レイアウトが崩れる方・右メニューが表示されない方: >>シンプル・レイアウトへ

« 2009年01月 | メイン | 2009年03月 »

2009年02月 アーカイブ


2009年02月27日

コイーバ ・シガレット  | 一考   

 このところCOHIBA(コイーバ)を喫んでいる。普段はゴールデンバットなので、月に一度の贅沢である。安い煙草を買っているにもかかわらず、近所の煙草屋の女主人はサービスに勤しむ。ダスマン・ムーズ、ダスマン・スペシャル・スマトラ、パンター・アロマ、ミックスチュア・メンソール、ガレリア・アイリッシュ・クリーム等々、行くたびに試供品を頒けてくださる。先日はコイーバ・クラブのミニシガリロが舞い込んできた。それがあまりに美味かったのでコイーバ のシガレットタイプを購入した。葉巻を買う金はないのでいつも機械巻きかシガレットタイプになる。シガーを嗜むひとに云わせれば邪道だろうが、わたしはそれを十分に楽しんでいる。モルト・ウィスキーと同じで、香りがすべてと思っている。そのうち宝籤でも当たればヴェルタ・アバホのハバナシガーを買うこともあろうかと、これは想像しているあいだが花なのである。


修正  | 一考   

 シーグラム社の解説を書くことによって過去の間違いを十数箇所発見。掲示板2.0に限られるが、遡って修正を加えた。


ですぺらモルト会解説(シーグラムの蒸留所を飲む)  | 一考   

 シーバス社はスペイサイドの東端アバディーンで1801年に創業。1838年にジェームス・シーバスが事業に参加。その後、彼の弟ジョンも加わり、シーバス・ブラザーズ社として発展する。同社がブレンデッド・ウィスキーを発売するようになったのは1870年代からで、1949年にはシーグラム社の傘下に入る。商品名のシーバス・リーガルはシーバス家の王者の意で、スコッチのプリンスとも称され、二度のロイヤルウォラント(王室許可書)を授かっている。ちなみに、12年ものをはじめて発売したのもシーバス社である。ウィスキーの熟成は12年をもって完成する。あとは枯淡の味わいとなって若さは喪われてゆく。
 グレン・リヴェット、グレン・グラント、ブレイヴァル(ブレイズ・オブ・グレンリヴェット)、ストラスアイラ、グレンキース(ストラスアイラの第二蒸留所)、ロングモーン、ベンリアック(ロングモーンの第二蒸留所)、アルタベーン、キャパドニック(グレン・グラントの第二蒸留所)等、シーグラム社が所有していた九つの蒸留所は実に旨いモルトを造っていた。2001年の同社の売却後、閉鎖された蒸留所、売却された蒸留所など消息はさまざま、もったいないことをしたものである。現在シーグラム社はペルノ・リカール社傘下となっている。

 ペルノ・リカール社による買収後、存続が決まった蒸留所はグレン・グラント、グレンリベット、ロングモーン、ストラスアイラ。閉鎖が決まったのはアルタベーン、ベンリアック、ブレイヴァル(ブレイズ・オブ・グレンリベット)、キャパドニック、グレン・キースだが、もっかのところ現実に閉鎖されたのはグレン・キースとキャパドニックで、2002年に閉じられた。ブレイヴァルは生産調整のため操業停止のまま、アルタベーンは2005年5月に操業再開が報じられた。ベンリアックは、2004年にバーンスチュワート社の前オーナーであったビリー・ウォーカーが中心となってシーグラム社から蒸留所を買収。クラシックなスペイサイドタイプのモルトとピーティータイプの二種類のシングルモルトを醸している。また、一部フロアモルティングを復活、蒸留所内で麦芽の供給を行っている。
 なお、ペルノ・リカールの子会社キャンベル・ディスティラリーズが所有していたアベラワー、グレンアラヒ、エドラダワーのうち、エドラダワーはボトラーのシグナトリー社が2002年に買収している。
 2001年のシーグラム社のワイン・スピリッツ部門の獲得のあと、ペルノ・リカール・グループはアライド・ドメック社を2005年に買収。アライド・ドメック社はバランタインやマーテルで知られるコングロマリット。次いで2008年、スウェーデン政府からヴィン&スピリト社を買収したことにより、ワイン・スピリッツ部門ではディアジオ社を追い越し、世界第一位の企業グループとなった。


