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2012年07月 アーカイブ


2012年07月31日

小便と体重  | 一考   

 術後、点滴によって4000乃至5000の水分が体内へ放り込まれた。膀胱のおおきさは250ほどなので、一度の尿量は150から200。逆算すれば日々、30回はトイレへ行っている計算になる。
 体重も不規則になり、一時は70キロに達していた。術前に体重は72、3キロほどに増えて落ち着くと聞かされていたが、いままでのドライウウェイトの管理状態から推して、65キロまでに押さえたかった。押さえたかったが、薬物の影響がもたらす下痢の問題もあって無理な管理は当分の間、諦めることにした。
 帰宅後、重湯から米飯に切り換え、水分は一昨日から2000に統一した。体重は徐々に減り始め、現在62キロで落ち着いている。摂るだけ摂ったうえでの増減なので、現下の体重に満足している。痛みが続いているので、まだ分からないが、このまま徐々に減量できればと思っている。

追記
 何度も書いているが、動くのに一箇月は必要。括約筋の一部を縫ったため、緩んだままである。尿意をもよおしてから出るまでの時間差がほとんどない。従って、行く先によっては紙おむつが必須。そのような状態なので見舞いは遠慮申し上げる。


友と約す  | 一考   

 櫻井さんから掲示板を読んだとの電話あり、酒はと問われて、実は飲みたかった日本酒を買ったと話す。酒に止まらない。身体が痛くて動かれないので、公子さんに無洗米をはじめ、一箇月分の食料、茶、煙草など日常品を買ってきて貰った。動かれなくても生活できるようにとの塩梅である。
 脚の衰弱がひどいが、可能な限り身体を動かしている。わたしのことだから、一箇月もすれば出歩けるようになる。もっとも、それとは別に週一度の血液検査と免疫抑制剤の調達に戸田中央へゆかなければならないが。
 酒は新潟の高野酒造、病人には打ってつけの軽口である。一箇月後には酒でも酌み交わそうと約する。お互い、常民同士の約束事、守られようが守られまいが、世はこともなし。友とはかくあるべし。

追記
 突然だが、ひどく苦しくて、七転八倒で目が醒める。身体が背負い込んだダメージはかなり大きいようである。云うまでもないが、櫻井さんに虐められたのではない。


概念  | 一考   

 主観的、客観的とは主人にとってもしくは客人にとって著しく主観的ということであって、意味するところは変わらない。
 例えば、日本語で蜥蜴と守宮は異なるが、英語では同じ。蝶と蛾は英日では異なるが、佛蘭西ではよほどの昆虫学者でないかぎり同じ。虹は何色かとの質問では日仏なら七色、英独なら六色、トルコなら、と別れる。要は言語体系もしくは日頃の慣習によって微妙に異なってくる。
 日本語はというよりも、日本文化は川単位で括られ、縦方向のそれが縦横に組み合さっていた。それが何時しか水平方向へ置き直され、特に維新以降は富国強兵のもと、道路、鉄道とひたすら頑健かつ均一に引き延ばされてゆく。
 歴史的仮名遣いとは「仮名の正しい使い方。同じ音を表す仮名が二つ以上ある場合に、どちらの仮名を用いて国語を書くのが正しいかを定める定め方」なのだろうが、戦後制定された正漢字同様、この「正しい」との概念にわたしは胡散臭さを覚える。正しいとされるものがどうして単数に劃られるのか。上方の板木屋の数だけ字母があったわけで、正しいか正しくないかと云えば、そのいずれもが正しい。わたしが旧字旧仮名との名称をよく用いる理由である。
 信奉者は正しいものを決めておかなければ安心できないのだろうが、それを権威主義と云わずしてなんとする。琉球語もまたわが国最大級の川言葉であり、日本の母国語の一だった。それが帝国臣民に相応しくないと云う理由で圧殺されて七十年になる。
 この消息は政治と似ている。戦後、われわれは議会制民主主義を目差している。されば政権の数と種類を増やすべきであって、自民党野田派、小沢新党、新党きづな、新党大地・真民主、社民党、みどりの風なんでも結構である。試みるべきでないのは、一方的な批判であって否定である。いくら政治家がよろしくないからと云って批判や否定を繰り返せば、遠からずヒトラーを生み出すことになる。
 先頃、文学者からオピニオンリーダーへと華麗なる転身を遂げた似而非文化人がいる。自称思想家らしいが、彼などは自らがヒトラーに相応しいと信じているに違いない。(7月21日)


