「「食べれてゐない」「食べれればいいんですけど」などといふ、私の大嫌ひな言葉づかひをするので、私も不快な顔をしてゐたかもしれません。私がこの言葉づかひで許せるのは若い方々のみ。社会人、それも結構な年になつてそんな云ひ方をするんぢやないと怒鳴りたくなります」と高遠さんがお書きだが、若い頃から然様な言葉遣いをしているから歳を経ても直らないのであって、怒鳴りつけるのは若いときしかない。それは言葉遣いに限らず、視点の未分化全体にかかわる問題である。怒鳴られるまでもなく、弱年のおりに注意を受けなかったひとは必ずや自信過剰に陥る。自信過剰というよりも、自己中心性というべきか。アニミズムや実在論がそれで、自らの相対化や客観視ができなくなる。そしてひとたび自信過剰に陥ると病膏肓に入る。
かくいう私も教養がなく、若い頃は生島遼一さんや多田智満子さんからずいぶんと叱られた。多田さんはとりわけ言葉遣いに神経質で、「ちょうふく」を「じゅうふく」などとうっかり発言しようものなら顰め面をして暫くは口も聞いていただけなかった。
その生島さんからプルーストを教わった、といっても、授業を受けたのではない。プルーストの大冊を前に途方に暮れる私に「消え去ったアルベルチーヌ」をまず読めばとご教示くださったのである。同じことを曽根元吉さんからも示唆された。そのご恩を差しおいて、ご両人には申し訳ないが、戦後世代は生きたフランス語を知っている。それだけ、フランスが近くなったのである。スエズ経由の巴里はあまりにも遠かったのである。
翻訳にあっては日本語の能力以前にフランス語の能力が問われる。翻訳はフランス語からの類比推理であって、いくら日本語に精通していてもそれだけでどうこうなるものではない。フランス語による思考回路を持ってはじめて馥郁たる日本語への置換が可能になる。そのような能力を有し、和文にも堪能したひとと申せば、高遠弘美を除いて他にはあるまい。この度、高遠さんの翻訳「消え去ったアルベルチーヌ」が出ると聞く。駒井さんが担当する光文社古典新訳文庫である。新刊書を買わないとの私の方針を切り換えるときがきたようである。