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2010年11月 アーカイブ


2010年11月30日

味噌漬け  | 一考   

 味噌漬けの豆腐について書いたことがある。水切りした豆腐をガーゼでくるみ、味噌を塗りつけてタッパーに入れる。チーズのような味わいのお通しができる。ちなみに、チーズそのものにも味噌漬けの製品が複数ある。
 他では卵黄の味噌漬がある。小さな器に味噌を詰めガーゼを敷いてくぼみをつける。くぼみに卵黄を入れ、ガーゼをかぶせて味噌でおおう。二日ほどでペースト状になり、さらに置くと固まって半透明になる。これを薄切りにするとからすみに似る。
 この味噌とガーゼの組み合わせはさまざまな料理に用いられる。わたしが贔屓にしていた荻窪の飲み屋では同じ造りで牛タンの刺身を喰わせた。牛タンは家庭ではできないが、少量のものなら可能である。スモーク同様、家庭で簡単にできるお通しである。
 ただし、現在のわたしには塩分濃度の高いものは味見すら不可能である。


冬日  | 一考   

 この一年、スタッドレスタイヤを履きっぱなしだった。スタッドレスの寿命は四年、冬季だけだと減らないので勿体ない。燃費が少々悪くなるのと、雨天の制動がよろしくないのを我慢すれば年中走ることができる。言問橋の西詰めではいつもスリップしている。
 さすがに十度を下回るといささか寒く感じる。しかし、わたしの冬服はオートバイ用である。今は車で往復しているので、手持ちの衣服だと厚着になる。薄手のヒートテックが最近流行っているようである。オートバイでは役に立たないが、普段着としては充分な機能をもっている。もう少し寒くなればうんと薄いカーディガンかセーターでも購入しようと思っている。
 加藤周一氏が存命中、山崎剛太郎さんの出版記念へコートを着て出掛けた。ホテルでコートを預かりますと云われたが、コートの下は夏物のワイシャツ一枚で困惑させられた。爾来、わたしはコートなるものは着ない。


2010年11月29日

NTTフレッツ光  | 一考   

 拙宅のパソコンが一箇月ぶりにネットに繋がった。なにかしらの理由があるのだろうが、調べる気は起こらない。早速、延坪島砲撃のニュースを見る。尖閣諸島もいずれ焦臭くなる。そうなれば現今の政治家では対処しきれまい、吉田茂ならどうしただろうか。

 繋がったと思ったら次の日には繋がらなくなった。NTTのフレッツ光には本気で腹が立ってきた。止めればよさそうなものだが、違約金を払わなければならない。しかし、遣いも出来ないものに金を払い続けるのはさらに可笑しい。
 今までさまざまなプロバイダーを遣ってきたが、接続に問題が生じたことは一度もない。NTTがはじめてである。わたしの知己でNTTを遣っている方はいらっしゃらないが、当然だと思う。フレッツに責任があるのか、エキサイトに責任があるのかすら分からない。ある日突然繋がらなくなったり、繋がったりの繰り返し。最悪の状況である。


企画書  | 一考   

 先日関さんと話していて、もっとも為事ができるのは何歳ぐらいだろうかと思いをめぐらした。わたしは三十歳、彼女は三十三歳ということだった。自らの経験に基づいたはなしであって、なんの参考にもならない。しかし、二人共にほぼ同じような答えだったのには理由があるはずである。
 三十歳乃至は三十三歳以降の為事はどうかと云うと、それらは既にそれまでに芽生えている。要するに、三十歳までの為事以上の為事はできないと云うことにもなる。確かに怖いもの知らずで、がむしゃらに為事ができるのは三十歳ぐらいが限界であろう。もっとも、三十歳との年齢自体が晩期大成型を内包している。早熟であれば二十歳までに人生の大略を処理している、そのようなケースも多いに違いない。
 正社員であろうがアルバイトであろうが、はなしは同じで、為事をしておればなんらかの理不尽、非効率、納得しがたいものを感じる。されば企画書を提出するのみ、断わられても、拒否されても何十回となく企画書を提出しつづけるしかない。やがて上司は手に負えないと見ると、必ずやさらに上の上司にはなしを通す。この間の消息はただただ根比べである。二、三百も企画書を出せば、やがて役員のお出ましになる。企画書が会社の方針に見合わなければ、連結会社への配置換えもしくは定款の書き換えになる。二、三百の企画書に対して無言でいるような会社は日本では見受けられない。
 大方は二つもしくは三つの企画でもって諦める。そして転職する。転職するひとは転職すれば思いのままの為事ができると期待している。そこがわたしには分からない。例えば某チェーン店の喫茶店でアルバイトしているとする。そのチェーンは業態の異なる四十ほどの企業を経営している。さればこそ、先程の企画書を武器に本社へ乗り込み、定款を書き直すことも可能である。為事をしようと思えば、いかなる状況にあろうとも可能である。そう云った為事ができるのが、三十歳乃至は三十三歳までと関さんもわたしも思うのである。