詩論と思しき・・・  | 一考   

 いつぞや、詩論と思しきものを書いた。全く理解されなかったが、ことさら理解を求めてのものでない。無用のものを書いたとすら思っている。
 バタイユの詩論の一部を換骨奪胎した。その意味は戦後の日本で詩論とおもわれるようなものが見付からなかったからである。ひとはものごとを勘案するに弁証法との武器しか持たぬ。弁証法と云おうが、対局主義といおうが、なんでもよろしいが、古代希臘より花田清輝を経て林達夫へ至るまでひとは弁証法のなかでのたうち回る。その弁証法の不純さを痛烈に罵倒したのがバタイユであり、名を引くのは恐縮なのだが橋本真理や宇野邦一でなかったか。
 思想とは試行錯誤であり、試行そのものであってその対局に不条理がある。論理的あれかこれかが停止する場が不条理であって、不条理は固着されたところのものである。謂わば状況論としてしか咀嚼できない。
 分かり易く云えば、徴用礼状や召集令状がそれであって、近くは3・11の原発崩壊である。個人的なはなしだが、わたしの父は高田出身なので、五度満州へ召集されている。その度に昇進し、最後は曹長で終えている。戦後直江津の海岸で父がひとこと、わたしの青春は満州だった、戦後の日本に生きるべき国土はなかった、と。
 わたしの母は生活で苦労はしたが、自分を見失うひとでなかった。糖尿で認知症を患ったが、生活べったりの為合せなひとで父のような喪失者ではなかった。母が死んだとき、父に女がいたかどうか訊かれた。野崎さんといってわたしは十五年ほどお付き合いし、うち十年は共に為事をこなした。母とは異なる親近感を持っていた。
 颱風一過の直江津、さかしらな同情をきっぱりと否定する父の後ろ姿にわたしは深く涙した。これが不合理なのだと。ひとは不合理を前に遁走するしか手立てを持たない。従って、不合理を弄ぶひとをわたしは憎む。弄ぶ対象が詩であれば詩をもわたしは躊躇なく否定する。
 「詩人の為事は世界の不条理を情念の不条理に、言葉の不条理に置き換えて提示する。不条理とは世界の属性でも人間の属性でもなく、人間に与えられた条件の根源的な曖昧さに由来する世界と人間との関係そのものであって、変更不可能なものである。言い換えれば、人間存在の置かれた状態を示す言葉ではなくて、世界に対する態度を示す言葉である」かつて以上のごとく著した。意見はなにひとつ変わらない。詩について二度と書くまいと思っている。(7月20日)


2012年07月30日

生検  | 一考   

 折角閉じられた腎臓からの生体検査である。術後、六時間は動かれなくなる。身体を幅広のテープで縛り、重石をつけるそうな。免疫抑制剤は飲み続けるため、食事も摂らないといけないらしい。糞尿の処理ができなくなるのが困る。というのも、一生飲み続ける免疫抑制剤との格闘が既にはじまっている。とにかく量が多いのと、下痢に困惑させられているからである。一日の入院だが、生検は今後も定期的に続くようである。
 看護師から痛いと十二分の脅しをかけられていたので、全身で構えていた。麻酔の注射が透析の穿刺と同じ番線の注射針なので、ひどく痛いと聞く。ところが、透析の最後の方は痛みを記憶するためユーパッチをわたしは用いていない。これも記念とばかり、痛み止めは遣わなかった。従って、唸るような痛みを感ぜずに済んだ。
 透析をはじめたころの全身の硬直はどこへいったのだろうか。慣れとは怖ろしいものである。それやこれやで、わたしにとって生検は痛みを伴うものでなかった。ただ、六時間の身体の固定は大層な苦痛で、放置プレーに等しいものだった。
 
 人工呼吸器から胃瘻、認知症然り、他にも動かれない病は多い。糞便の処理を扶けてくれるのは家族だけである。いかに看護師といえど、お座なりになる。というか、看護師の為事はお下の世話ではない。外国だとお下の世話はあり得ない。独身の病人は糞尿にまみれて死んでゆくしかない。食事の世話同様、いずれ病院から端折られてゆく行為である。近い将来、家族を持たない人間は入院すらできなくなる。下の世話と食事の面倒が病院医療から削られるとき、わが国の医療崩壊がはじまる。
 それにしても、最短コースでの退院となった。わたしの二週間前に移植手術を受けた患者はいまなお入院中である。医師、看護師に感謝。(7月26日)


