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2017年10月17日

安価な刺身一考  

 「めぐみの郷」について書いたが、昨今は菠薐草のごま和え、小松菜のおひたし、高野豆腐の含め煮などの売れ残りを買っている。含め煮には高野だけでなく、椎茸、人参、莢豌豆などが這入っている。莢豌豆は煮すぎて白っぽく変色しているが、これもご愛敬、素人料理には素人なりの趣と味わいがある。
 日々、菠薐草や小松菜だけで食事を済ませているわけでない。週2回は刺身を食べている。シマアジと昼網の鯛、4分の1の短冊が398円と298円。シマアジは身がこりこりしているので、一晩置いてもおいしく頂戴できる。鯛は一晩置くとさすがに身は柔らかくなる、そんなときはポン酢で頂戴する。一味を利かせると絶妙に旨くなる。日曜日には盛り合わせ398円が売れ残っている。これらが半額になる。シマアジの短冊は398円でも安いが、200円ならさらに嬉しくなる。金がないならないなりに、娯しむ術はいくらでもある。

バイクシューズ一考

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 靴底が薄くてかかとがない、足くびを曲げやすいように後方がカットされている、チェンジレバーが当たる部分が補強されている。デザインはよろしくないしウオーキングには不向きだが、今のわたしにうってつけの靴が入手できた。ほとんど使われていないにもかかわらず、なぜか入札者はわたしのみ。
 昔、W1というオートバイがカワサキから出ていた。「BSAの兄弟車」と揶揄されたバイクだが右足シフト左足ブレーキだった。ただし、踏み込み式のチェンジだったためレバーを蹴上げる必要がない。比して昨今のバイクは左足に統一され、かつリターン変速なので、どうしても補強が必要になる。
 補強に用いられる材質は通常ゴムか革である。左足だけでよいと思うのだが、バイクシューズには必ず左右シンメトリーについている。デザイン面からの要請なのか、考えてみれば不思議である。

2017年10月13日

アシナガサンゴ一考

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 友人から連絡があってアシナガサンゴだと分かりました。世界大百科事典 第2版の解説によると、花虫綱チョウジガイ科の腔腸動物(刺胞動物)。6本の太いとげが底から出ている単体サンゴ。本州中部以南の水深150~400mの海底に分布する。サンゴ体は六角形で,おのおのの角の底から太いとげが放射状に長く出て体を支え,特異な形をしている。莢(きよう)の中は多くの隔壁でしきられるが,六つの角から生ずる隔壁が上方にもっとも高く突出する。各隔壁の側面には小さい顆粒が発達している。

エストニア共和国より愛をこめて一考  

木野寿紀さんのブログです。プロフィールにはエストニア共和国在住の大学生。タリン大学教養学部社会科学専攻とあり、さまざまな楽器の演奏者でもある。ポリティカルな発言が多いが、非常に面白く読ませていただいている。

 http://www.from-estonia-with-love.net/

拾いもの一考

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どこで拾ったのか覚えていない。フェイスブックの友達のサイトだったら申し訳ない。

化石一考

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 ウニの化石はいくつか持っている。ただ写真の化石がなんなのかさっぱり分からない。褐虫藻や放散虫を想起させるが、どなたかご存じの方がいらっしゃればご教示賜りたい。

バイクブーツの代用品一考  

 日中はまだましだが、深夜は寒い。ひともオートバイもブルブルガタガタ震えている。金のかかる話しは考えたくもないのだが、足下をなんとかしたい。ブーツが欲しいのである。ゴムの長靴を持っていたはずなのだが、度重なる引越でどこかへ消えた。
 ヤフオクの1円出品のなかから探す予定、送料が1000円ほどかかるので、購入予定価格は500円まで。バイクブーツとして用いるには細身で足にフィットすること、底が薄いこと、甲の部分にチェンジレバーが当たるので補強できることの3点だが、防水ならそれに越したことはない。今月中になんとかしたい。

2017年10月12日

渡船一考

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 現在大阪市内には、市の運営する8箇所の渡船場があり、15隻の船が地域の多くの人々に利用されている。一方、神戸には兵庫突堤へ渡る新川に渡船があったのだが、検索しても渡船の歴史自体がなにひとつ出てこない。子供のころ、父親と自転車で中央市場へ出掛け、渡船に乗ったのを覚えているのだが。現在の渡船は防波堤行きの釣り船ばかりである。
 写真は鳴門市営渡船。

前立腺炎一考  

 尿に濁りがあって前立腺炎の再発でした。云われれば抗生物質を処方しますがどうします、と問われて、痛みは収まったようだし極力抗生物質は飲みたくない、痛みがぶり返すようだとその時にまた、と応える。尿の濁りはチェックしているのだが、見落としたようである。白血球は炎症によって増えてはいないが、わたしの場合は腎臓と関わりがあるのでいささか難儀である。