2010年11月26日

「ポスターを貼って生きてきた」  | 一考   

 ポスターと云えばコーベブックスでの最初の仕事「タロット展」を思い浮かべる。当時、西武百貨店にいらした草刈順さんにポスターの制作を依頼した。最初のポスターは神戸展専用のもので、阪急、阪神の駅などに貼り出した。ところが、貼っても貼っても持って行かれる、一日として貼ったところにないのである。後日聞くに、ポスターを切り抜いてタロットカードを造ったそうな。1974年6月のことだが、当時はかくまでタロットが珍しいものだった。
 同年末、池袋の東武百貨店で東京展を開き、一挙にタロットは知られるところとなったが、主宰コーベブックスと小さく刷られたポスターが東京中の地下鉄に貼り出された光景には誇らしさを感じた。
 徒し事はさて置き、笹目浩之さんの著書「ポスターを貼って生きてきた」がパルコ出版から発行された。ポスターハリス・カンパニー主持であり、近著に「ジャパン・アヴァンギャルドーアングラ演劇傑作ポスター100」がある。新宿ゴールデン街からはじまって、渋谷、下北沢、六本木、西麻布、青山等々の飲み屋に演劇のポスターを貼るのを生業としている。
 ナジャのクロちゃんは昔、ゴールデン街で文庫屋というバーを営んでいた。劇団状況劇場御用達の店で、笹目さんもわたしも常連客の末席を穢していた。彼のポスター貼りの歴史は文庫屋にはじまると云っても過言ではあるまい。それぐらい大きな契機を彼は文庫屋から得ている。「ネオン輝く夜の繁華街は、いわばぼくやスタッフにとって「舞台」だった」その舞台を「街のいたるところや人々の生活の中にまで演劇や芸術的なものを広げる」「実利実益しかない街に、演劇という虚構の世界、想像の世界への窓口となり入口にもなるポスターを貼りめぐらす」と云った彼の思いで染め抜いていった。
 彼の脚本とは、「一日に貼る枚数は七十枚ほど、ポスターというのはまとまると案外重いもので、これだけで二十キロ程度の荷物になる。このほかに・・・ポスター貼りの七つ道具がある」、その「重いポスターを担いで一晩に何十キロもの道のりを歩きまわ」ること。一種の隙間産業といえようか。彼のユニークな人柄あっての商売と思われる。
 今回の著書を頂戴した折、彼は文学とは関係のない本で恐縮ですが、と繰り返した。思うに、生業をポスターハリス・カンパニーと名づけた瞬間から彼の唯一無二の人生がはじまった。「貼ったり人生」結構、彼の存在それ自体を文学と云わずになんとする。


2010年11月25日

血圧  | 一考   

 病院で居残りになった。血圧と体重に異常値が出たのが理由である。体重はともかくとして、血圧は高い方が100を切った。わたしにとっては問題にもならないが、医学的にはそうでもないらしい。月曜日の血液検査でもおかしいところは見られない。また血圧は透析の最中に計六回計る。今日はもっとも高かった数値が113、だとすれば96ぐらいに落ちるのは当然だと思う。
 ヘモグロビンは赤血球の中にあるタンパク質だが、とりたてて異常はなかった。しかし、わたしは最も気にしている数値である。輸血は失われた血液を全量補うわけでない。生きてゆくに最低限確保できれば成功である。後は身体が血液を造ってくれる。人の細胞はことごとくが新陳代謝で、血液も三箇月ほどで入れ替わる。しかし、腎臓が機能していないと血液は造られない。補充のために、定期的な輸血が必要になるかもしれないと医師から云われている。況や、憩室からの大量出血があればどうにもならない。だから用を足すときには注意しているし、ヘモグロビンの数値にも気を遣っている。
 腎不全の患者は高血圧になる、ところがわたしは同時に複数の病に罹った。従って血圧が低い。医師は機械的に降圧剤を飲めと云うが、わたしは自己判断で降圧剤を飲んだり止めたりしている。そうでもしなければ血圧は90を切るどころで収まらなくなる。血圧が70の50を切ってなお、車で走り回っていたことを思えば、なにが異常なのか、わたしにはさっぱり分からない。