01 ストラスアイラ12年※
 43度のディスティラリー・ボトル。
 ディスティラリー・ボトルは本品のみ。シーバス・リーガル並びにロイヤル・サルートの核をなす原酒モルト。完熟林檎の香りを持つ卓越した食後酒。
 ヘーゼルナッツの香り。滑らかでオイリー、佳麗なこく。シェリー酒を想わせるきらびやかな風味。長くスムース、揺蕩(たゆた)うようなフィニッシュ。

02 ストラスアイラ '90(ダグラス・マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。10年もの、43度。
 ダグラス・マクギボン社の創業者は現在のオーナーの祖父にあたるが、彼はアイラ島で水没した蒸留所、ロッホインダールとポートシャーロットのマッシュハウスの責任者。スコッチウイスキーへの愛情とこだわりは、研修生としてブルイックラディ蒸留所で働いていた時代に育まれ、1949年からスコッチウイスキーの販売をはじめてから頑なに“ノーカラーリング・ノーチルフィルターリング”を貫く。
 プロヴァナンス・シリーズは2009年2月で終売、リニューアルの予定。

03 ストラスアイラ '91(ダグラス・マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。10年もの、60.2度のカスク・ストレングス。
 ダグラス・マクギボン社は1949年、グラスゴーで組織された瓶詰業者。蒸留所の作業に携わった職人の末裔による同族会社にして、ダグラス・レイン社とは兄弟会社。広大な熟成庫を持ち、60年代以降、色付けとチル・フィルターを拒み、「プロヴァナンス」の名のもとにコレクションを頒布。特にアイラ島の蒸留所とは太いパイプを持つ。「クライズデール」同様、熟成年数の若いモルトが中心だが、共に品質のよさでは一頭地を抜く。
 本品は記載はないものの、リフィール・シェリーと思われる。ストラスアイラは多くのカスク・ストレングスがボトリングされているが、本品は他と比してまろやかさで卓れる。

04 ストラスアイラ '89(クライズデール)
 9年もの、63.3度のカスク・ストレングス。290本のリミテッド・エディション。
 ザ・クライズデール・オリジナル・スコッチ・ウィスキー社は1998年の設立で、ブラックアダー社のロビン・トゥチェクが代表を務める。熟成5年から10年の比較的若いカスク・ストレングスをシングル・カスクにて瓶詰め。他のボトラーとの差別化を図る。低温濾過、加水、着色を一切行わず、モルト・ウィスキーの素地を知るには最適。ダグラス・マクギボン社の「プロヴァナンス」と共に一押しのコレクションである。総称の「クライズデール」とはグラスゴー近郊に1919年まで存在した蒸留所名。
 2006年にボトルをリニューアル、ダンピーボトルに変わり、若いものに限らず長期熟成品のボトリングをはじめた。

05 ストラスアイラ '89(ブラックアダー)
 ロウ・カスクの一本。シェリー・ホグスヘッドの11年もの、61.3度のカスク・ストレングス。限定278本のシングル・カスク。
 コルク栓を抜く、グラスに注ぐ、静かに回してトップ・ノート、口に含む、口腔に拡がる、喉元を過ぎゆく、そしてラスト・ノート。スペイサイドのすべてのモルトの中で、香りの階調をきわやかに愉しむにはストラスアイラが最適。
 ブラックアダー社は1995年にザ・モルトウイスキーファイルの著者であるジョン・レイモンドとロビン・トゥチェクが創業したウイスキー専門のボトラー。ロウ・カスクの発想はきわめて単純でユニーク。大きな木片のみを除去、オリ(沈殿物)も一緒にそのままボトリングする。もちろん、氷点下フィルターもカラメル着色も施さず、すべてはカスク・ストレングスである。

06 ストラスアイラ '89(アバディーン)
 オーク・カスクの13年もの、62.5度のカスク・ストレングス。シングル・カスク。
 アバディーン・ディスティラーズ社は1993年頃、スコットランド北東部のアバディーンで設立。ホグスヘッドからのボトリングを専らとする。ヨーロッパ市場向けのボトリングだが、過去一度、スリーリバーズによって極少量が日本へも入荷している。本品はその一本。