2017年10月11日

枝幸町ウスタイベ千畳岩一考

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 友が北海道へ行くという。うらやましく思う、わたしは今年もどこへも行かれなかった。せめてキャンプ道具を車に積み、旅をした気になってみようか。明日は病院だが、土曜日から前立腺が痛い。前立腺自体の痛みではなく、頻尿と尿意を催した際の激痛が前立腺の腫れを想起させる。フリバス(ナフトピジル)の用量を増やそうか。

 枝幸港(北見枝幸)の北に突き出した小さな岬がウスタイベ岬。国道238号から外れて岬を一巡する道に入ると、先端の草原部分が無料のウスタイベ千畳岩キャンプ場。その海岸線にあるのがウスタイベ千畳岩。ガラス質安山岩の貫入岩体で、北見神威岬など一帯は北オホーツク道立自然公園に指定されている。ウスタイベはアイヌ語のウス・ウシタイペ・ぺッ(us-nitay-bet=入江・林・川)に由来する地名。
 写真のバイクトレーラーはMTB-XR1輪サス付、場所はウスタイベ岬。キャンプ好きには格好の代物だが、公道での最高速度は25km/h(道路標識等の最高速度がこれ以下の場合はその速度)に制限される。

2017年10月05日

20年ぶりの交通違反一考  

 本日帰りしなにパトカーに捕まった。国道を右折するに際し、道路の中央まで出ずに短縮して走ってしまった。減点1点、反則金4000円である。いかに深夜であれ、対向車もなく、歩行者もいないとは云え、違反は違反である。これからは帰りの道順を変えることにする。

2017年10月04日

腎臓について一考  

 朝日新聞に「腎移植パパが出した10年後の家族への手紙」が掲げられた。

 http://www.asahi.com/articles/ASK8Z5JJ0K8ZULBJ01Q.html?ref=apimag1710_sp_con_mailm_1004_11

 京都の知己は二度の腎移植を経てもっか透析治療に戻っている。透析はダイアライザーによる血液の濾過しか出来ない。濾過によって体内の老廃物や毒素を取り出すのは可能、しかし血圧調整や赤血球の素になる腎臓から出るホルモン(エリスロポエチン)はつくられない。よって貧血の高血圧になる。他にも体液量やイオンバランスの調整、カルシウムを吸収させる活性型ビタミンDがつくられなくなって骨がもろくなる。もっとも大切なことは、腎臓は腎臓単独の機能にとどまらず、全身の臓器へ指令を出し、それらをとりまとめる重要な機能を持っている。要するに、腎機能障害が枢要臓器に影響し、やがて多臓器不全になる。
 詳しくは10月1日のNHKスペシャル「シリーズ 人体 神秘の巨大ネットワーク 第1集 “腎臓”が寿命を決める」をご覧あれ。

 https://www.dailymotion.com/video/x62s7mi

 https://www.dailymotion.com/video/x63783u

 https://www.dailymotion.com/video/x62s8kc

 https://www.dailymotion.com/video/x62qo4v

2017年10月03日

自損事故一考  

 昨日は終日雨のため、久しぶりに四輪で通勤。イズミヤ神戸玉津店を明石川沿いに左折、場所は明石市北王子町、道の真ん中を女性がふらふら歩いている。対向車線まで避けて通り過ぎたが、やや間を置いて後ろから3台の車が左折、危ないなあと思いつつ、信号で停車して後方を確認する。待てど暮らせど後続車はやって来ない。やむを得ずUターン。後続車は女性を避け損ねて土手へ衝突、女性はどこかへ雲隠れ、たいした事故でないのでわたしはですぺらへ。
 闇夜は怖い、それにしても幽霊のような痩身の女性はどこへ消えたのかしら。

エルボーパッド一考

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 今年は大雪や利尻の初冠雪が29日だったとか、例年なら10月4、5日である。大雪が冠雪を迎えると山間のキャンプ場の朝の気温は3度から5度、冬支度でなければ震え上がる。北海道とはそのようなところである。
 27日夜、例によって二輪で帰路についたわたしは震え上がった。冬がまたはじまったなと思う。日中はシャツ一枚で大丈夫だが、深夜はライダージャッケトですら寒い。師走も睦月もなく、オートバイで走り回っていたものだが、歳と共に厳しくなってきた。
 コミネのエルボーパッド・プロテクターを購入、これで普段の皮ジャンでも大丈夫になった。とは申せ、いつまで乗られるのかしら。

2017年09月26日

ソムリエのような日髙夏生さん一考

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 いそざかな「一とく」の店主がお客と連れだってこられた。名を日髙夏生さんといい、東大出の若い方である。明石ですぺらにとってモルトウイスキーの最初のお客さんである。店には69本のシングルモルトを置いているが、すでに3回転は飲まれている。ソムリエのような飲み方が気に入り、最初は50本からはじめたのだが、彼のためにスペイサイドを15種追加した。
 東京の出だが、明石へ引っ越してから磯魚に嵌まったらしく、毎週土曜日には一とくで魚を食されている。先週はマナガツオとマトウダイのはなしになった。
 俚諺に「西海にサケなし。東海にマナガツオなし」という。マナガツオは瀬戸内、マトウダイは日本海側でよく食べられる。マトウダイはフランス語で「サンピエール(Saint-pierre)」といい、ムニエルの定番である。マナガツオはさらに高級なフレンチで重宝され、元々関東では人気がなかったが、いまでは国内産超高級魚のひとつになってしまった。