ストリップ  | 一考   

 今回の生体間腎移植に関して、自分自身がなにを考えているのか、なにを考えようとしているのか。またはなにをしようとしているのか、このまま寿命を全うすればよいではないか。透析治療から腎移植へ移る必要があるのかどうか。健康な他人の身体を犠牲にするような価値がわたしにはなにもない。おそらく、何人にもなにもない。にもかかわらず、腎移植などという治療法がどうして存在するのか。
 思いは千箇に乱れた。実にわたしは泣き出していたのである。わたしのすることなすことが、ことごとく本意から外れてゆく。というよりも本意なるものが奈辺にあったのやら。わたしは生に執着しているのか。わたしは長生を望んでいるのだろうか。自らのあさましさに愕き入る。

 それにしても、よく泣いた。鮭が旨いといっては泣き、体内から突き出た管が抜かれたといっては泣き、亡き父を思っては泣いた。またドナーが受けたであろう痛みを思っては泣いた。自らの脆弱な精神、身体もさることながら、破綻した弁証法の在り方にすら涙した。観念世界に照応するところのうつつが群れをなし、至るところで負け戦が繰り返された。

 六十五歳を過ぎて、はじめて家族との概念と逢着し、培ってきたニヒリズムと相対するしかなかった地点でわたしの全面敗北は分かっていた。生きるとはこのようなことなのか。

 思考が停止すると、ひとは弁証を繰り返すしかない。弁証は徹底して自己中心である。そこにとんでもない不純が派生する。しかし、いかに不純であろうともそれしか手立てがないのである。もうひとりの自分を求めて、わたしは病院のカウンセラー宮元沙織さんを積極的に利用することにした。神経が昂ったまま、押さえる努力すら投げ打って、纏まりのないはなし、論理性のないはなし、なんでもよろしいから話しかけることにした。彼女が河合隼雄さんをご存じだったのは救われる思いだった。(7月24日)


執刀医との晤語  | 一考   

 執刀医は瀬戸口さんだったが、山崎医師とおなじく、存分に個性的な方だった。自ら移植手術を執刀するがゆえ、移植には賛成である。しかしながら、それが夫婦間の問題ならどうだろうか。例えば女房が腎不全に罹り、わたしがドナーになる、このケースは問題なし。次ぎにわたしが腎不全に罹り、女房がドナーになる、このケースなら断わる。あと三十年ほど経ってIPS細胞が実用化されるまで、この微妙な問題は生じ続ける。
 わたしに最初移植を勧めたのは隆さんである。隆さんはわたしの肉親であるがゆえ、遺伝子上の問題が生じる可能性が残る。わたしは移植をお断り申し上げた。そのころからである。東葛クリニックでの話し合いがはじまった。ベースにしたのはこの二年間の血液検査一覧である。移植手術は術後数年で透析治療へ戻る方が多い。特に糖尿病の場合、術後の栄養指導、食事療法が有効に効かないからである。糖尿病をどうのこうのは云わないが、糖尿病患者であればこそ、事後の食事療法とそれを全うするにたるだけの調理技術の取得の双方が患者に求められる。そうでなければ折角のドナーから提供された腎臓を無駄にすることになる。
 さて、東葛クリニックである。わたしはこの二年間、リンを除いてそれ以外の食事療法をほぼ実直に守ってきた。三年間、わたしは外食をしていない、すべてを自炊で賄い、徹底した塩分の除去を計った。二年間守られた食事療法ならこれからも守られる、これが結論だった。わたしは改めて公子さんに移植の相談を持ちかけた。なにごとにも完璧はあり得ない。移植腎にしても、一年よりも二年、二年よりも三年、長生きさせるのがレシピアント最大の務めである。

 今回、戸田中央で十六年前に最初の移植手術を受けた女性、一年前に移植手術を受けた男性、来週移植手術を受ける男性、さまざまなひとと話し合った。その結果、わたしのなかに大きな疑問が湧いた。失明を含む合併症、慢性腎不全、それらは最終症歴の一部であって、因果関係は糖尿病にある。まず、糖尿病と闘い、例え根治せぬまでも、十二分に鳥瞰するだけの識見を持たねばならない。

 当掲示板に結論はない。結論を導くのが目的でないからである。当掲示板はわたしの試行錯誤の場、一方に明解な解答をもって知的と振る舞うひとたちがいる。ひとの知とはそれほどに浅薄なものとは思われない。解答を得た途端、指先から毀れおちる無数の疵や迷いがある。多くの事例には多くの種類の答えがあって、それら答えのなかでひとは必ずや引き裂かれる。そのようなときでないだろうか。なにかしら遠くにたち上る翳みのようなものを目にするのは。「白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉を千箇に染むらむ」(7月22日)