07 グレン・キース '93(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの一本。14年もの、46度。
 ボトラーのグレン・キースはディスティラリー・ボトルと比してべっこう飴の芳ばしさに少し欠ける。これはボトラーのグレン・キースに共通して言えることで、シェリー香がより弱く、やや辛口に振られている。ちょうど、ゴードン&マクファイル社のマクファイルとディスティラリー・ボトルのマッカランの関係に似ている。私はボトラーの方が好きなのだが。
 コニッサーズ・チョイスは2008年にラベルと外箱がリニューアルされた。

08 グレン・キース '95(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。ホグスヘッドの13年もの、43度。3樽1572本のリミテッド・エディション。
 グレン・キース蒸留所は2001年にペルノ・リカール社によって買収されたものの、休止状態が続き、どうやら取り壊されるもよう。ボトラーへの出荷が極端に少ないので、流通在庫はローズバンクよりはるかに少ない。飲むなら今のうち。

09 グレン・キース '85(モンゴメリーズ)
 シングル・カスク・コレクションの一本。17年もの、43度。
 モンゴメリーズ社はマキロップ社と共にアンガス・ダンディ社の傘下。なお、マルコム・プライド社はアンガス・ダンディ社と同資本のカンパニー。なにを言いたいかというと、玉石混交だということ。

10 グレン・キース10年※
 43度のディスティラリー・ボトル。
 ストラスアイラの第二蒸留所として1957年に誕生。すべてがシーグラムの原酒に回されたため、ディスティラリー・ボトルは一度も頒布されたことがなかった。待望のボトルは94年から。しかし、蒸留所は2000年から休止状態に入り、本品はまったく生産されていない。
 火にかけられた鼈甲飴の芳ばしさ、インデペンデント・ボトラーのそれと比してシェリー香が強く、より甘口に振られている。

11 キャパドニック・ピーティー・バレル '98(ジャン・ボワイエ)
 ベスト・カスク・オブ・スコットランドの一本。スモール・ピーティー・バレルの9年もの、43度。970本のリミテッド・エディション。
 ヒビテン液(洗浄剤)のような不思議な香りはなく、スペイサイド特有の西洋梨や完熟林檎の馥郁たる香りを伴った辛口。その方がよほど不思議である。キャパドニックのヘヴィリー・ピーテッドは現在のところ本品のみ。
 シーバス・リーガルの原酒として使用されていたため、シングルモルトのディスティラリ・ボトルは一度も発売されていない。グレン・グラントと同じ仕込み水や麦芽を使っているのに味わいは異なる。

12 キャパドニック '74(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。ホグスヘッドの28年もの、46度。3樽、636本のリミテッド・エディション。
 グレン・グラントの第二蒸留所として1898年に設立されたが、わずか3年後に操業停止、再開されたのは1965年。グレン・グラントと共に1977年にシーグラム社の傘下に入った。グレン・グラント、グレンロセス、グレン・スペイ、スペイバーン、キャパドニックと五つの蒸留所がローゼスの狭い町なかにひしめいているが、グレンロセスを除き、印象の薄いウィスキーが多い。
 土屋守さんは「銀みがきの粉、ヒビテン液(洗浄剤)のような不思議な香り」と著している。商品名で恐縮だが「パイプマン」を思い起こしていただきたい。要は苛性ソーダ、水酸化ナトリウムの臭いである。


2009年02月25日

ですぺらモルト会  | 一考   

2月28日(土曜日)の19時から新装開店後、十四度目のですぺらモルト会を催します。
会費は9700円。
ウィスキーのメニューは以下のごとし。詳しい解説は当日お渡しします。
今回はシーグラム社が所有していたストラスアイラ、グレン・キース、キャパドニックの三つの蒸留所のモルト・ウィスキーを味わって頂きます。このうちグレン・キース蒸留所は2002年に閉鎖されています。

ですぺらモルト会(シーグラムの蒸留所を飲む)