2010年11月23日

『田園に死す』転送です  |  一考

denen2006.jpg

2006年11月に劇団☆A・P・B-Tokyoが、初の舞台化 
2008年12月に再演
いずれも満員御礼となった舞台の三演でございます 
初演・再演に引き続きまして、わたくし川上史津子が主人公の
少年を演じます!
39歳独身、賞罰ナシ(笑)の川上史津子が15歳のカワカムリ少年
に化けられるや否や!? ご期待下さい!

☆A・P・B-Tokyo 10th Anniversary Performance ㈼
『田園に死す』
2010年11月26日〜12月5日@ザムザ阿佐ヶ谷

作/寺山修司 
演出/高野美由紀+East 10th Street 
音楽/J・A・シーザー

11/26(金) 19:30
27(土) 14:00/19:30
28(日) 14:00/19:30
29(月) 19:30
30(火) 19:30
12/ 1(00(当日学生証提示・限定枚数販売) 
当日 ¥4,300 
(共に日時指定・全席自由)

チケットご予約は、わたくしまで直接お申し付け下さいませ
その際に、日時、枚数、フルネームをご明記願います
お振込み、または当日精算方法をお返事申し上げます
お得なペアチケット・学生チケットもございます

ご連絡は、ご観劇の前日までに
shizukokawakami@gmail.com(携帯からチェックできます)
まで、よろしくお願い致します

川上史津子


2010年11月22日

贈り物  | 一考   

 秋元美和子さんからレナジーの試供品が送られてきた。お気遣いに感謝。以前にも有り難く頂戴したが、クリニコの栄養補助飲料である。
 彼女の同級生が二年の透析を経て腎移植に成功、今ではビールをぐびぐび飲んでいるそうな。羨ましいかぎりである。
 わたしは摂っていないが、透析医院では療養食を注文できる。その折、お茶か氷水がついてくる。最小五十ミリから最大百五十ミリまで、症状にあわせて飲料を注文している。五十ミリしか飲まれない人の横で百五十ミリはないだろうと思うのだが、他人への気遣いは見られない。透析は四時間、拘束(血止め)を含めて五時間と十分ほどなので、わたしはその間は水分も遠慮している。
 秋元さんが風邪について書かれている。客に遠慮せずマスクを掛けた方がよい。ティートゥリーというフトモモ科の樹木のエッセンシャルオイルがインフルエンザに効果があって、施設でも使われている。ちなみに、アロマポットでティートゥリーを焚くと鼻炎にも効果がある等々。そこまでする気はないが、肺炎のワクチンぐらいは打っておくべきかと思っている。


2010年11月20日

蛋白とリン  | 一考   

 透析患者が注意しなければならないのは血圧とリンとカルシウムの過剰である。理由は血管が脆くなること。特に糖尿のひとには顕著に表れる。今のところ、リンによる血管への影響は見られないが、迂闊に済ませると大変なことになる。鮪は最悪の食品だが、煮魚や焼き魚を思えば、刺身はまだましである。そう思って刺身を食してきたが、リンが減らなくて困っている。今日も本院の看護師からリンについて注意を受けた。
 リンの這入っていない食品はない、だから困惑するのである。増えだしたのはこの一箇月、とすれば理由はやはり刺身か鮨だと思われる。
 牛肉にせよ、魚肉にせよ、蛋白質を摂れば必ずリンが付いてくる。蛋白質一グラムに十二、十四ミリグラムのリンが含まれる。蛋白かリンか、悩ましいところである。フルーツ、チョコレート、ナッツ類は食べていませんか、との訊いに、問題になるほど食べてはいないと応える。低蛋白米は止めてください、分かっています。蛋白の低い食品は相対的にリンが増える。丸干し、畳鰯、縮緬雑魚、煮干、イカナゴ、シラス干し、柳葉魚のような小魚。牛乳やチーズやバターをはじめとする乳製品もしくは乳製品を原料とするケーキ、プリン、チョコレートなど菓子類。玄米やライ麦のような非精製の穀物。ナッツ、栗、銀杏などの種実類。結着剤を用いた食品もリンの含有率は高い。例えば、豆腐、アイスクリーム、麺類、ハム・ソーセージ・蒲鉾などの練り製品。他ではリン酸塩を添加物として使ったもの、醸造用剤、乳化剤、pH調整剤、膨張剤、変色防止剤、酸化防止剤などが考えられる。清酒やワインは特にリンが多い。その伝でいけば佃煮や漬け物も食べられない。
 しかし、血液の検査結果がもたらすのは悪い面だけではない。白血球の低減やフェリチンが徐々にだが減少しつつある。食べ物による調整はほぼ限界である。あとは薬、特に吸着剤の助けを借りるしかない。


