えれば生に対する執着である。執着するほどの未練があるわけではないが、このようなことで死んでたまるかとの気概である。
 痛みというのは不思議なもので、限界を超えるとひとは受け身にならざるを得ない。しかし臨界点以前だと無性に戦闘意欲が湧いてくる。
 わたしの余命はと云う前に、こんなことでは死なないな、と思う。かつて憩室から下血した折にも同じように思い、そして死ななかった。思い込みがすべてとは云わないが、寿命が近づいてきたとき人はそれとなく悟るものである。透析をはじめて四箇月、少なくともわたしの死因は別なところに在ると信じるに至った。
 震災で生き延びて十六年、下血で生き延びて一年余、腎不全で死に損なって半年、まるで悪霊にでも取り憑かれているようである。


マナーとは  | 一考   

 無音に過ぎゆき、こちらこそ恐縮しております。実はわたしの先行きに関し、ご相談致したきことあり、近々お伺いしようと思っております。
 感染症予防に関する制度はよく分かりました。「透析期間中に定期的にSTDやHIVの検査を行うのは、検査料金として医療機関が全て負担する場合を除くと不可能です」も納得です。ただ、危険にさらされる看護師のことを考えると合点が行きません。わたしが通うクリニックの看護師によると、注射針を誤って刺してしまったときは自ら検査を受けると云っていました。この場合、自腹を切ることになるのでしょうね。
 私的検診と保険診療の違いは当然だと思います。わたしが云いたいのは私的検診に金数を使うのがマナーでないだろうかと云うことです。日頃血液を出したり入れたりしていると、その感を強くします。それでなくても、肺炎の予防接種や動脈硬化の検査など、保険適用外の診療は多くあります。だとすれば、そこにSTDやHIVの検査も入れるべきだと思うのです。毎回、お世話になる技師や看護師に対する、せめてもの心遣いでないかと。
 もっとも保険適用外になると、ほとんどの受診者は拒否します。現実には難しいでしょうね。


>マナー  | 山崎利彦   

御無沙汰しております。良い透析先が見付かった様子で、取り敢えずは安堵しております。
さて、感染症予防に関しまして「マナー」として御記述がありましたので、「制度」としての投稿をさせて頂きます。
「マナー」としてのマスクの着用に関しましては一考さんの御指摘の通り、日本人は外国人(欧米人に限らず)と比較して極めて敏感です。新型インフルエンザ騒ぎの際に、成田空港に到着した外国人達が大層驚いていたと云うのは何度か報道もされています。これは多くのワイドショー等で多くのコメンテーターが推奨していた事にも原因はありますが、それ以上に元々「花粉症」の有病率が高く、多くの国民がマスクの着用に馴れていた事も原因ではないでしょうか?インフルエンザはウイルス性疾患ですので、本来マスクでの予防効果は市販の物では低く、「N-95(浮遊粉塵等の95%以上の除去効果がある物)」以上の性能を有し、かつゴーグルと手袋を併用、頻繁に使い捨てて手洗いとうがいを積極的に行う必要があります。実際に手荒いやうがいを行う一般市民を殆ど目にしませんので、マスクのみが流行するのはこうした背景があるのではないでしょうか?
 では、マスクは全く無効であるかと云うと、逆の立場では有効です。即ち、自分から他人に伝染させない効果です。呼吸器感染症の多くは「飛沫感染」で、咳きに伴う「しぶき」に多くの病原体が含まれています。これは通常のマスクでブロック出来ますので、他人への配慮としては有効です。実際、医療従事者が患者さんの前で咳きをしまくると、患者さんは相当不安に成ると思います。欧米人も、「自分が重度の感染症を発症した時は」マスクを着用します。逆に、診療の際に直接飛沫を浴びる可能性が高い医療従事者の場合は、N-95以上のレベルのマスク+ゴーグル、場合によってはガウン着用+手袋に成り、その頻度や程度により増減します。因に私のクリニックではマスクと手袋は支給して、着用は本人の自覚に任せています。
 STD(性行為感染症:性病と云う表現は性病予防法の範疇の疾患との混乱を防ぐ意味で最近私達はあまり使いません)の検査ですが、「マナーとして」はあくまでも「私的検診」の扱いに成りますので、保険診療では行えません。自覚症状があった、又はパートナーが有病者である場合にのみ可能と云う事に成ります(混合診療の是非に付いてはこの場では敢えて触れません。必要であれば御呈示下さい)。ある程度の侵襲的処置(手術等)を伴う医療行為の場合には、梅毒反応、ウイルス性肝炎(B型とC型)は保険適応がありますが、その後は算定不能です。HIVに関しましても施行は可能ですが、その際は患者さんの同意が必要です。北里で書面を要求されたのは同意を得た旨の証拠が必要だからです。従って、透析期間中に定期的にSTDやHIVの検査を行うのは、検査料金として医療機関が全て負担する場合を除くと不可能です。別の医療機関で新たに手術その他を行う場合は、当然初診扱いに成りますので、再度検査が可能ですから、術前検査として行っています。
 以上、あくまで「制度」の問題なのですが、保険診療を行う以上、制度に外れた請求を行うと医療機関か患者さんのどちらかが莫大な負担をしなければ成りませんので少々解説致しました。