重湯と粥  | 一考   

 今日から車椅子をやめ、歩いてエコー検査へ出掛ける。痛いが、歩いた方が恢復がすこしでも早いからである。退院は28日、あと一週間ほどである。大きな出血はなんとか止まっているが、小さな出血は続いている。そもそも、血尿は素人に判断できない。
 重湯から普通の飯に変更されたが、再度粥にかえていただくことにした。重湯と粥の違いになれば一家言あるが、面倒は云うまい。飯が喉に支えて食べづらくなったという、ただそれだけのこと。
 連日の血液検査、その結果、大量の免疫抑制剤を飲んでいる。少ない日で二十錠、多いと四十錠にもなる。この免疫抑制剤に関する豊かな知識が女子医の専売である。
 公子さんに云わせると、ベッドの回転を上げるため、入院はぎりぎりの日付だそうな。今日も同室三人が退院、即行で次の入院患者が這入ってきた。
 公子さんの入院費は当然わたしの支払いだが、聞くところによると118万円ほどらしい。併せて300万円にはなりそうである。来週からわたしの保険は国民健康保険から厚生保険に切り替えられる。
 公子さんのために、神戸大学医学部附属病院への紹介状を書いて頂く。申請書、許可証、紹介状の類いは通常は一万円から一万五千円、ところが戸田中央は千円である。三郷や戸田のの役所でも安いと愕いている。(7月20日)


忝なく思う  | 一考   

 今日、公子さんが一足早く退院した。病院では黙っていたが、彼女の身体もまた大きな痛手を負っている。拙宅で一週間ほど泊まって帰ると云っていたが、それが良いと思った。
 ICUを出しな、医師の判断で公子さんがわたしのもとを訪れている。手を指し出して涙含んでいたが、わたしは黙って手を握り返したのみ。動揺をきたすと双方が激痛に見舞われるのが分かっていたからである。
 あらかじめ想像したとおり、彼女は埼京線の赤羽根駅で顛倒したようである。女子高校生に援けられたようだが、あとは松戸駅まで六人の駅員が車椅子のリレーを繋ぎ、送り届けてくださったと聞き及んだ。ひとの優しさに感謝す。

 先だって、拙宅のすぐ根際で高年の主婦が熱中症で倒れた。またたく間に五、六人の住人が駆けつけ、てきぱきと指示を下していた。新興地だが人情には滅法厚い。触れあう先々で嬉しいことが起きる。(7月19日)


2012年07月29日

移植手術  | 一考   

 12日の夜から禁じられていた食事が16日から再開(いつも思うが病院の重湯は不味い)。朝昼夕共に一口しか食われず。水分は1リットルのみ、生食点滴を3リットル。17日は重湯二口、量にして十分の一。水分は2・75リットル。生食点滴を2リットル。18日朝はじめて重湯を完食。これで軌道に乗れそうな気がする。
 開けても暮れても呑め、喰え、動けと叱責されるが、個体差があって思うに任せず。移植手術で六十五歳は高齢、三十万人の透析患者のうち、年間に約千五百人が腎移植を受ける。大半は六十歳台の親からの腎移植、従ってレシピアントの平均年齢は三十歳代が主であとは四十歳代。わたしの年でダメージが大きいのは考慮すると医師。例え考慮されても痛みは消えず、出血は続いている。
 十三日に移植した腎臓のレントゲン検査は毎日だが、十七日からエコー検査とCTスキャンが追加。エコー検査は夜空に咲き乱れる赤と青のネオン管のよう。遠ざかるのが青、近づくのが赤、腎臓内の血管がさんざめき、活躍する様が窺える。技師も年齢の割に順調である、と太鼓判。腎臓の隅々にまで血液が経巡っているそうな。
 何時ものことだが、全身麻酔には愕かされる。手術台へ上がって十秒か二十秒で気を失う。六、七時間の手術を終えても麻酔は一向に醒めず、序でに声を喪った。酸素が92を超えられず、酸欠が続く。従ってパイプを鼻の穴から肺のなかへ挿入。そのことと慢性鼻炎とが相乗し鼻も口もからからに乾燥し、うんともすんとも返事を発せられなくなってしまった。医師から凄い衝撃と素見されるも為す術なし。でもこれで鼻炎は癒るかもしれない。
 戸田中央にはICU十床(うち三床が個室)、CCU六床が設けられている。コンクリート剥きだしの器械やモニターに囲まれた部屋で、わたしが放り込まれた個室はまだしも、大部屋は病棟とは言い難い殺風景な冷たさに充ちていた。声を喪ったこととあまりの痛さにICUの思いは最悪である。その悪夢に小樽の爽やかな海風を持ち込んだのが東行啓子さん。もっとも彼女は北海道産というだけで興味があるのは札幌、積丹半島に興味がありそうには見えなかった。じつは彼女に生れてはじめて尿管に繋がった下腹部を洗っていただいた。わたしにとっては衝撃だった。
 お名前は存じ上げないが、三年ほどのサラリーマン生活を経て看護師の世界へ飛び込んでこられた方がいた。仕事に執心する看護オタクのような方で、十分置きに身体を触りに来るのでいささか閉口した。動もすれば彼の為事の邪魔をしたかもしれず、お詫びしておこう。(7月18日)