眠気  | 一考   

 鬱はこころの病ではない。こころと云うものに機能はなく、機能のないところに障害はない。鬱は正真の脳の病である。そして鬱には百種類を越える薬がある。自分の症例に見合った薬と出遇うまでが一仕事である。腎不全も同じで関連疾患の薬品を入れると百どころのはなしでない。もっか痒みをやわらげる内服薬としてボララミンを処方してもらっているが、ひどく眠気を誘う。わたしは睡眠薬の類いは随分と服用してきたが、それらとは効用が異なる眠気である。降圧剤を飲んでいるので、相乗効果を起こしているのかもしれない。よって就寝前に服用している。


2010年11月19日

白と黒  | 一考   

 舌は5種類のセンサーしか持っていないが、鼻は358種類のセンサーを備えている。358種類は犬や豚ほどではないにせよ、猫よりは傑れている。
 その猫がマンションから消えて二箇月になる。一匹だけ生き残った子猫と駐車場で寄り添っていたのだが。今日、病院へ行こうとして向かえの大屋の家の塀で日向ぼっこしているのを見付けた。随分と久しぶりである。最小限の餌をもらっているのであろうか、大きさに変化はない。
 大屋の家には数匹の猫がいる。飼い猫ではなく、なんとなくたむろしていると云った風情である。その内、いちばん体躯の立派な白猫が父親である。こやつはわたしと相性がよろしくない。お産のあとの黒猫の餌をも奪おうとする、賤しい根性の持ち主である。よって何度かわたしに追いかけられている。深夜帰宅して車のまわりを徘徊していると、わたしは怪獣のような唸り声をあげる。其かあらぬか最近はわたしと顔を合わさない、そ知らぬ風でぷいと他所へ行く。一方、黒猫はわたしが害を及ぼさないのを知っているので、逃げ出しはしない。一匹、一匹が独立採算になっているようである。
 猫に限らないが、雄は図体がでかい。大きくて純白だから気持が悪い。猫のせいではないのだが、愛嬌は大事である。人であっても同じこと、愛想がよければいろいろと特をする。わたしのように貧相な老人になると損ばかりしている。
 大屋とはじめて話をした。当たりの柔らかい人柄で、猫のお産のはなしをした。増えて困っているとの内容だったが、少しも困っているようには思われなかった。勝手な憶測だが、蕎麦屋なので、日々残り物が出るのであろう、猫の餌には不自由していないようだった。わたしがかつて食事に困って犬や猫の餌を喰っていたとは云わずじまい、店子は口が腐っても貧乏とは云われない。あらぬ心配をかけるからである。
 それでなくても家賃は安い、以前の三分の一である。いとせめて猫の餌でも見繕ってこようかしら。