2011年01月16日

マナー2  | 一考   

 埼玉にはダイソーという店が沢山ある。百円ショップで拙宅の近所にもあって先頃灰皿を買いに出掛けた。何から何まで揃っているのに驚いた。序でに鉄製のフライパンと靴下とパンツを買った。百円だけあって、パンツには社会の窓が開いていない、横から引っ張り出すタイプである。もっとも、わたしは立ちションは滅多にしないので、これで十分である。
 通常、男性は立ちションで済ませる。当然、回りへ飛び散ることになる(徒散るは朽葉ばかりで結構)。飛び散ったところで、自分で掃除するならそれで良い。しかし、ほとんどの場合は他人もしくは連れ添いが掃除する。それが嫌でわたしは洋便器なら必ずしゃがむようにしている。
 旅の恥は掻き捨てと云うが、人は家の恥まで掻き捨てている、みなさんは何時から転蓬となったのであろうか。


マナー  | 一考   

 欧州では原則マスクをしない。全くしないというわけではないが、それは塗装とか手術中の医師とかに限られる。飛行場へ降り立った日本人がマスクを掛けているのを見て、外国人は驚くようである。そしてわたしが通うクリニックは全員がマスク着用である。そこで訊いてみた。
 血液を触る場合は本当はゴーグルをしないといけないらしい。しかし、そのような完全装備だと患者に負担をかける。そこでマスクと手袋の着用に及ぶそうな。さらに質問。血液検査は二週間ごとだが、HIVや各種性病、HTLV-1や肝炎などの検査はしているのかと。
 かかる検査はしていないとの返事が返ってきたのには驚かされた。わたしは輸血の前後は当然として、それからは病院が変わるたびにその種の検査を繰り返している。北里ではHIVの検査のため、捺印した書面まで提出させられた。当然、クリニックでもしていると思い込んでいた。
 心当たりがないならともかく、もしあれば(例え相手が連れ添いであろうとも)性病検査ぐらいは受けるのがマナーだと思う。かつてわたしの女友達も毎年検査はしていた。先進国は減り続けているのにわが国の性病患者は増え続けている、理由はそのようなマナーの欠落にあるに違いない。
 口にマスクをするのなら下のマスクもお忘れなくと云いたいところだが、どうやらあのマスクは単に流行りでしているようである。


2011年01月15日

ユーパッチ二分割  | 一考   

 五箇月目に入って穿刺に使っている箇所の皮膚が硬化してきた。技師によると硬化したところから瘤のように膨らんでくるらしい、そして硬化した部分は神経も麻痺し痛みがなくなると。ところが、わたしの場合は硬化した部分に限って大層痛い。これも個体差なのかもしれない。
 血管というものは畝っている。最初は真っ直ぐに見える血管も太く発達すればするほど上下左右に歪んでくる。穿刺には四、五センチの真っ直ぐな部分が必要なのだが、そのような箇所は現在のところ二箇所しかない。他の患者を見ていても、肩から手首まで腕の表裏のさまざまなところを穿刺している。みなさんがそれなりに四苦八苦しているのが分かる。
 今は静脈を用いているが、ずっと動脈へ血液を戻していた。その傷跡があと一週間ほどで癒える。癒えれば血液の採取口として使いたいのだが、謂わば血管の支線であって本線でない。よって充分な血量が採れるかどうか不明である。貰えるユーパッチ(痛み止め)は二枚のみ、従ってユーパッチを二分割して用いるしかない。間違いのない箇所と不明の箇所の双方である。どうあっても痛みは避けたいと思っている。