追記
 たった今、首筋と腕の三本の点滴ラインと尿管が抜き取られた。出血はあるが膀胱に蓄尿能力が遺されているので、溲瓶の利用を命じられた。これで人間を取り戻せる、嬉しくて声をあげて泣き出す。(7月19日)


病院細々  | 一考   

 中三日を開けたため除水が2900になった。わたしにとっては最大値の透析である。よって一時間の延長、九時半から十四時半の五時間になった。なにもかもがはじめてなので、看護師は随分と気を遣ってくださった。なんとか無事に済んだが、時間除水量共に最高記録だった。
 「体重と血圧」で書いたように、血圧を下げるために体重を減らしている。しかしながら透析室で120だった血圧が病室では170。減食がなんらの効果もあげていない。

 夕食が煮魚ばかりになった。美味というわけではないが、不味くもない。以前の病院よりは結構。どのような魚であろうが、きれいに骨は抜き取られている。ベトナム産の鰺や白身魚のフライで知ったのだが、なんで骨を抜くのだろうか。面倒なことをする。

 昨夜から珈琲を飲みだした。禁制品なのだが、移植がちかいので、もう大丈夫だろうと勝手に思っている。この三年間で四杯の珈琲を飲んだ、丘の上ホテル、北里病院、川久保病院、戸田中央である。今日のは明治のキリマンジャロ、パック入り250グラム、110円。とにかく飲まないのでこのようなものでも旨く感じられる。(7月11日)


発症と寿命  | 一考   

 かねてより、血圧が狂うので柑橘類は法度である。特にグレープフルーツ、八朔、朱欒、スウィーティはよろしくない。今回は免疫抑制剤の血中濃度が変動(高くなる)するので控えなければならない。腎不全の患者にフルーツはどのみち禁止なので同じこと。

 透析治療の歴史については前回入院したときに何度か書いた。移植については腎不全に罹ったときに書いたきりである。死体からの移植ならともかく、生体間移植はどこか後ろめたい。ドナーにとっては健康な身体に疵を負わされるだけであって、プラスはなにもない。立場が逆だったらとそればかりを考える。
 団鬼六が腎不全で亡くなったが、身内やファンで腎臓提供を申し出るひとはいなかったのかしら。彼は三日に一回昏倒するようになってから透析治療に這入ったと聞く。透析患者はみなそうなのだが、辛抱に辛抱を重ね、これ以上ないというところまで我慢する。巷間で噂される透析治療に慴れを抱くのである。わたしも毎週昏睡状態に陥るようになってからシャントを造った。
 透析治療は発症からあとの寿命が約半分になると思えば間違いない。若くして発症すれば余命は長いし、老いて発症すれば短い。二十歳で発症すれば三十年は生きるだろうが、五十歳で発症すれば六十歳まで生きるのが難しい。前述の半分が長いか短いかはひとによって異なる。そして不可逆な疾ゆえ、捨て置けば二週間ほどで死ぬ。透析患者にとって一番の気掛かりは、あと何年生きられるかだと思う。透析患者とその寿命を引用して以来、当掲示板の検索項目ナンバー1である。(7月10日)


糞尿譚  | 一考   

 かつて、二十一単位の輸血で入院したおり、下腹部の締まりがなくなり、糞尿の垂れ流しを経験させられた。入院に伴う最大の苦痛は手術の痛みもさることながら、やはり糞尿の問題である。今回も紙おむつを利用したが、じゅくじゅくの下腹部は気持が悪い。下腹を左右に20センチ切ったのだが、せめて切開箇所はきれいにしなくてはならない。
 黄色いタオルと白いタオルが三枚、アッチチの状態で身体を拭くために午前中に配られる。拭かれないときは手伝いますから、と看護師は云うが、じゅくじゅく状態の清掃などとてもたのめたものでない。一部は乾燥して腰のあたりにこびり付いている。
 糞尿にまみれればまみれるほど人格が崩れてゆく。せめて髭ぐらいは剃ってと思うのだが、ますます偽善家ぶることになる。
 和式であれ洋式であれ、小便をするときにわたしはしゃがむ。これは昔からの癖である。立って用を足せば回りへ小便が飛び散ることになる。その場合、誰が掃除をするとおもっているのだろうか。かかる男子の傲慢さをわたしは許すことができない。ひとはみな平等であってしかるべき。そう思いつつ生きてきたわたしのこれも老いのなせるありさまか。