 写真は先週末、例によって近隣のスーパーで売っていたマナガツオ。スーパーで売られるような魚ではないのだが、なぜか安かった。値は580円。

2017年09月25日

戸井田和重さん来店一考

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 先日、戸井田和重さん来店、みすじ通り店の常連さんだった。2日続けていらしたので、握り鮨その他を用意した。ウイスキーはハーフで飲んでいただく、その方が多くの種類を飲まれるからである。ウイスキーがメインだが、シェリー樽七年貯蔵の福田酒造の焼酎がいたくお気に入りで、販売店のくまの焼酎屋を紹介する。過去飲んだ焼酎でもっとも旨かった逸品である。
 代わりに、カプツィーナ・ヴァイツェンを教わる。ドイツの白ビールである。いつのことだったか覚えていないが、税制改革で300円のビールが一気に500円に値上がりした。現在店で置いているバディントンやマーフィーズも同様である。明石にはマーフィーズと名乗るショットバーがあるが、肝心のマーフィーズは高いので置いていない。ちなみにですぺらでは800円、次回は値を上げざるを得ないが。
 バディントンはキルケニーと共にわたしが好きなビールである。キルケニーは2008年にサッポロから売り出されたが、取り扱いがキリンになってから樽生のみの販売になった。バディントンはインポーターが手を引き、流通在庫のみになってしまった。残念なことである。
 アサヒのスーパードライのような極端にホップを減らし、ビールか発泡酒か分からないような商品が持て囃されるような国にあっては本物は捨て置かれるようである。

プロテクター一考  

 一昨日からバイクが寒い。わたしのライダージャケットはメッシュの夏物、レザーでもナイロンでも良いので冬物が必要である。ボロでもよいので、ヤフオクで見付けようと思う。
 と思いつつ、箪笥を引っかき回すと格好のよいライダージャケットが出てきた。一人住まいが長いと衣服を片づけるのが面倒になり、冬物と夏物を別々の椅子の上に積み上げたまま生活している。ジャケットだが、痩せていた頃に贖ったもので、着られないと諦めていたのだが、着てみるとぴったり合う。減量が功を奏したようである。ただし、プロテクターなしのジャケットである。服の上に装着するオフロード用の上半身プロテクターが安いのだが、些か仰々しい。わたしの場合、シャントをカバーできればよい。そこでエルボーのインナープロテクターの中古を探すことにした。ジャケットの中古を買うよりは安い。

2017年09月23日

営業打ち切り一考  

 昨晩は体調思わしくなく、営業を途中で打ち切った。帰宅後、血圧を計ると91-52、腰痛がはじまる数値である。拡張期血圧が40台になるとショック状態になり、30台になると心臓マッサージをしないと死に至る場合がある。
 血圧の管理すなわち降圧剤の服用は医師から任されている。手持ちの降圧剤はオルメテック、シルニジピン、アルドメットの3種。オルメテックはアンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬のひとつ、シルニジピンはカルシウム拮抗薬、アルドメットは中枢性交感神経抑制薬のひとつ。最近はオルメテックがもっとも用いられるが、ディオバン事件に象徴されるようにアンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬には問題あり。よってカルシウム拮抗薬に決定した。なお、フラノクマリン類を多く含むグレープフルーツジュース、ザボン、ブンタン、ナツミカンなどとの飲みあわせは行なってはならない。
 昨今、血圧の上下が激しいのは、体重が減っているからである。体重は増えれば増えただけ血圧も上がる。ちなみに、ダイエットとは体重を減らすことではなく、体脂肪を減らすことである。ここはひとつ、薬を控えながら様子をみる方がよさそうである。

2017年09月20日

薄味の総菜一考  

 農家直販の農産物直売所「めぐみの郷」が近隣にあって、隣で食べ放題のレストランを経営していた。学生ならいざ知らず、老人が多い地区で食べ放題などよくやるなあと思っていた。案の定、客足が少なく閉店、スペースを利用して総菜をはじめた。
 スーパーの総菜は甘いのはともかく、塩分が多くて閉口していた。ところが、めぐみの郷のは珍しく味が薄い、わたし向けである。ですぺらの開店を1時間遅らせたために、閉店前の安売りに間に合うようになった。
 本日は、こいもの炊き合わせ、インゲンのごま和え、肉じゃが、鶏の南蛮漬け、小松菜のおひたし、スパゲティサラダ、ポテトサラダ、いかの天ぷら(1個)の8点が残っていた。デザートにパブロのチーズタルト(2個)も購入、併せて675円である。1日1食なのでわたしの3日分の副食になる。飯が好きなので最近は20グラム増やして140グラムをしっかり食べている。