2011年01月14日

自決  | 一考   

 動脈、静脈ともに位置を変えてうまくいった。刺し直しがあったが、久しぶりに痛みを伴わない透析だった。ただ、静脈の止血に失敗、回りを少々血で汚した。静脈側はバンド、動脈側は手で圧さえて止血する。手のセンサーはすぐれているがバンドはそうはいかない、たまには血が吹き出ることもある。
 それにしても針が刺さってくるときの痛みというか、皮膚の引き攣った感がないというのは嬉しい。痛みを顧みながら穿刺の位置を自分で決めなければならないのがよく分かった。看護師や技師はこちらの注文を注意深く聴いてくださる。黙っていては分からない、痛い目に合うのは自分である。
 看護師によると穿刺の痛みに耐えかねて透析を諦める方がいるそうな。当然、命を失うわけだが、そこまで行くまえにどうして看護師や技師と話し合わなかったのかと思う。受け身でいてはなにひとつ解決しない。痛みに耐えるのが闘いでなく、看護師や技師と共に痛みを避けるための方策を探す、病と闘うとはその探求心のことでないだろうか。


2011年01月13日

異音  | 一考   

 ゆっくりと走り出せば音はしないが、わたしの癖でアクセルは突き当たりまで踏む。その度にバーンバーンと車が唸る。まるでドアを強く開け閉めしているようである。後方から聞こえるが、車で異音が出るのはエンジンルームに決まっている。他に異常はなさそうなのでこの二週間ほど捨て置いた。それがこの二、三日マフラーがパンパンと詰ったような爆発音をだすようになった。周章ててボンネットを開けると思ったとおり、エンジンが一気筒抜けているようである。前回の車検でキャブは交換済みなので、コイルか点火コードだと思われる。
 わたしの車のエンジンは水平対向四気筒1800ccだが、思い切り吹かしていると煙りが出てくる。右エンジンの後方下部のOリングからオイル洩れ。これは簡単だが、穿刺のせいで腕が動かない。片腕ではなにもできないので、とりあえず戸田の修理屋まで。高速道路を走って、なおのこと修理箇所が明白になった。車はノーマルのままなので180キロまでしか出ない。で、1××キロ(違法速度なので記載できない)からの加速が思うに任せない。たまに三気筒で走っているようである。
 必要なパーツは月曜日に入る。ついでに戸田の市役所で昨年の納税証明書とロジャーズで靴を買う。久しぶりのロジャーズだが、三郷にあればよいのにと願うことしきり。


2011年01月12日

蜂蜜  | 一考   

 幹郎さんから栗の花の蜂蜜を頂戴した。わたしは基本的に甘いものを食さなかったので、食べ方がよく分からない。蜂蜜で馴染みなのは少量カレーに入れるか、コーヒーノキから作った黒褐色の蜂蜜のみ。後者は砂糖と比して独得の風味(微かにジャスミンの香)があって珈琲とすこぶる相性が合う。こちらも上島珈琲で教わった。ちなみに、ホットケーキやフレンチトーストとも合う。喫茶店で働いていたときに実証済みである。
 季村さんが元町五丁目の茜屋珈琲店について書いていらっしゃる。コーヒーノキ(コーヒーの木)はアカネ科コーヒーノキ属に属する植物の総称、屋号はそこから取られている。今では全国区の喫茶店だが、本店は神戸三宮駅北側にある。茜屋軽井沢店の柘榴のジュースとコンコード(過去掲示板で何度か触れている)の葡萄ジュースはわたしの好物だった。共に生ジュースで、季節限定メニューである。ちなみに、茜屋珈琲店元町店に入浸っていた俳文堂主人有川さんは砂糖の取りすぎで糖尿病に罹り、それが理由で死に至った。
 余談ながら福原のハイボールセンター100万ドルではじめて飲ませてもらった飲料が明治屋のグレナデンジュースを炭酸で割ったもの。小学生の時のはなしだが、爾来柘榴ジュースには特別の思いがある。