01 ストラスアイラ '90(マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。10年もの、43度。
02 ストラスアイラ12年※
 43度のディスティラリー・ボトル。
03 ストラスアイラ '91(ダグラス・マクギボン)
 プロヴァナンスの一本。10年もの、60.2度のカスク・ストレングス。
04 ストラスアイラ '89(クライズデール)
 9年もの、63.3度のカスク・ストレングス。290本のリミテッド・エディション。
05 ストラスアイラ '89(ブラックアダー)
 ロウ・カスクの一本。シェリー・ホグスヘッドの11年もの、61.3度のカスク・ストレングス。限定278本のシングル・カスク。
06 ストラスアイラ '89(アバディーン)
 オーク・カスクの13年もの、62.5度のカスク・ストレングス。シングル・カスク。
07 グレン・キース '93(ゴードン&マクファイル)
 コニッサーズ・チョイスの一本。14年もの、46度。
08 グレン・キース '95(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。ホグスヘッドの13年もの、43度。3樽1572本のリミテッド・エディション。
09 グレンキース '85(モンゴメリーズ)
 シングル・カスク・コレクションの一本。17年もの、43度。
10 グレンキース10年※
 43度のディスティラリー・ボトル。
11 キャパドニック・ピーティー・バレル '98(ジャン・ボワイエ)
 ベスト・カスク・オブ・スコットランドの一本。スモール・ピーティー・バレルの9年もの、43度。970本のリミテッド・エディション。
12 キャパドニック '74(イアン・マクロード)
 チーフテンズの一本。ホグスヘッドの28年もの、46度。3樽、636本のリミテッド・エディション。

ですぺら
東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F
03-3584-4566


2009年02月21日

淡麗ダブル  | 一考   

 麒麟麦酒から淡麗ダブルと称する発泡酒が発売された。プリン体が99パーセントカットされたビールである。プリン体の変わりにポリフェノールが添加され、アルコール度数は5.5度。主治医からプリン体を極力摂取しないようにと云われたのが去年の七月、バイク事故の折の精密検査で痛風が発覚したのである。爾来ビールを飲むのは憚られた。
 酒というのは妙なもので、飲まれないとなると居たたまれなくなる。燗酒かウィスキーが好みで、ビールはあまり好きではなかったはずである。ところがそのビールがむやみと飲みたくなる。先日の文学散歩の時も、ちはらさんには内緒で周さんと生ビールを一杯だけ飲んだ。八箇月ぶりのビールだった。ころころと喉奥を通り過ぎてゆくきわやかな快感とはこのことである。
 さて、淡麗ダブルである。昨夜、拙宅で飲んだのだが結構いける。カテゴリーでは第三のビールに属するらしいが、なんら遜色は見受けられない。あまりの旨さにステーキを焼き、腰を据えて二罐目を開けた。しばらくは淡麗ダブルへの礼讃がつづく。


2009年02月20日

「ギイ・マルタンの芸術」  | 一考   

 スーパースタジオの齋藤芳弘さんが丸二年越しで編輯なさっていた「ギイ・マルタンの芸術」が完成した。ギイ・マルタンはパリのレストラン「ル・グラン・ヴェフール」の総料理長。今回の著書は前菜、魚料理、肉料理、デザート、六十三種類のレシピブックで、六百三十六頁の大冊、限定三千部、頒価五万円である。
 ギイ・マルタンさんを招いてフランス大使公邸でレセプションが催されるらしく、招待状が拙宅にも舞い込んだ。送られてきたのはともかく、かつて告訴合戦を演じたところへよくぞとの思いである。掲示板1.0で書いたので繰り返さないが、私はフランスという組織ないしは制度を天敵のように思っている。もっとも主宰者である現大使のお名前はフィリップ・フォール、往時とは異なる。しかし、フランスの公的機関に違いはない。齋藤さんには申し訳ないが、どうあろうとも欠席である。
 去年の二月にはギイ・マルタンさんの「シェフの哲学」が白水社から上梓された。そちらは自伝と四十種類のレシピが事細かに解説されている。ただし、翻訳は稚拙を通り越して低劣ですらある。そして今回と同様のイベントが東京會舘で催された。「ギイ・マルタンの芸術」では写真に力点が置かれているが、そちらについては改めて書かせていただく。それにしても、素晴らしい書物であることは認めるものの、料理の本にどうして権威づけが必要なのか。大使館を巻き込むギイ・マルタンさんの姿勢に若干の疑念を抱く。