追記
 拙宅の寝具は臭わない。病院の蒲団のあれは加齢臭なのだろうか、それとも。

追記2
 自宅のトイレに磔獄門にされてしまった。まったく動かれない。整腸剤は服用しているのだが。免疫抑制剤がいかに強力かを思い知る。


社会復帰  | 一考   

 術後、三箇月は旅行も社会復帰もできないようである。序でに寿司や刺身などの生魚、生野菜も三箇月間は嗜まれないそうだ。移植手術が失敗する理由はこの三箇月に感染症を惹き起こすことにある。長い三箇月になりそうである。
 北海道行きを楽しみにしていたが、どうやら来年になりそうである。なぜなら十月の頭に大雪は冠雪する。阿寒などのキャンプ場では明け方は二度、三度にまで下がる。北海道の夏はあまりに短い。(7月9日)


よすが  | 一考   

 語感はひとそれぞれ、わたしにとって「頑張る」はほぼ置換不能、いささか白むが「絆」も許せる。許せないのは「癒す」と若干ニュアンスは異なるが「褒美」、最悪なのが「懐かしい」。
 癒しの食品とか癒しの動植物、癒しの空間等々、実に多彩に用いられる。「湯治場で傷を癒す」ならまだしも、飢えや心の悩みなどを解消された日には堪ったものでない。「自分へのご褒美」は女性専用かと思っていたが、近頃は男性も用いるようである。それにしても気持ち悪い語法である。平気で遣うひとの神経を疑う。
 懐かしび、懐かしぶ、懐かしむ、懐かしみ、これらは情動と同じく、気分や雰囲気をもたらす言葉であって、深い意味があるわけでない。これほど無意味かつ非論理的な言葉はなかろう。

 かかる言葉を繁く用いるのは政治家、芸能人、芸人と決まっている。わたしがもっとも忌嫌う、媚や諂いを生業とする人々である。テレビを見ていると歌手や芸人が連れ出って東北を巡っている。その巡る方も、巡られる側も異口同音に「癒し」「癒された」と宣う。自己中心性、具体性、情緒性が顕著、まるで国をあげての退行現象である。(7月9日)


リリック再び  | 一考   

 昔、神戸の新開地に三角公園という小さなバスターミナルがあった。ロマン座と称する映画館があって、鞄を持った女、太陽がいっぱい、狂っちゃいねえぜ、いとこ同士、ヘッドライトなどの古いフランス映画ヤ西部劇を三本立てで上映していた。往時、新開地にはエデン、歌舞伎、リリック、他にも歌舞伎の向かえに一休というアーモンドをおまけに付けた喫茶店などもあった。
 リリックについて書くに季村敏夫さんに事前に問い合わせをすべきだったと反省している。「新開地の洋酒スタンド。昭和三十四(一九五九)年七月十二日、伊勢田史郎の第二詩集『幻影とともに』の出版記念会を開く。君本昌久らが雑誌『蜘蛛』を創刊するまで、ここで何度も打ち合わせをする」と季村さんは書いておられる。
 そのリリックの田中さんと福永を結びつけたのはわたしの軽率さ以外のなにものでもなく、娘さんには慎に申し訳のないことを致しました。深くお詫び申し上げます。

追記
 ニャル子とはいずこの娘かと思いきや。一月に及ぶ入院のため、造作をお掛けいたしました。


体重と血圧  | 一考   

 体重と血圧は比例する。太れば血圧は増し、瘠せれば血圧は下がる。今回、血圧を160から120にまで降ろすように云われた。体重に換算すると4乃至5キロほどである。二回の透析で1.4キロ下げたが、手術まで透析はあと二回、頑張っても1.6キロ、併せて3キロしか落とせない。で、血圧の結果だが、思わしくない。一箇月あれば十全に落とせるのだが、これ以上続けると脱水状態になる。
 体重と血圧は比例すると書いたが、水分の摂取量すなわち血中水分の嵩で血圧は決まる。それは同時に心臓の大きさにも比例する。透析患者が頻繁に心胸比を計る理由はそこにある。心胸比は4.5までを理想とする。