2011年01月11日

痛み  | 一考   

 腎臓を病んでから感染症、特に風邪には注意するように云われている。確実に肺炎に罹るからである。罹ると癒らない、それほどに抵抗力がなくなっている。木造家屋だと室内温度は外気温と比して二、三度高いだけである。ところがマンションは下がっても十二度はある。ちょっと暖めれば十六度になる。引っ越してよかったと思う。
 二輪だと体感温度は五度以上下がる。今日の気温は二度、だとすればマイナス三度以下になる。そこで男性用ストッキングを履いていた。今年から二輪は乗らなくなったのでストッキングの類いも不要になった。履かない方が脚は具合よい、体毛が逆向きになって気持悪いのである。
 食欲がなくなるほどではないが、今日も穿刺が痛かった。四箇月間痛いと思わなかったが、最近は怺えることが多くなった。それだけ血管や皮膚が傷ついてきたのであろう。
 アメリカでは人工血管を用いる。人工血管の利点は穿刺の痛みが伴わないこと、欠点は三箇月から半年しか維持できないこと。ただし、アメリカの場合は移植までの期間が短いので人工血管で十分なのである。比して日本では移植は原則あり得ない。透析を死ぬまで続けるしかなく、内シャントしか方法がない。これは医療でなく、文化の違いである。


2011年01月10日

寒鰤  | 一考   

 一切れ食べただけで氷温で置いていた鰤を食べる。実に美味い、さすがに寒鰤である。この土日は食事に一切制限を設けない。刺身とミニステーキと肉豆腐を喰う。塩分やカリウム、リン含有量の多い食品の他、脂溶性ビタミン類、ビタミンC等も危険な食品だが、今日に限ってお構いなし、それほどに空腹だった。明日の月曜日に体重を整えればよい。
 好きなものを飲み、好きなものを喰う、そんな日があっても良いと思いつつ、久しぶりに食べていると涙が出てくる。命永らえるのを交換条件での食事制限であり透析である。それ以上望むものが何処にあろうか。思わず、箸を置く。こうした迷いがこれからも続くのかしら。


2011年01月09日

留置針  | 一考   

 通常、血流は動脈にあっては身体の端々へ流れ、静脈は心臓へ向かって流れる。ところで内シャントによって静脈を動脈に改造した血管の流れは当然心臓を向いている。要するに透析の際に用いる血管は動脈でありながら心臓へ流れ込む。これが心臓に負担をかける理由である。
 二本穿刺する血管内留置針、すなわち血液を抜き出す側と戻す側は血流に沿って互い違いに刺される。ただし、取血側は血量が十分に取られれば逆でも差し障りはないし、戻す側は静脈であれば全身どこでも構わない。
 穿刺は心臓から離れるほど痛みが増すと云われる。肩より腕、腕より指先の方が痛い。臂の内側のような関節部も痛みは少ないが、血管内留置針は長さが三十ミリほどあって、平坦な部位でないと血量が確保できない。ちなみに血管内留置針は、少々の動きで抜けたり血液が滲んだりしないように、柔軟性があって生体適合性の良い材料で造られている。
 静脈は細く表皮を匍うように流れ、動脈は太く体内深く隠されている。斬り方にもよるが、動脈を截断すれば二、三分で死ぬ、静脈は止血すれば滅多なことで死ぬものでない。リストカットは手首を切る自傷行為だが、切っているのは静脈であって動脈ではない。手首の動脈は十ミリほど深いところにあり、手首を切り落とす覚悟で刳らなければ死ぬのはかなわない。もっとも死んでしまえば自傷行為を通り越し、自殺行為になる。
 今まで透析には穿刺する二箇所共に、動脈に改造した血管を用いてきた。太く発達しているので穿刺しやすいからである。しかし、同じところを使っていると血管が早く傷つく。痛んだ箇所は荒廃し、血管が団子のように膨らむ理由のひとつになる。ゴム製の管を想像していただければ分かるが、いつしか弾性を失って止血が効かなくなる。
 注射針が太いので穿刺の傷跡が消えるのに五、六日はかかる(糖尿病の場合は血管が脆くなっているのでさらに日数がかかる)。動脈側はできるだけ真っ直ぐなところを撰んで使うしかないが、静脈側は幅広く穿刺する方が個々の血管の痛みが少なくて済む。そこで穿刺箇所を他の静脈に変え、血液を戻していた箇所も取血に使おうと思ったのである。そして針を反対側から刺せば、穿刺箇所はさらに拡がる。
 前回「針を反対方向から刺してもらった」と書いた理由である。