追記
 猫の盛りの季節がはじまった。いやな鳴き声が終日聞こえてくる。餌にピルでも入れてやろうか。


2010年11月17日

珈琲  | 一考   

 以前、山本六三さんについて書いていて、神戸の上島珈琲に触れた。当時の喫茶店はドリップ、サイフォン、パーコレーター、コーヒープレス、エスプレッソ等々、一軒の店で幾通りもの珈琲を飲ませる店があった。なかにはコンコードのようにパーコレーター専門の店から一杯一万円という会員制にしむらのウィンナコーヒー専門店まであった。パーコレーターで立てた珈琲は酸味が強いのであまり好みでなかったが、コンコードのトイレは洋式、1962・3年頃のはなしだから店舗としては神戸初でなかったかと思う。その証拠に客の大半は洋式トイレの使い方を知らず、馬蹄の上にしばしば足跡が残されていた。
 その頃、わたしは珈琲に凝っていてコーヒーミルを各種取り揃え、焙煎は上島珈琲にお願いしていた。コピ・ルアクを教わったのもその頃である。コピ・ルアクはわたしに云わせれば成金趣味の珈琲で、下賎な焙煎の濃い珈琲に凝っていた。コピ・ルアクは独得の香りを楽しむために浅煎りで頂戴する、その浅煎りが気に入らなかったのである。ダージリン・ウバやキームンなどの超高級ゴールデンティップスの淡い香りよりも、強烈な香りに惹かれる、若さゆえの特権にわたしも浸っていたのである。ミルクティーやミルクコーヒーなどは好事家の嗜むものとして却けていた、今思うに勿体ないはなしである。
 これはウィスキーについても云える。飲み始めはアイラモルトのような個性的なウィスキーに惹かれるが、やがてより複雑な香味を求めるようになる。ただ、十五、六歳の頃にコピ・ルアクを味わう機会を与えてくださった上島珈琲には感謝している。あの経験がなければ、後日日本酒の利き酒はできなかったと思う。ウィスキーの味見としてわたしはグラスに一ミリしか飲まないが、一ミリで香味の違いが分かるようになったのもコピ・ルアクのお陰と思っている。


ニセカンバ  | 一考   

 ダケカンバを北海道ではニセカンバとも云う。検索では出てこないが、かなり一般的に用いられている。北海道を旅していて何度か聞かされ、その都度確認したので間違いないだろう。念のために幹郎さんに訊ねたところ、やはり北海道の農学部の人が説明のなかで別称として用いていたらしい。ダケカンバはシラカンバ(白樺)より上層に育つと云われているが、ニセコでは群生している。奥志賀でも大台ヶ原でも、最近行ったところでは榛名山でもやはり群生していた。紅葉の季節には赤と黄と白の三色が鮮やかに乱れる。

 昨今、ウィスキーのカスクにはミズナラが多く用いられているが、青森の下北地方のヒバはどうなのだろうか。ヒバは油分の含有量が多く、水を弾くのでまな板をはじめとする調理道具ならびに風呂桶などに用いられる。水を弾く点に問題があるが、油分はフレンチオーク同様ウィスキーに複雑な香味を齎すのでないだろうか。熟成に時間はかかりそうだが、ミズナラも二十年はかかる。フレンチオークのように二年や三年ではどうにもなるまいが。


2010年11月15日

畸形  | 一考   

 腎臓は二十四時間機能している、それと比して人工透析は一日置きに四時間、生きてゆくにぎりぎりの腎臓代行である。当然、無理が生じる。透析後にクレアチニンは3.0から4.0の間にまで下がるが、透析前には7.0から8.0にまで跳ねあがる。8.0を越えればわたしの場合、ブラックアウトが待っている。次回は死と固く手を結んだブラックアウトである。
 他では、なんと云っても注射の後が痛い、ユーパッチという痛み止めを用いているが、針を刺すときの痛みがやわらぐだけである。針跡はやがて四、五センチの瘤に成育する。その瘤が腕中に拡がる、と云うよりも腕中が肉塊だらけになる、畸形の腕を防ぐ手立てはなさそうである。七、八本のテープ(絆創膏)で血が流れるチューブを腕に固定するのだが、テープ跡の肌荒れが手に負えない。さまざまなテープが用意されているのだが、わたしの肌に合うようなものはない。そして背中の痒みが止まらない。もっとも尿毒素による気の狂うような痒みではなく、孫の手で間に合う程度の痒みだが。困るのは背中に薬が塗られないこと、一人暮しだとなんでもないことに不自由を憶える。