 過日「減量」で体重について詳しく書いた。「7月中には65キロにまで落としたいと思っている」と書いたが、2箇月遅れで65.2キロにまで減った。やっとドライウェイトに達した、下限の62.8キロまでもう少し、年内にはなんとかなりそうである。1年で15キロの減量になる。
 生体腎移植で得た腎臓の機能に身体を合わせるには52キロにまで下げなければならない。さらに一年は減量に励まねば。

シェリー酒について一考  

 ウイスキーの熟成に用いられるシェリーカスクだが、そのシェリーはさまざまなタイプに分類される。辛口にはフィノ、マンサリーニャ、アモンティリャード、オロロソ、パロ・コルタドがあり、極甘口にはペドロ・ヒメネス、モスカテル。辛口と極甘口をブレンドした甘口にはドライ、ミディアム、ペイル・クリーム、クリームなどがある。ゴンサレス・ビアス社、ウィリアムズ&ハンバート社、ガルベイ社の3社からはヴィンテージ・シェリーが頒布されている。
 20数年前、サントリーからパロ・コルタドが頒布されてい、あまりの旨さに愕いたことがある。アモンティリャードの繊細なブーケとオロロソのボディーと味わいを持つワインである。拙宅にあと2本在庫があるが、非ヴィンテージのシェリーであれほど旨いものに出会ったことがない。

ラフロイグ ロア再発売一考  

 このところラフロイグに関する記述が続くが、「ラフロイグ ロア」が数量限定で再発売されている。トリプルウッドはフィニッシュがヨーロピアンオークだが、ロアはオロロソシェリーのホグスヘッド、クォーターカスク、一度ラフロイグを貯蔵した古樽の3種類のカスクに、ダブルマチュアードの原酒を加えてマリッジするという複雑な工程を経ている。
 トリプルウッドと比してシェリー香が顕著である。その分、ロアはトリプルウッドの高級品ということになりそうである。
 例によって、Whisky Magazine Japanの記事を転載する。

 http://whiskymag.jp/laphroaig_lore/

 こちらは初回の時の紹介記事。

 http://whiskymag.jp/lrlaph/

2017年09月19日

クォーターカスク終売一考  

 ラフロイグのセレクトカスク発売に伴ってクォーターカスクが終売になった。流通在庫はまだあるのでぜひ購入されんことを。間違いなく旨いウイスキーである。
 トリプルウッドも終売になるようだが、こちらは最初のボトルと2度目以降のボトルでは中身が異なるようである。バーボンバレルとクォーターカスクで熟成は同じだが、フィニッシュはヨーロピアンオークとなっている。わたしは確認していないが、オロロソシェリーからペドロヒメネスへ変更されたようである。
 2012年にエクスクルーシヴ・カスクからブレイヴァル、アルタナベーン、グレン・スペイ、ブナハーブンの四種が頒された。フィニッシュはすべてペドロヒメネスである。加えて、ラガヴーリンのダブルマチュアードがペドロヒメネスである。ブレイヴァルは好きなウィスキーなのだが、リッチなシロップ漬けレーズンのアフターはデザートワインを思わせて興ざめである。そもそもペドロヒメネスを用いたウイスキーで旨いとおもったものがない。要するに甘すぎるのである。
 近頃、ワイン樽ブームだが、ソーテルヌやトカイのワイン樽などもってのほかである。フランスのボトラーがヴァン・ジョーヌの樽を用いているが、あれもいただけけない。ちなみに、赤ワインの樽で成功したのはボウモアのダスクのみ。やはりシェリーに倣って辛口の白ワインの樽が無難である。

 ですぺら掲示板2011年03月02日「クォーターカスク」に佐々木幹郎さんの土産話を書いている。
  http://www.despera.com/bbs2/2011/03/post_1087.html

2017年09月16日

厚化粧のウイスキー一考

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 明石ではかつてのマッカランのようなオロロソシェリーカスクによる厚化粧のウイスキーのみが持て囃される。そしてアイラモルトは嫌だという客が多い。なにを飲んだのか訊くと決まってラフロイグ10年だと云う。入手しやすいのが理由だろうが、ラフロイグ10年はもっとも安くもっとも拙いウイスキーである。クオーターカスクの方が遙かに旨い。おそらくバーテンダーが試飲せずに販売しているのが問題だと思う。
 他方、みなさん口をそろえて昔のウイスキーは旨かったという。ですぺらのバックバーは14年前の古いボトラーズボトルばかりだが、現行のウイスキーでも旨いものはいくらでもある。バーボン樽を多用しはじめたボウモア、さまざまな樽を使いはじめたラフロイグやマッカラン、タリスカーはラベルが何度変わろうが、同じ香味を保っている。カーン・モアの6年ものノックドゥーも旨い。昔を懐かしむのでなく、酒屋で買えるものの中から美味なウイスキーを選ぶことにこそ、飲み手の鼻と舌の真価が試されるのである。
 Whisky Magazine Japanの記事を転載する。

 http://whiskymag.jp/landb2014/

 6/24発売となった2つのアイラモルトのニューリリースをご紹介する

“アイラモルトの王者”ラフロイグ、 “アイラモルトの女王”ボウモア…2つのアイラ島の蒸溜所から、2アイテムが揃って登場した。
「ラフロイグ セレクトカスク」と「ボウモア スモールバッチ」である。どちらもノンエイジだが、その分エイジングに縛られることなく多種多様な原酒を使用できるという良さを十分に発揮し、これまでにないバランスとフレーバーを備えたボトルをつくり上げた。