2011年01月08日

穿刺  | 一考   

 火曜日から木曜日は食事を抜き、金曜日は深夜の一食のみ、火曜日の穿刺が痛かったからである。おそらく神経に触ったのだと思う。透析中から違和感はあったものの、透析中の四時間半ほどは身動きできない。針を抜いた辺りから激痛に見舞われた。
 血管内留置針は金属(人工臓器用穿刺針、AVフィスチュラ)とカニュ−ラ(テフロンやポリプロピレン製)があって、わたしが通うクリニックはポリプロピレンを用いている。針本体は十センチほどの長さでステンレス製だと思うが、その上をスライドさせてカニュ−ラを刺す、序で金属針を抜き出すという二重構造になっている。
 激痛と書いたが、そのことを病院では喋っていない。穿刺の巧い下手が理由でないので、穿刺者に悪いからである。神経がどこを走っているかは個々に異なる、事前にそのようなことは本人ですら把握できない。患者のサイトでよく穿刺に関する悪口が書き込まれているが、何度も刺されれる、もしくは血管を突き抜いて内出血すれば腹が立つだろうが、そうでない限りは穿刺者の責任にはならない。間が悪いとしか云いようがない。
 木曜日の透析では痛い箇所をずらし、針を反対方向から刺してもらった。前回とは一センチほどずらしたわけだが、やはり痛くて呻っていた。金曜日には湿布を貼って怺えたが、痛みがなくなったのは土曜日の朝だった。
 動脈(元は静脈)の心臓に近い方を静脈、遠い方を動脈と便宜的に呼んでいる。今日は血液を体内に戻す側に本物の静脈を用いた。静脈は細くてカニュ−ラと同じぐらいである。要するに穿刺に高等技術が必要になる。しかし、そうでもして動脈側の使用できる部分を増やさないと叶わない。この四箇月、わずか二センチの幅に六十回を越す穿刺が繰り返されたことになる。静脈側は理屈ではどこでも良いのだから、これで動脈側の使用範囲が倍になる。
 北里で一度血管を突き抜いている。そのときはなんともなかったが、次の日から内出血部に痛みが出た。しかし、今回の痛みはそんなものでなかった。もっとも、ブラックアウトに比べれば痛みといえるようなものでないのだが。

追記
 今日はじめて用いた静脈の止血がうまくいかず、十五分ほど掛かった。馴れるのに一箇月は必要とのことだった。


性欲  | 一考   

 糖尿病は性欲が減退する、透析に這入る前に大方は性欲を失うと複数の医師から聞いている。この糖尿と性欲の問題、さらには尿毒素と性欲の因果関係はわたしにはよく分からない。医師や看護士に訊いても個体差があるので応えられないと云う。副甲状腺をはじめとして高血圧症、高脂血症、動脈硬化症などが複雑に関係するのだと思う。わたしの場合は尿毒素の除去に伴って性欲が戻ってきたように思う。
 思うと書いた理由は確かめようにも、もっか一人暮しだからである。従って、性欲は自慰でもって確認している。ただし、一度勃起不全に陥ったので十全には戻らない、要は勃起しにくいのである。性技に闌けた女性なら大丈夫だろうが、そうでなければ不能なままである。こちらは尿毒素の問題か加齢の問題か定かならず。
 いずれにせよ、性の領域は脳に属する。内服薬の副作用などよりも、発症に伴うストレスや不安感が引き金になる場合が多いと思う。わたしも同様でこの一年余は性どころでなかった、生きていればこその性である。だとすれば長い目で見るしかない。