 移植直後からクレアチニンや尿素窒素をはじめ、さまざまな尿毒素が排泄されてゆく。それに伴う変化として以下があげられる。
 1 味覚が敏感になる。
 2 顔色が良くなる。
 3 肌に透明感が出る。
 4 汗をかくようになる。
 5 貧血がなくなる。
 6 血圧が安定する。
 とりわけ4と5は嬉しい兆候である。4は代謝を、5は昏睡から解放されるからである。(7月8日)


個室と屁  | 一考   

 差額23100円の個室に這入っていたが、今日、大部屋へ転居した。個室はありがたいが、連れ込みと比して随分と値が高い。この前の検査入院で女房が這入っていた部屋は差額が35000円、10日入院すれば差額代だけで35万円である。徒広く応接セットとキッチンが付いた、わたしたちにはおよそ不向きな部屋だった。
 いずれにせよ、これで気儘に屁がこけなくなった。年が行くと無闇に屁をひることが増え辛抱できなくなると、永田耕衣と高橋睦郎さんが繰り返し書いている。芳菲ならぬ放屁、これは重大事である。(7月7日)


2012年07月28日

浸し物  | 一考   

 メドロール、セルセプト、グラセプターなど、手術に向けて免疫抑制剤の大量投与がはじまった。自家製でないところのものを体内に植え付けるのである、免疫抑制剤は術前がもっとも多いと見た。
 13日から16日までは集中治療室、後は五本の管に繋がれて病室へ戻る。首からの点滴、腎臓下部からのパイプ、尿管等々である。
 免疫が抑制されているので、たわいなく感染症に罹る。生れてはじめてマスクを強いられる。病棟は感染を防ぐために子供は這入られない。子供は黴菌の温床であるそうな。
 体重は現在45.1キロ。手術の際に4乃至5リッターほどの水が血中へ這入る。心臓の負担を減らすため、体重を減らすのが良い、と。どうこう云うことではないが、一週間で4キロほどの減量である。
 術後は点滴も相俟って日量、8乃至9リットルの尿が出るらしい。退院時には新しい腎臓が体内の水分調整を行うので、6キロほど痩せるそうな。
 もっとも長年の食事制限の反動で一気に体重は増えるらしい。その主たるものは肉だそうだが、わたしは蒙御免。寿司と干物に限らせていただく。干物は型の大きい高級品があるが、あれは不味い。小型の鰈の一夜干、同じく鱚、柳葉魚など、他では鱈子、縮緬の類いが好みである。
 ところで病院食は国籍不明の料理だが、かろうじて浸し物で和食の面子を保っている。ゆでる、ゆがく、ゆびく、ゆどる、あおる等があって、総じて湯掻きすぎなのだが、それでも旨い。菠薐草や小松菜など、青菜に小型の縮緬を入れるとさらに美味。かぶら蒸しとともに日本の美饌。(7月6日)


yF様  | 一考   

 いずれ掲げますが、「七時間の手術を終えても麻酔は一向に醒めず、序でに声を喪った。酸素が92を超えられず、酸欠が続く。従ってパイプを鼻の穴から肺のなかへ挿入。そのことと慢性鼻炎とが相乗し鼻も口もからからに乾燥し、うんともすんとも返事を発せられなくなってしまった」と書きました。六日間も酸素吸入のお世話になりました。まさかわたしが酸素不足に陥るとは。
 しかし、それが奏効し、鼻炎はなくなりました。酷いときは一日にティッシュペーパーを一函費やしていたのですが。
 「家人とも一緒に歩けません」とお書きですが、わたしもちんたらとマイペースです。急ぐ人生でもなしと思っております。


米食  | 一考   

 たった今退院してきた。体力に不安があるため、もう二週間ほど入院するように医師から云われたが、体力のことはわたしにも分かっている。昨日から今日にかけて50回を超える血液検査を繰り返した。腕は穿刺の内出血で痣だらけである。結果、向こう一週間の免疫抑制剤の細かい指示を受けた。

 一箇月に及ぶ重湯の生活が嫌になったのである。好きなものを食せば体力は戻ると思っている。昨日は土用丑、重湯の上に二センチほどの鰻が乗っていた。美味しく頂戴したが、それより愕いたのは前日の紅鮭、病院食なので薄塩に決まっているが、それにしても塩鮭は四年ぶり、うまいなんてものでなく、こちらは涙を流しながら食した。これから徐々に食生活が変わる。取敢えず、米食を200グラムにするように云われたが、それは無理、150グラムを目標にする。