2009年02月19日

バッテリあれこれ  | 一考   

 マスタングのバッテリの寿命が尽きた。木村さんによれば新車のときから替えていないそうである。だとすれば十年、五万八千キロもったことになる。夜間の走行が極端に少なかったのであろうか、信じられない期間である。密閉式MFバッテリで背丈が低く国産品では間に合わない、よって純正品を購入した。容量が小さいのでベンツやBMWの半値だった。秋月電子通商が扱う台湾クローンのような商品も探せばあるのだろうが、メイド・イン・チャイナには懲りている。
 アメリカの車メーカーは四月頃には破綻する。会社更生法では退職者の健康保険などから会社が解放されないからである。一気になくなりはしないが、やがてテスラ・モーターズやアプテラ・モーターズのようなメーカーが勃興してくる。日本メーカーも同様であって、バッテリやモーターの専門メーカーが車を造るような時代がやってくるかもしれない。四輪の世界も電動アシスト自転車や電動スクーターのようになる。いずれにせよ、これからは異種産業を引っくるめて新陳代謝が激しくなる。
 究極のハイブリッド車というべきトヨタの「FT-HS」が紹介された。ホンダも方針を変更してハイブリッド車を造りはじめた。それにスズキと三菱を加えた四社が生き残りを賭けて闘う。


2009年02月12日

ホットカーペット  | 一考   

 電気毛布の歴史は古く、もともとは結核患者の医療補助具として開発された。派生商品に電気敷布があり、ホットカーペットがある。このホットカーペットと電気やぐらこたつはおそらく日本にしかない商品だと思われる。パリ在の友人が秋葉原で100V用コンバーターとAとCのプラグアダプターを購入、重宝していたのを思い出す。ちなみにフランスのプラグはCとSEの二種、電圧は127、220、230Vと統一されていないらしい。
 開発者の東京芝浦電気の山田正吾について書きたいのではない。またそれら日本人の生活に根ざした電化製品の歴史について書きたいのでもない。ただ、土屋さんがパリで寒がっているとのはなしを小耳に挟んだ。一人用サイズのホットカーペットと寝袋があれば人生は暖かくなる。奇特な人はいないものか。


ランドルト環  | 一考   

 調べるのが億劫なので書き流したが、「お役所仕事」で書きたかった視力検査の丸とはランドルト環だった。私は乱視表やクロスシリンダーを使ったことがないので詳しくは分からないが、眼鏡を造ったときに乱視だと云われた。今用いている眼鏡は四十五歳のときに拵えたものなので、既に十七年が経つ。五十を超えてからは眼鏡をしても見づらいので、書物から遠ざかるようになった。
 免許証を更新してから視力が気になるので、運転中に右目をつむったり左目をつむったりして確認している。その結果、左目だけだと前の車のテールランプが二重に見える。重なるというよりは、左はほとんど見えていないようである。秋成ではないがなんらかの因業なのかもしれぬ。


文学散歩その後  | 一考   

 「板橋の貧民窟はどのへん」との質問に、佐藤さん(編輯者)が紀田順一郎さんの「東京の下層社会」を指摘なさっていた。「関東大震災後東京最大のスラム」といわれた場所は、交番と「縁切榎」のあたりを中心とした「岩の坂」で、当時の東京市によって「不良住宅地区」に指定されていた、と書かれているのがそれである。
 昭和五年の四月に東京朝日で報じられた、養育費目当ての「もらい子殺し」は別名「岩の坂事件」として、世間の耳目を集めた。宿場町でも、駅を平尾地区に取られ、そこからもっとも離れた寂れた場所に、震災後貧民が流れ込んだというのが実態らしい。以上のメールが先程芳賀啓さんから届けられた。
 ところで、ナベサン文学散歩には周さんとその友人が参加なさった。途中で飲み屋へ三十分ほど脱線、そこでの周さんとの会話が「忘れ物」である。上昇志向のひとが嫌だとの彼の言葉への私の応えである。このような会話ができるようになった彼を好もしく思う。周さんに分かっていただきたいのは書誌学とはかような散策にあるのであって、決して読書だけで得られるものではないという点である。
 馬頭観音の次に立ち寄った文殊院は投込寺だった。南千住の浄閑寺、浅草の西方寺、新宿の成覚寺、品川の法禅寺、海蔵寺などが知られるが、浄閑寺の過去帳には売女や遊女との戒名がみられる。文殊院にも妙○信女との戒名が続き、なかには獣、熊、狛、鬼などという然るべき階層のひとたちの戒名が散見された。両親の死に伴う法名には嫌な記憶しかない。私の死には一切無用である。