2011年01月07日

宿題  | 一考   

 一日の血液検査の結果が出た。リン、カリウムその他の気になっていた数値が基準内に収まった。それを良いことにさっそく鰤の刺身を購入、新年早々鮨三昧の生活を送っている。低蛋白米では鮨米にならないので普通の米を買ってきた。一週とばしの血液検査は助かる。少しでも異常値が出ると対処できる。三週あれば大概のことに対応できるようになった。
 今回の問題は肝臓の機能障害である。GPT43(平均値は3-36)、γ-GTP100(平均値8-76)となっている。看護師から年末年始に相当量の酒を呑みましたねと云われたが一滴も呑んでいない。他の理由を探すが、ビリルビンが0.30なので炎症は起きていない。薬物は以前から服用している指定の三種のみ。医師は肝炎だろうと云うが、そちらの血液検査はエイズから梅毒に至るまで北里で済ませている。次回まで様子見となった。
 おっきーさんから治療に関する経過を記述すればどうかと云われた。体重、心胸比、小便の量と除水量、血液検査の結果、誰も触れない性欲などである。細かく記述したサイトはなさそうだが、他の患者の役に立つのだろうか。わたしは腎結石から透析に這入った、ところが糖尿病から透析に這入った方が今では多数を占める。例えば食事制限ひとつ取っても、まるで内容が異なる。こちらに関しては考慮の余地あり、宿題とする。


ベストセラー  | 一考   

 何時も書いていることだが、読書とは生きることであり、個々の人生そのものである。作家は書くことを生きるのであって、読書人は読むことを生きる。学研文庫版「後方見聞録」の解説で書いたのはそのことに尽きる。当然、自らの生に相応しい書物があれば相応しくない書物もある。要するに、好きな書物は個々に異なる。その差違を重んじるがゆえに、大量に売れる書物を訝しく思う。
 おニャン子クラブとAKB48、出自は違うがモーニング娘といった個々の差違でなく、シンクロが売りのグループがある。この場合、個は問題にならないのでメンバーは次々と替わってゆく。端から核になるものがないので、悉くが代用品である。ここでベーコンを持ち出せば揶揄となる、現代ではアイドルすらが代用品で有効なのであろう。
 昔はクレイジーキャッツ今はAKBと云いたいところだが、前者に顕著なナンセンスは後者には見られない。AKBは素人ゆえの直向さはあるもののおよそ能転気なグループである。その調子のよさが時代に受けたと解するべきか。個の否定に甘んじるか、それともグループはわたしで持っているとの錯覚に身を任せるか、いずれにせよ当人達に覚悟はなにひとつとしてあるまい。
 この消息はアイドルに止まらない。昔、サーニンが発売禁止処分になった。自殺者が続いたからである。往時の書物の社会的地歩と現在のそれではあまりにも異なる。エンターテインメントと云えば聴こえは良いが、まるで読書から人生が消え失せたようである。きっと消え失せたのは人生だけではない。
 個人の価値や好みを集計して弾きだした公約数を並べたものがベストセラーだとわたしは思っている。そうとでも思わなければベストセラーなるものを理解できない。多数の支持を得るにはなによりもまず平均的でなければならない。当然ながら、読者も平均的人間ということになる。このふたつが仕合せな結婚に成功したのが現代であろう。
 書き手と読み手に限らず、なにもかもが置換可能な世界、個のない世界、貌のない世界の浸食がはじまった。私流に云えば、情念のない世界ということになる。


2011年01月04日

若葉マーク  | 一考   

 透析を終えてからとにかく寝た。腹が減ってごそごそ起きるだけ、喰えばまた寝つづける。日本酒が飲みたかったが、結局酒は呑まず仕舞い。烏龍茶と紅茶は随分と飲んだが、食事は極力減らした。中二日の休みだと捨て置けば体重が増える。除水はなんとしても1.5キロまでに収めたい。
 食事はすべて冷凍品で済ませた。例外は茶碗蒸し、これだけは三つ葉と蒲鉾を年末に購入、他の具は冷凍で間に合わせる。まだ寝るのかしらと訝しく思いながらも眠りつづけたが、身体が欲しているのだから致し方なし。腎不全が進行してからは身体の欲求には極力逆らわないようにしている。
 さまざまな疾病や障害を抱えたひとを知った。彼等のためにわたしに何ができるのだろうか。思いを致すには自らの疾病そして障害についてもっと学ばねばならない。透析ひとつ取ってみても、わたしには分からないことが多すぎる。透析について最小限を知るに一年は掛かると云う。世話になっているクリニックにしてからが、全貌を理解しているのはおそらく医師だけだろう。その医師にして泌尿器もしくは腎臓内科のことにしか理解は及んでいない。質問には常に専門医にどうぞと返ってくるだけ、余計なことには一切首を突っ込まない。これでよいのだろうか。