「ラフロイグ セレクトカスク」は3タイプの樽で熟成させたモルト原酒(ペドロヒメネス・シェリー樽、ヨーロピアンオーク・シェリー樽、バーボン樽)をヴァッティングした後、さらにアメリカンオークの新樽で熟成するという、従来にはなかった新感覚。
スモーキーにシェリーの甘美がそよぐ。多彩な樽種での熟成モルトが織り成す重層感に、従来のラフロイグの香味イメージを超えたフルーティーさを見出すことができる。

「ボウモア スモールバッチ」はファーストフィルとセカンドフィルのバーボン樽で熟成させた原酒を使用。そもそもボウモアでは熟成の70%にバーボン樽を使用しているため、バーボン樽熟成の原酒は非常に豊富。その中から厳選しヴァッティングし、「この上なく幸せな結婚」をしたスモールバッチのボトルである。
香りはバニラファッジ、シーソルトとピートの煙、蜂蜜とシナモンが見事にバランスを取っている。味わいは口中を覆うようなシトラス感、穏やかな塩気とバニラ、かすかにココナッツ。フィニッシュにほのかなスモーク、バーボン由来のバニラとライムが心地良く、ソーダとの相性がよい。

どちらも定番商品として販売されるため、焦って買い求める必要はなさそうではあるが、アイラファンの方ならすぐにでも試してみたいと思われるだろう。コストパフォーマンスの高さもノンエイジならでは。アイラモルトの良さを詰め込んだ2つのニューリリースをぜひお試しいただければと思う。

商品概要
 ラフロイグ セレクトカスク 700ml 40% 3,020円
 ボウモア スモールバッチ 700ml 40% 3,490円

2017年09月11日

一考

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 先月の18日以来、24日ぶりに風呂へ這入った。腫れているものの、傷口にやっと薄い皮が張ったようでる。免疫を極端に落としていると、蚊に嚼まれたような疵がこのようになる。医師が云うには風邪をひくと結核になり死に至るそうな、不幸中の幸いと思っている。
 実はこの疱疹が背中、肩、頭にも転移、いくら髪の毛が薄くなったとは云え、頭皮の痛みは尋常でなく、悲鳴をあげていた。頭には痛み止めが効かない、40錠を超えるロキソニンとボルタレンを服用した。久しぶりの風呂だが、すっきりするよりも疲れてしまった。

2017年09月09日

目板カレイ一考

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 傷口はずきずきするが、痛み止めは必要なくなった。同時に血圧が150まで上がり降圧剤を再開。疱疹と血圧は関係なかろうにと思うのだが、わたしにはよく分からない。いずれにせよ、オーグメンチン配合錠とルリット錠が効いているようである。それにしてもこのような多量の痛み止めを必要としたのは久しぶり。
 今日は恢復を祝って、目板カレイの刺身を買ってきた。目板を下ろすのは簡単なのだが、今日は出来合いを購入、すこぶる美味。来住さんが明石の刺身と鮨屋をぼろかすに云っていたが、まったく同感、いくらなんでも高すぎる。しかし、このような磯ものは別、ちなみに値は780円。

2017年09月08日

傷痍軍人一考

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花柳病で傷痍軍人について書いた。写真を掲載しておく。

友来たる一考  

 来住謙一郎さん来店、待ちわびていた客のひとり。 2001年10月の当掲示板で「明石の来住謙一郎さんや太田守さんのように、モルト・ウィスキーの香りについて縦横に語り合える相手に恵まれず、苦渋致しております。赤坂の酒屋さん、ソムリエやバーテンさんが葡萄酒の相談に足繁くやって来るのですが、ソムリエではなんの役に立たず、香りについてはやはり板前さんしか信用できないようです。栗の渋皮、生海苔、やや痛みかけた生麩、駄菓子屋のゴム風船、飴の純露、黴びの生えたパンツ、みつこや夜間飛行を1000倍に希釈した香りなど、来住さんからの一言は大いなる連想ゲームをもたらし、抱腹絶倒の試飲会の繰り返しでした」と書いている。
 事ほどさように、来住さんとの晤語は愉しかった。マッカランをはじめとするオロロソシェリー樽の厚化粧のウイスキーをわずか2年で卒業し、蒸留所本来の香味を味わえる3年から8年までの若いウイスキーにわたしを導いたのも、元を正せば来住さんだったのかもしれない。
 明石ですぺらは何時まで営業できるか分からない、わたしの健康次第である。後を頼めるようなしっかりした基盤を拵えたときには来住さんにお願いしたいと思っている。そのために選んだ水槽付きの割烹なのである。

