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風呂敷   一考   

 

 柳田国男のいう「史心」を調べていて、有賀喜左衛門と竹内利美に行き着いたことがある。別に民俗学について書きたいのではない。過日、高遠弘美さんからドミニック・ラティの「お風呂の歴史」を頂戴した。引用が面倒なので紹介はしなかったが、竹内利美に「「青い目」でみた銭湯風俗」とのエッセイがある。
 ここまで書いて史心か銭湯かで迷うが、「史心」における主体性ならびに「疑問」については書くひとは多くいる。やはり、この場は銭湯であろう。ちょいと長いが引用しよう。当然、著作権は竹内利美氏にあって、版権は雄松堂書店にある。都合が悪ければ、ご一報いただければ削除する。

   「青い目」でみた銭湯風俗          竹内利美

 「入浴好き」はかなりきわだった日本人の習性だが、ことに開けひろげの銭湯風俗は、異邦人の好奇心を強くそそったらしい。鎖国解禁直後来訪した人々の見聞記で、それに触れないものはほとんどない。なかでもアンベールの『幕末日本図絵』所収の「江戸の銭湯(クレポン画)」と、ペリーの『日本遠征記』所載の「下田の公衆浴場(ハイネ画)」の二図は圧巻だ。どちらもザクロ口の模様などまでこまかく写実がゆきとどいているが、ただあまり天井が高く妙に広々しており、浴女の姿態もグラマーすぎてどうもそぐわない感じがする。
 ところで、前者は女湯風景であるが、本文の方をみると「同じ浴槽に男も女もごちやまぜに入れなければならない」としるしてあり、また後者はあきらかに男女混浴で、ハイネ書信にも「最後に熱い湯に浸る——実際この浴室はすべての人に用ゐられるので、老いも若きも男も女も娘も子供も、みんな奇妙に混じり合つてうごめくのがみえる」などと書いているのである。
 そこで幕末期に果して男女混浴の銭湯がまだひろく残っていたかどうかが、いささか気になるわけだ。というのは、すくなくとも江戸では寛政三年(一七九一年)の町触で、「入込湯」が一統に停止になったことは、周知のことであるからである。つまり、「町中男女入込之場所有之、右者大方場末之町々ニ多有之間、男湯女湯と相分焚候而ハ入人少ク渡世ニ相成不申候故、入込ニ仕来候儀と相聞——以来ハ場所柄ハ勿論、場末たリ共入込湯ハ一統ニ堅令停止候」とあるとおりで、「入込之儀ハ一体風俗之為ニ不宜事ニ付相止候」というのがその趣旨であった。当時の入込湯は浴槽が一つで、「是迄刻限を以相分、又者日を分男湯女湯と焚来候者」もあったが、おおむねは混浴にしないと商売にはならなかったらしい。それゆえこの町触にも従来の入込湯はかならず日限をきめて女湯を焚くこと、今後女湯を建て増す場合は「元株」のまま申付けることなどを書きそえているのである。それは寛政二年の布告に「新規湯屋願は今後認めない、ただし男女入込の湯屋が女湯を仕分ける儀は別で、一町を限りゆるす」とあるのと関連してもいた。
 その後は天保改革時の上申書(天保十三年)などにも、女湯は月六斎にし、女の留桶(特約入浴)は禁止することなどは指摘されているが、混浴の件は見当たらない。そして『甲子夜話』(文政四年起稿)に「江都ノ町中ニアル湯屋、予(松浦清、宝暦七年生)若年迄ハタマタマハ男湯女湯ト分リテモ有タルガ、多クハ入込トテ男女群浴スルコトナリ、因テ聞及ブニ暗処又夜中ナドハ縦ニ姦淫ノコト有シトゾ、然シ寛政御改正ノ時ヨリコノ事改リテ男湯女湯トテ男女別処ニテ浴スルコト陋巷ノ湯屋迄モ都下ハミナミナ此ノ制ノ及ビタルト見ユ、彼ノ寛政御政ノ中ニモ弛ミタルモアレドモコノ湯屋ノ事ノ今ニ違ハザルハ善政ノ御金沢ナリ」とあるのを信用すれば、ともかく例外的に男女別槽の件だけはよく浸透したとみてよい。
 宝暦四年(一七五四年)の『銭湯新話』は『浮世風呂』の先蹤といってよいが、そこにも「又片遠所の銭湯には男女入込とて昼中から女も男も一つに風呂へはひる所がござる、それへ表店も張つてゐる、人の女房子をやるはあほうの上品中生、又其様な猥な湯へ入、女中に手足が障つたなどと咎られてはおれが様な馬鹿でも面目を失ふ事、夫より利口発明な若い衆が女中と一時に入込るるは則あほうの上品下生」とあるから、男女別浴はすでに寛政禁令前でも次第に一般化しつつあったといえようか。ただ、京坂地方では「従来男女入込と云て——一槽に浴すことなりしを、天保府令後男槽女槽を分つ」と『守貞漫稿』にあるとおり、若干男女の仕分けがおくれ、また下田などの田舎ではなおそれが後まで残ったのであろう。
 アンベールの記述をよく読むと「ふつう浴槽は最低二つあり、低い仕切りか板の橋で区切られ、どちらも一度に十二人から二十人の客を入れるだけの十分の広さがある。ふつうは女と子供が一方に塊り、もう一方に男が塊まる」とあるから、すでに男女別槽は常態になっていて、混浴はただこの区別が励行されぬ結果にすぎなかったのである。幕末期の好色本の類にもまま混浴図はみられるが、概して浴女図絵は女湯に限られ、式亭三馬の『浮世風呂』(文化六年)もまた初篇四篇は男湯、二篇三篇は女湯と、礼儀正しくふりわけている。
 それにしても日本人の裸に対する開放的な感覚は、ひどく異邦人の目につき、銭湯や行水風俗に強い関心を持たせた。チェンバレンは「もつとも珍中の珍風俗は濡れた布で湯上がりの躯を拭くことだ」(「日本事物誌」)と書き、フィッシャーなる画家も「彼らは毎日入浴する——桶の中で湯を浴びるだけでそこで石鹸も使って桶で冷水をかぶる、だが湿つた拭き布ばかりは気持の良いものではない」(「日本の絵」一八九七年)などと、こまかい観察までしているのである。(新異国叢書 アンベール 幕末日本絵図下 月報13)

 江戸期の「お牢」から今般の鑑別所、少年院、拘置所、刑務所に至るまで風呂へ入るのを行水を使うという。前科者にしか分からぬ文言であって、これは明らかに禊とも潔斎とも異なる。辞書に記載されない語釈だが、平成の今日、行水との符牒が残っているかどうかは知らない。また、江戸時代には水上生活者のために小舟に据風呂を設けた行水船もしくは江戸湯舟も現れた。
 江戸前期までは、銭湯などで入浴の際には下帯や腰巻をするのが習慣で、別に持参した下帯や腰巻とつけ替えて入浴し、下盥で洗って持ち帰った。この下帯を風呂褌、腰巻を湯文字といった。また、濡れたものを包むため、あるいは風呂で敷いて身仕舞いをするための布を風呂敷といい、その名は今日に残されている。


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2008年04月08日 22:12に投稿された記事のページです。

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