 私は酒を飲むときは一日でも二日でもなにも食べない。そのような教育を受けたからである。よって今回も芳賀さんに迷惑をお掛けした。ここに記してお詫び申し上げる。体調思わしくなく私は帰宅したが、周さんは朝までナベサンで痛飲、ナオさんに多大な迷惑をお掛けしたようである。若い時はなにをしても許されるが、やがて許されなくなる。ほどほどに。


忘れ物  | 一考   

 「アンダーグラウンド」から意図して数問端折った。なかには「原田芳雄のように脚が長ければどうしたのか」というのがあって、これは応える必要のない愚問である。「君を事前に知っていたので、鈴木清順にも原田芳雄にも驚かなかった」は質問にならない。しかし、原田さんと比されたのは光栄である。
 「原田が中砂を演じ、以後十年間役者としての自分を見失った」こととアナーキズムとの関連についての質問があった。原田さんの述懐を私は額面通り信じていないし、そのことと彼のニヒルなキャラクターもしくは清順のアナーキズムとはまったく関係がない。いずれにせよ、彼の仕事は演技にせよ唄にせよ社会とかかわるためのリハビリテーションみたいなもので、五体満足な健常者や自らに充足しているひとには理解しづらい。人を欺くのが芝居の本質だが、原田さんのような役者はいつも自らに欺かれている。自意識というよりは我が強すぎてのアナーキー(デタラメの意、アナーキズムとは異なる)である。
 先日、清順の「けんかえれじい」「殺しの烙印」や吉田喜重の「エロス+虐殺」のはなしをしていて相澤さんから拒否されてしまったが、私は彼等の映画を観ていると血が騒ぐ、とてもじゃないがシニカルな態度で居られなくなる。原田芳雄もその類いで、たわいなくミーハーに戻ってしまう。
 私が十代の頃は身の回りに原田芳雄のような人が多くいた。ゲイバーのタミーのことは掲示板1.0で書いた記憶があるが、そのタミーのママやエレクトーン奏者の当麻さん、浮世風呂の恵比寿でバーテンをしていたケンちゃんや同じく玉家でシェーカーを振っていた中条さん、アイスピックを片手にやくざを睨み付けていた哲ちゃん等々、私にとってはみんなが川向こうの男たち女たちだった。この場合の川向こうとは私の儚い憧憬を意味する。
 彼等は真っ正直に生きていた。オカマはオカマ(この言葉遣いに対して睦郎さんからこっぴどく叱られたことがある。差別用語なのは分かっているが、タミーの人たちはオカマという言葉を昭和三十年代は平気で遣っていた。性的なマイノリティに対する理解がもし私になければ後年同性愛者の書物を多く造るわけがなかろう。また岩田準一の著書を新本で最初に扱ったのが私なら、それをわざわざ東京から買いにいらしたのも睦郎さんである)で、ヒモはヒモ、前科者は前科者で、今あるところのものでしかなく、それ以上のものになるわけもなく、背伸びをすることもなかった。だからこそ「大きくなったら、何になるの」といった類いの厭みな質問を聞かされずに済んだ。大きくなっても福原の住人だとみんなは思っていただろうし、誰もが他人のまたは自らの将来にいささかの興味も夢も抱いていなかった。