2017年09月06日

花柳病一考

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 わたしが子供の頃、巷は白衣と白色の繃帯で満ち溢れていた。大方は満州帰りの傷痍軍人で、腕のないひと、脚のないひと、失明したひとなどがいた。いまのように車椅子のない時代で、みなさん松葉杖(すら少なかった)の世話になっていた。なかには輪っかの付いた30センチ四方の板切れに正座しているひともい、よく見ると両脚とも膝から下がない、おそらく手榴弾か地雷による被害であろうか。新開地本通りや地下道、または縁日などにはそのようなひとが喜捨を求めて並んでいた。
 次いで純白で思い出すのが新開地に隣接する福原町、ピー屋の玄関で客引きをする遣手(やりて)と称する婆である。ピー屋のピーとは中国語での売春婦の蔑称、ピー屋とは中国における慰安所のこと。兵隊帰りの連中は女郎屋をピー屋と呼称していたのである。また、行き場のない年季明けの遊女は番頭新造として花魁の雑用をするか、遣手として遊女の監視・管理係もしくは客引きとなるのが常だった。梅毒の第二期から第三期症状になるとゴム腫が崩れ、瘢痕となる、それを「鼻が落ちる」すなわち「花落ちる病」と表現した。
 遣手はその疵を匿すために露出した素肌(両腕と首)を繃帯でぐるぐる巻きにし、小さな椅子に腰掛けていた。子供ながらに「人生のさすらい」の薄情さと痛々しさを見詰めていたのである。

 性と性病とはコインの裏表で切り離しては考えられない。売春防止法の前後で女郎屋は浮世風呂へと職業の形態こそ変われ、実態はなにひとつ変わっていない。かつて遊郭では一箇月を経ずして花柳病に罹ったと云われる。そして罹れば一人前として内祝いをしたと云われる。花柳病とは梅毒、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、鼠径リンパ肉芽腫、この四つのいずれかであった。今ではHIV感染症が加わり、さらに耐性菌の蔓延によって淋病がもっとも難儀な病になった。
(写真は女郎屋の洗浄室)

サラ一考

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 昨夜、危うく子猫を轢きそうになった。オートバイの前照灯は暗い、道の真ん中に子猫がうずくまっているのに気付いたときは既に急制動がかけられる距離ではなかった。思わず急ハンドルを切り、20センチほどの幅を残してやり過ごした。スラローム走行である。
 子猫がぴくりとも動かず、顔だけ上げてわたしを見ていたのは、なんらかの怪我を負っている証し。拾って帰り、傷だけでも治そうかと思ったが、わたしに生き物は禁物である。昔、明石の太寺から雪華社へ出向の折、飼っていた柴犬サラと多くの金魚をいろんなひとに委ねてきた。柴犬は新しい主人に馴染まず、宝塚の山奥に遺棄されたらしい。名の由来となったSarahは「自宅ではクッションを敷き詰めた棺桶で休んでいた」と伝えられる、拙宅のサラを最後まで看取られなかったのは無念、いまなお済まないことをしたと悔いている。それ以来、生き物は飼うまいとこころに刻み込んだ。
 生き物にとってひとは薄情である。昨今、老犬の介護施設が増えてきたと聞く。人間同様、認知症に罹った犬がホームへ追いやられるのは傷ましい。もっとも、傷を負った子猫を置き去りにするわたしこそ、もっとも薄情なのだが。

2017年09月04日

ボリス・ヴィアン 鈴木創士一考

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 鈴木創士さんがヴィアンについて著している。素晴らしくも悲しい文章で末尾が飾られている。全文を引用しておく。

 http://www.gendaishicho.co.jp/news/nc3073.html

 ボリス・ヴィアンが二十近い職業を持っていたからといって、作家たるものがどうやって食っていけばいいのか、という由々しき問題の答えにはまったくならない。永続的な喫緊問題ではあるだろうが、その点で時代はますます悪化の一途をたどっている。
 ボリス・ヴィアンがほんとうにずっと金に困っていたのかどうかはつまびらかではないところがあるが、理科系に強かったボリス・ヴィアンは最初、公務員の技師になった。でもそれもやがてやめてしまい、ほぼ同時に、つまり一度に、詩人、小説家、翻訳家、劇作家、ジャズミュージシャン、シャンソン歌手、作詞作曲家、ジャズ評論家、オペラやバレエの台本書き、映画監督、映画脚本家、俳優、レコード会社のディレクター、画家、美術評論家となった。
 ボリス・ヴィアンは「職業がひとつなんて、売春婦みたいだ」と悪態をついていたが、しかし彼は結局のところ作家であり、プロのミュージシャンであるにすぎなかった。やったことはほとんどひとつ事なのだ。あとの職業は、よくある話だが、一儲けしようと企んだ当時のサン-ジェルマン-デ-プレの人間関係その他が、才能溢れる彼を利用しついでにほとんど彼に無理強いした余禄みたいなものだった。つまりこんなものはどれもやる必要のない仕事だった。
 彼はずっと心臓を患っていたが、コカインをやっていた気配はなさそうだし、医者に止められていたトランペットを夜毎サン-ジェルマン-デ-プレの地下クラブ、穴倉「タブー」で吹きまくっていたことだけがたぶん唯一の死因などではないだろう。仕事、仕事、仕事。彼は働きすぎたのだ。こんな忙しい毎日こそが彼の寿命を縮めてしまったことは想像に難くない。見たくもなかった映画、自分が原作を書いたのにその出来に不満を抱いていた映画(その原作とはヴィアンのデビュー作『墓に唾をかけろ』で、もう少し正確に訳せば『お前らの墓に唾を吐いてやる』)の試写中に心臓発作で亡くなったのだから、ボリス・ヴィアンはほとんど殺されたも同然なのだ。