ある書物  | 一考   

 このところ、のんちさんと本を読んでいる。某死刑囚の句集である。3・11の具象はなにもない。、ただし、抽象としての3・11は存在する。3・11に限らない、ことごとくの事象は濾過されてある。具象とは社会であり、抽象とは精神である。戦後、弁証をここまで掘り下げた書物はあるまい。封じ込められた窓との数十年に及ぶ対話、窓に吹き込むわずかな湿気が彼の手に震えをもたらす。
 わたしは何年ぶりに書物を繙いたろうか。何年ぶりに文学と出遇ったろうか。自分が読む書物は自分で撰ぶ、この当たり前を何年忘れていたのだろうか。

 掲示板のはじまりに「年始の挨拶は辞宜します。世界二十八箇国三十二地域で殺戮が行われているなかにあって、何がいかように「めでたい」のか迂生には皆目見当がつきません。
 挨拶は日常の人間関係を円滑に取り運ぶための儀礼的な相互行為であると同時に、人間関係を疎遠にするためにも交わされます。仮に前者であっても、紐帯を深めるための儀であれば控えさせていただきます。友とは影のように付き従うものであって、決して獲得するものでも出遇うものでもないのです。眼前に私情を携えての友誼など迂生にとっては毒にも薬にもなりません。
 私情すなわち好悪、言い換えれば趣味と称する自己宣伝を諾うことに難儀致しております。あまつさえその能書に追従や欺瞞が加味されるソーシャル・ネットワーキングなど論外だと思います。当掲示板の行き先はまったく異なります。個の搏動を伴わない虚礼を排し、どっちつかずな不本意な遣り取りを廃するところからなにかしら滲み出てくるものがあればと、それだけを冀っているのです」と書いた。
 その原点に立ち帰りたく思う。従って、今後一切の書物の寄贈をお断り申し上げる。美辞麗句を並べ、考えることを失念した書物など今後一切読みたくもない。また情念があると思い込んでいるような浅薄な書物はさらに無用である。世間を狭めるとまた叱られそうだが、わたしは与えられた余命を思うがままに律したいとおもう。(7月25日) 


リリックの娘様  | 一考   

 軽率なことを書き、お詫び申し上げます。
 田中様と福永氏とはなんの関係なく、どうしてこのようなことを書いたのか。深くお詫び申し上げます。
 取り急ぎ。


2012年07月15日

リリックの娘様  | ニャル子   

一考氏が入院中のため、代わりに書かせていただきます。

こちらの記憶違い、大変申し訳なく、退院して掲示板に書きこめるようになりましたら、
あらためて訂正、お詫び申し上げますとのことでした。

大変恐縮ながら、いましばらくお待ちください。どうぞよろしくお願いいたします。


2012年07月06日

リリックについて  | リリックの娘   

一考様
偶然記事に行き着きました。

「湊川」の文中
 『新開地の三角公園にあったリリックの店主は名は福永金之助、長髪であること以外なんの取り柄もない絵描きだったが、山本六三と逢うことをわたしに薦めた最初の男だった。彼はその後、三宮で「金ちゃんの店」を開けたり閉めたりしていたが、今では凋化と名乗って垂水で茶房を営んでいる。』
の部分は間違っています。私はリリックの娘ですが、父の名は福永金之助ではありません。田中一朗です。画家でもありませんし
「金ちゃんの店」を開けたり閉めたりしていたが、今では凋化と名乗って垂水で茶房を営んでいるのは全くの別人だと思われますので
訂正していただけることをお願いします。


2012年07月05日

腹式呼吸を  | yF   

小生も兄の結核を濃厚感染し、完治しないまま78才まで来ています。滅多に肺活量検査はしませんが先日やったら3000ccでした。漢方医は腹式呼吸を勧めます。小生はこの方に助けられたようなものですが、家人とも一緒に歩けません。遅いです。
 頑張ることはない、それを受け入れるのみ、ドクターストップがかかる75才まで働きました。


2012年07月03日

無気肺  | 一考   

 中学二年生のときに8000だった肺活量が3400にまで落ち込んだ。煙草の量に比例するようである。無気肺を防ぐために呼吸練習をさせられている。インセンティブ・スパイロメーターと云うそうだが、全身麻酔に必要らしい。
 今月は入院のため、掲示板は月末まで休み。拙宅の電話やメールも同時に休止となります。十三、十四の両日はICUだが、十七日までは痛みを伴うようである。

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