2009年02月06日

深更に及ぶ  | 一考   

 昨夜は迂生の誕生日、遅くまで店は満席だった。相澤啓三さんはじめ、多くの方に感謝申し上げる。土曜日には新宿で祝い事があるそうな、愉しみにしている。

 芳賀啓さんについて「彼にとって文学は喋るものではない、要は自己主張のネタにはならないのである。このあたりから並のひとではない。現場での叩きあげとは彼のようなひとを言う。彼はひたすら歩き、ひたすら書く、そして沈思黙考のあとふたたび歩く。「現場のない文学なんて」との呟きが聞こえてくる」とかつて書いた。今回の文学散歩にですぺらから三名の参加者があった。併せて感謝する。


2009年02月04日

第29回ナベサン文学散歩  | 一考   

場所 埼京線板橋駅西口集合
日付 2月11日
時間 14:00
案内 芳賀啓
   今回は銭湯付きなのでタオルをご用意ください。
   9日までに出欠をお知らせください。(世話人渡辺ナオ)

JR埼京線板橋駅西口→谷端川跡→板橋駅東口・近藤勇土方歳三墓碑(旧処刑場)
→千川上水跡→板橋下宿→旧中山道→加賀公園(旧前田藩下屋敷跡・石神井川)
→弾道検査管標的跡→野口研究所前(水俣チッソ研究所)→王子新道碑→黒色火
薬製造圧磨機圧輪記念碑・極地研究所→旧中山道馬つなぎ場(馬頭観音)→仲宿
商店街→板橋宿本陣跡→高野長英潜伏跡→板橋(石神井川)→縁切榎(和宮下向)
→竹の湯(銭湯・午後3時から入浴可450円)→くらち(力士料理)→板橋本町
駅(都営三田線)

芳賀

之 潮(コレジオ)
185-0021東京都国分寺市南町2-18-3-505
URL http://www.collegio.jp
e-mail: info@collegio.jp

上記の連絡先は端折りました。参加なさる方は一考(080-3219-6221)もしくはですぺら(03-3584-4566)、またはナベサン(03-3208-0627)へ電話してください。


2009年02月02日

アンダーグラウンド  | 一考   

 よく似たひとを見つけたときどう思う。嬉しいね。
 でも、あなたは自分のことを好きじゃないでしょ。そうだね。
 どちらかと云えば自分のことを憎んでいるね。そうだね。
 それはジェネレーションの違いなの。関係ないよ。
 あなたは自分のことをどうでもよいと思っているでしょ。そうだね。
 あなたは自分に才能があるなんて思っていないでしょ。まったくね。
 無謬性なんてものも持ち合わせていないでしょ。謬りだらけだよ。
 あなたは明日のこと真剣に考えたことないでしょ。行き当たりばったりだね。
 よく今まで生きて来られたわねえ。厚志に甘んじて。
 あなたは人生に意味があるなんて思っていないでしょ。そうだね。
 あなたは恋愛なんてしたことないでしょ。そうだね。
 他人なんて死んでしまえと思っているでしょ。そうかもね。
 自分なんて死んだほうがいいと思っているでしょ。生きててもいいんじゃないの。
 他人も自分も同じなのね。そうだね。
 どうして表現者にならなかったの。編輯で結構。

 今日、ツィゴイネルワイゼンを観てきたの。あの作品をどう思う。
 生きることに筋書きはない、ならば映画にあってもね。筋書きのあるような作品はどうでもいい、この消息は映画に限らないが。要するに、異議は認めても意義も威儀も認めないね。ツィゴイネルワイゼンはその異議だけで成り立っている。原田芳雄がいいねえ。

 上記はちはらさんとのある日の会話。タイトルは私が勝手に付けた。どうしてこのような会話になったのか、その理由は彼女が早稲田松竹で鈴木清順の作品を観てきたからに他ならない。

このページについて..

2009年02月

に「ですぺら掲示板2.0」に投稿されたすべての記事です。新しいものから順番に並んでいます。

次のアーカイブ←:2009年03月

前のアーカイブ→:2009年01月

他にも多くの記事があります。
  • メインページ
  • アーカイブページ

  • も見てください。

    アーカイブ

    ケータイで見るなら...


    Google
    別ウィンドウ(orタブ)開きます。

    牛込櫻会館(掲示板1.0他)内
    ですぺらHP(掲示板2.0他)内
    Powered by
    Movable Type 3.34