 ところで、フランスは第二次世界大戦の戦勝国だったとはいえ、戦後直後のフランスの若者にとって、いつの時代も同じようなものだが、やはり未来はあやふやなものだった。いや、たぶんそれどころではなかっただろう。未来の行動も思想も混乱と幻滅のなかにしかありえなかった(彼らにとっても、広島と長崎によって「原爆の世紀」はすでに始まっていたし、われわれが想像する以上に、彼らがそのことを強く意識していたことは間違いない。ボリス・ヴィアン自身、「原爆のジャヴァ」という曲を歌っていた)。
 レジスタン派の勝利によって、ナチス・ドイツの占領からパリは解放されたが、パリ全体も、もちろんサン-ジェルマン-デ-プレも、そして人心も、荒廃の極みにあった。フランスには対独協力というごく近い過去があった。町のあちこちで住民によるリンチが頻発した。処刑も行われた。戦争犯罪者たちと無名戦士の墓…。不思議なことに誰もが突然抵抗運動マキの英雄になった。えっ? かつて密告が横行したように、嘘も逃亡も横行したに違いない。すべてがマロニエの下ですっかり泥水をかぶってしまったのだ(後にヴィアンはレジスタンス神話を徹底的にこき下ろした戯曲『屠殺屋入門』を書き上げるが、芝居は二流の劇場でしか上演されることはないだろう)。フランスは旧約聖書の時代のようにさながら二分されたままだった。フランスとフランス人にとってヴィシー政権と戦後のアルジェリア戦争は二十世紀の二つのトラウマだったのだし、その問題は間違いなく今も尾を引いている。
 文学者はどうなのか。文学者も多くのツケを支払わされることになった。ナチス占領下でヴィシー政権支持の文章を書きまくったブラジアックはあれこれあった末に銃殺刑に処せられた。セリーヌは亡命し、ジャン・ポーランに代わってガリマール社の『NRF』誌の編集長におさまっていたドリュ・ラ・ロシェルは結局自殺した。九死に一生を得たブランショはやがて極左に転向するだろう。ドリュ・ラ・ロシェルは元パリ・ダダのメンバーだったことがあったのだし、戦前の右翼だった彼らはみんな「共産主義かファシズムか」の世代だったのだ。

 ボリス・ヴィアンは戦後のサン-ジェルマン-デ-プレのスターになったが、彼は戦争に深く刻印されただけではなく、まぎれもなく戦争を心底憎む戦後作家のひとつの在り方だった。それが彼の真骨頂だったと私は考えている。ボリス・ヴィアンの悪ふざけが何らかの反抗のしるしか発作でなかったことは一度もない。当時はただのジャズだって普通のフランス人には受け入れ難いものだった。おまけに彼は「脱走兵」の歌もうたったし、こんな詩も書いている。

  俺はくたばりたくない
  夢も見ないで眠りこける
  メキシコの黒犬
  むき出しの尻をした猿たち
  熱帯をむさぼり食らう
  あぶくでいっぱいの巣にいる
  銀色に光る蜘蛛たちと
  知り合いになるまでは
  俺はくたばりたくない…