 来週は骨密度の検査、さぞかし酷い結果が出るのだと覚悟している。九日のレントゲンの結果が出た。心胸率は3.9、血圧は98の57、僅かずつだが共に下がり続けている。それが理由なのだが、前述したようにドライウェイトを64.5キロへ1.5キロ増やすように指示された。透析患者にとって心胸率の上限は5.0だそうである、よって十分な余裕があるらしい。ドライウェイトが増えるとはいま少し水分を摂ってもよいと云うこと。一方で、蛋白をもう少し摂れと繰り返し云われている。透析前には蛋白を減らすために難儀した、それがある日突然増やせと云われても躊躇する。ただ、透析のおかげで食欲はある、すき焼きでも喰えばたちどころに体重は増えるのだが、それでは主旨が違うだろう。さて、体重は増やすべきなのか、それとも増やしても構わないとして、そのゆとりをこそ味わうべきなのか。


 | 一考   

 透析によって取り敢えずブラックアウトから解放された。小さな死が遠のき、平穏な日々が続く。最近は滅法涙脆くなった。ドキュメントを見たり、読書をしたり、医師や看護師との晤語など、何かにつけて涙が零れることが多くなった。益々以て「断稗断章」の世界へ沈潜、エンターテインメントが嫌になる。
 長い付き合いになるので、看護師とはできるだけ距離を置いている。わたしはこの種の距離の取り方がおそろしく稚拙で、過去において失敗ばかり繰り返してきた。もっとも成功とはいかような関係かとも思うが。
 透析患者のコミュニティーと聊かの関わりを持っているが、聞くと見るでは大違い。わたしが行く病院には患者の共同体意識などどこにもない。お疲れとかお先にと云った挨拶のみで、わたしは隣の患者の病名はおろか、名前すら存じ上げない。要するに会話がないから揉め事もなにも生じない。それが理由で血液検査やレントゲンの結果と睨めっこで、後は自分一人で判断するしかない。
 シャントを大切にと日々云われる。左手の手枕は禁止、左手を下にして寝ない、買い物袋などを腕に掛けない、左手で重いものを持たない等々、要は血流を妨げないことに留意させられている。静脈を動脈に改造したため、心臓にあらぬ負担が掛けられているそうな。寝ているときまで責任は取られないが、極力意識している。シャントに止まらず、医師の指示もしくは意見表明には素直に従っている。不必要に早死したくないからである。残された命をあるがままに全うしたいと思っている。全うと書けば誤解が生じる、すでに身心は共に十分いびつである。


2010年11月13日

自由  | 一考   

 このところ公務員の内部告発で囂しい、例の尖閣諸島の映像流出問題である。しかしながら内部告発がなされなかった時代、すなわち戦時中はどうだったのか。大本営の発表に異を唱えれば、まちがいなく国賊として処刑された時代である。仮に往時、今回のごとく心意気のある公務員が居れば戦争はより早く終わっていたに違いない。そのようなファッショな状況がよろしくないとするのが戦後教育の要でなかったのか、発言の自由を求めての紆余曲折が戦後の歴史そのものだった。私人であろうが、公務員であろうが、一切の発言は自由であるべきである。この場合、罪に問われるかどうかは問題にならない。法律などと云うものは時代によっていかようにも姿を変える。われわれが守らなければならないのは理念としての憲法のみであろう。
 核に関する日米の密約の存在を明らかにしたのは民主党でなかったか、国家に秘密があってはならないとするのが市民運動の原点でなければ何処に立ち帰ろうと云うのか。その民主党がこのところ国家機密の粗製濫造に励んでいるように見える。市民運動でのし上がってきた筈の菅、仙谷はなにを思い違いしているのか。剰え三権分立という民主主義の基本理念を民主党は踏み躙った、実態としての指揮権発動はその辺りの消息を物語っている。政治の素人が権力を手にすると、まるで権力の亡者と化すようである。権力そのもので叩かれながら育つ党人派との差違が如実に顕れたように思う。


雑居ビル  | 一考   

 開店時間がおそくなったので、閉店も相応に遅くなっている。ただし、事前に電話連絡が欲しい。基本的に暇なので十二時にお客がなければ帰宅するからである。今週は常連さんは一人のみ、他はことごとくが一見さんで遅がけの客だった。初手の客はありがたいのだが、当店はスコッチの専門店でと一から説明しなければならないのは些か疲れる。それにしても、小さな雑居ビルの三階へどうして一見さんがいらっしゃるのであろうか。
 帰宅時、この三、四日の気温は十二度。わたしの身体にはちょうど良い塩梅である。店は商売なので暖房を入れているが、往き来の車ならびに拙宅はまだ暖房を入れていない。清清しい日々である。駐車場までは休みなく歩かれるようになった。もっとも、追い越されるばかりで人を追い越すことはない。