体操  | 一考   

 屋内で体操をしたいのだがと回診の医師と看護師に云ったところ、大騒ぎになった。透析患者から体操の話が出たのははじめてらしい。明日にも死にそうな患者が多数を占めるなかにあって、せめてものレジスタンスのつもりだった。内シャントが傷つかなければと云われたが、どうすれば傷つくのかがわたしには分からない。腹筋、背筋は問題なし、腕立て伏せと懸垂にはクレームが付いた。五十づつ計二百は問題なく出来ていたが、おそらく今なら十回も繰り返せば疲れるに違いない。
 靭帯剥離骨折は癒すに途方もない時間が掛かった。今は内シャントを造ったせいで左手首が曲がらない。曲げるには腕立て伏せが最適と思ったのだが、医師までが責任は取られない、自己責任でと云いだす始末。2009年07月からまったく身体を使っていない。医師は水泳を薦めるが、わざわざプールへは出掛けられない、やはり自転車だろうか。いずれにせよ、腕に力が加わる種類の体操は原則禁止だそうである。
 看護師は自転車に興味があるらしく、遠距離の場合何キロぐらい走るのか、スピードはどれぐらい出すのかなどと根掘り葉掘り訊く。若い頃はともかく、わたしはポタリングを楽しんでいる。淡路島一周150キロはよく出掛けたが、南端の公園とか五色浜など寄り道が多く、時間は気にせずに走っている。京都や岐阜へ遠出したときは二十時間は平気で漕ぎつづける等々、訊かれるがままに応える。
 クリニックの看護師、技師には年長者が多い。経験豊富で穿刺の巧いのがなによりだが、最近は徒言も交わせるようになった。みなさんのお陰で新しい年を迎えられたことを嬉しく思う。


2011年01月03日

初詣2  | 一考   

 ヒデキさんと初詣、豊川稲荷は閑散としていたが、花園神社は人の波、素通りしてゴールデン街へ行く。飲み屋でコーラを飲んでいるのをオネエさんに揶揄われるが、透析と聞いた横のカメラマン(女性)が話しかけてくる。二十代から透析をしていた父親が先頃亡くなったらしいが死因は脚部の血栓、その理由が分からないということで説明する。
 リンの過剰摂取による血栓、脳だと脳梗塞、心臓なら心筋梗塞、肺なら肺梗塞んとなる。全身のどこに生じるか分からないのが血栓で、四肢壊疽を呈することもある。肺水腫や心不全、感染症と共に透析患者の死因のひとつだが、糖尿病の人は要注意などと話した。
 彼女は透析は生活するための治療だと正確な知識をもっていたが、一方で大変困難な治療だと思い込んでいる。さかんに同情されるが、わたしは同情されるような治療方だとは思っていない。父親とわたしの人生観の違いだと思うが、疾患に罹ろうが罹るまいが人には寿命というものがある。仮にあと三年の命と告げられたところで、悲壮感はなにもない。与えられた時間を淡々と生きるのみ。
 今ひとつ、彼女は個々の存在には意味があると信じている。一種の神秘論を信奉してい、それ故の改革が必要と思っている。わたしはスパンがもう少し長く、世の中には反動というものが必ずやあって、捨て置けばよいと思っている。例えば、シンクロを売りとする昨今の歌手連や、現在の漫画文化の蔓延などは気にもしていない。早晩滅びて顧みる者もいなくなると思っている。
 前述のオネエさんが、とにかく彼女は真面目でと云っていたが、真面目結構、ただ真面目に生きられなくなったところからそれぞれの真の個性がはじまると思う。個人の価値や好みは永遠に集計できない。

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