 人生において誰もがその人のうちでその人を完結せざるを得ないことはわかり切ったことだ。ボリス・ヴィアンの場合は生き急いでいたように見える。そうはいっても、戦後のサン-ジェルマン-デ-プレの生活は愉快だったはずだ。ボリス・ヴィアンは『サン-ジェルマン-デ-プレ入門』という本を書いているくらいだから、ここに彼が「場所と公式」を求めたことは間違いない、というかそれしかなかったはずである。場所と公式は探し当てられたのだろうか。誰にとってもその問いに答えるのは難しいが、彼はここで生き急ぎ、そして死ぬことになった。
 サン-ジェルマン-デ-プレには、ご存知のとおり、多くの有名人が顔を見せていた。サルトルとボーヴォワール、カミュ、メルロー-ポンティ。だが黒ずくめの若者たちは、全員が実存主義の学生ばかりではなく、誰もがサルトルの信奉者だったわけではない。実存主義一色のサン-ジェルマン-デ-プレなど、ヴィアン自身が言うように、三文ジャーナリストが苦し紛れにでっち上げたいいかげんな話にすぎない。
 レイモン・クノー、ジャック・プレヴェール。フランスの暗黒小説の叢書、つまり探偵小説のことだが、「セリー・ノワール」の総指揮官だったマルセル・デュアメル。たしかにセリー・ノワールの哲学があったのだし、フランス映画はすぐ隣に位置していた。サン-ジェルマン-デ-プレには古参の連中もいた、アルトーや、ピカビアや、アメリカへの亡命から戻ったブルトン、コクトー、バタイユやツァラもいた。画家のヴォルスや、ジャコメッティ、マッタ。ジャン・ジュネ。エジプト出身の放浪作家アルベール・コスリー。アルトーの弟子だったロジェ・ブランや多くの俳優たちとその卵。ボリス・ヴィアンと並び称される戦後サン-ジェルマン-デ-プレの寵児、役者で歌手だったジュリエット・グレコ。それに名だたるアメリカのジャズミュージシャンたちがこぞってやって来ていた。デューク・エリントンも、少し後にはマイルスも。シュルレアリストの残党、そして後に五月革命を準備するシチュアシオニストの源流となったイジドール・イズーとレトリストの詩人たち。独創的にしかなりえなかった映画監督、五月の革命家となるかのギー・ドゥボールもそこにいた。後にウィーン幻想派の画家になったエルンスト・フックスも。
 一日中カフェにたむろし(この点で有名なカフェはいくつもあったし、今もまだ残っているものもあるにはあるが、いちいち列挙するのはあまりに空しいので、やめることにする)、夜はクラブ「タブー」で踊り狂い、安ホテルの部屋や泊めてもらえる寝ぐらがなければ、メトロの駅で野宿する多くの若者たち。戦争孤児たちもブルジョワの子弟も。彼らによって未来は拒否された。精神錯乱は保証済みだし、不必要といえば不必要なのだ。はっきり言って、こんな連中は最近では絶滅危惧種である。私があきらめ気味に日々そのことにいら立っていないと言えば嘘になるだろう。かっぱらい、麻薬の売買、その他の犯罪に近いこともたまには。まあ彼らは、言ってみれば、フランスのビートニクス、フーテン族やヒッピーのハシリとも言えるのだが、その魅力的な風貌は、エルスケンの写真集『セーヌ左岸の恋』やその他の写真、ジャック・パラティエの記録映画『想い出のサン-ジェルマン-デ-プレ』でも見ることができる。

 それらの中心にほんとうにボリス・ヴィアンがいたのかどうかはわからないが、ヴィアンが日常生活のなかで彼らを鼓舞し、そそのかし、元気づけるようなことをやっていたのは、伝記作者たちの筆致からしても、確かなことなのだろう。彼自身、自分を鼓舞していたフシがある。なぜなのかはしかとはわからない。生き急いだボリス。退屈だったボリス。そうとしか言いようがない。ボリス・ヴィアンの最初の作品は、はじめのほうで言及したように、セリー・ノワール風の「えげつない」小説『お前らの墓に唾を吐いてやる』だったが、これはヴァーノン・サリヴァンというアメリカ黒人作家の作で、ボリス・ヴィアンが翻訳と序文を担当したことになっていた。真っ赤な嘘だった。このほとんど冗談みたいな処女作は、出版社「スコルピオン」の社長ジャン・ダリュアンとの退屈な会話から生まれた。もちろんそれが彼らの日常的な悪だくみの一環だったことは言うまでもない。
 「なんかいい作品はないかなあ」
 「あるよ、ヴァーノン・サリヴァンという黒人作家だ」
 「原稿はあるのか」
 「今から俺がでっち上げるさ」
 「じゃ、そいつで一儲けしようぜ」
 実際、本は五十万部の戦後最大のベストセラーとなったが、暴力描写及び過激な性描写ゆえに風俗紊乱の廉で発禁処分の憂き目をみる。バタイユやブルトンが法廷に立ち、出版人ジャン・ジャック・ポーヴェールが被告になったサド裁判よりずっと前の話である。

 ヴィアン自身が言うように、内容とは何の関係もない表題をもつ小説『北京の秋』に敬意を表して、最後に中国北宋代の詩人蘇東坡の詩をヴィアンに献じよう。

  人生いたるところで知りぬ何にか似たる
  まさに似たるべし飛鴻(ひこう)の雪泥(せつでい)を踏むに
  泥上にたまさか指爪(しそう)を留(とど)むるも
  鴻飛んでなんぞまた東西を計(はか)らん

 ボリス・ヴィアンは心臓発作によって三十九歳で亡くなったが、人生の漂白を知るために、つまり書くために、北京をわざわざ彷徨うには及ばなかった。彼はサン-ジェルマン-デ-プレにとどまって、ペットを吹いていた。音楽もまた原則としてその場で消え失せるものである。誰もまともに読もうとしないのだから、書かれたものだって同じだ。素晴らしい詩人で失脚した政治家だった蘇東坡が語るように、人生のさすらいは何に似ているのだろう、舞い降りた雁が雪解けの泥を踏むようなものではないのか、泥の上に偶然足跡を残しはすれども、飛び立った雁の行方は誰も知らないからである。

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