2010年11月11日

狐臭  | 一考   

 狐臭と長く連れ添ってきた。過去形なのは腎臓を疾んでから新陳代謝が衰え、汗をまったくかかなくなったからである。従って、長年世話になった制汗剤の類いは不要になった。体臭がなくなるというのは不思議なもので、なにかのはずみにわたしは存在しているのだろうかと疑念が湧く。動物が写真や鏡に驚かないのとおなじで、臭いのないところに存在はない。
 人工透析をはじめたのが八月末、ほんの少し代謝が戻ってきた。その証拠に垢が出るようになった。うっすらと汗もかくようになった。平行してわずかながら体臭も感じられる。まるで存在が復してきたようである。年と共に体臭は薄れてゆくものだが、あまりに淡れるのは淋しい。流れる血と同じで、存在の数少ない証のひとつである。まだ用はないのだが、制汗剤を買ってきて飾っておこうと思う。いまだけだから。


ありがたうございます  | 高遠弘美   

お言葉、有り難く拝読いたしました。肝に銘じて、完訳を目指します。
どうか御身大切に。ただそれのみを祈るやうに願つてをります。


2010年11月10日

高遠弘美様  | 一考   

 貴重な翻訳書を頂戴しながら、無音に過ぎ行き恐縮致しております。とりわけプルーストの奥記にてストーリーを追うことの虚しきを語り、表現の部分部分に着目する、本読みの醍醐味を大胆に語られている箇所など、読んでいてぞくぞく致しました。卓れた読み手ならではの示唆に富んだ読書論として拝読させていただきました。
 近頃、鳥瞰図とか筋立てなど、わたしは意にも介さず、さりげない文章に罩められた筆者の吐息や搏動にのみ讃歎致しております。間違いなく、本邦初のプルースト訳に尽きることのない表現のそして文学の葛藤の極限を視る思いです。
 またお会いできる日を楽しみに。


2010年11月09日

お元気でせうか  | 高遠弘美   

一考さん。
ご無沙汰してをります。お元気でせうか。透析を始められたご様子も、お引越しのことも拝読いたしました。
今回お書きのご高文に深く納得いたしました。私もさう思ひます。頃日感じてゐたことをあまりに見事にお書きなので、つい書き込みました。
またお目にかかります。


内視鏡検査  | 一考   

 月曜日の内視鏡検査は朝の九時から四時まで掛かった。痛みがひどく、動かれるようになったのは夜の十時を回っていた。三度目の検査などで高を括っていたが、憩室が拡がっていて激痛を伴うものになった。ポリープはまだ癌化しておらず、除去を薦められたが、さして急ぐものでないと判断した。ただし、憩室は大腸の左右に均等に拡がり、手の施しようもない。その憩室に内視鏡の突端が引っ掛かるのである。看護師が二人付き添って下さったが、一人が医師の指示によってわたしの腹部を順次押さえ、もう一人はわたしの手を握りしめていた。こんなことでもなければ看護師との接触はないと思いつつ、彼女の手を強く握り返していたが、嬉しくて泣いていたのか、痛みで泣いていたのか定かならず。内視鏡は非常時以外ご免蒙りたいと思った。
 かつての憩室からの出血を執拗く訊かれ、二十一単位と応えたところ、医師は愕いていた。普通なら出血多量で死んでいたと。非常事態に陥ると、ひとは自らの生死の限界点が分かる。要するに身体の状態に応じて生への諦めが付くのである。死にそうとか死んでも良いなどと云う恣意的なものでなく、死んで行くんだなあと云った、ただただ受動的な感慨である。

 今日は心胸率のレントゲン。わたしの心胸率は4.1なので、体重を一キロほど増やせばどうかと云われる。摂取する水分が規定を越えているようである。小便が出ているあいだは酒を飲んでも構わないと云われたので、週二、三本ギネスビールを嗜んでいる。体重が増える理由のひとつだそうである。そして刺身が祟ってリンが増えてきたようである。少々控えるようにと勧告を受ける。酒にせよ、刺身にせよ、嗜好品に関して医師は止めろとは決して云わない。リンが増えていますねとか、カリウムが増えていますねと云うだけである。あとはそちらで判断しろと云うことらしい。もっともな意見表明である。

 拙宅のパソコンがネットに繋がらなくなった。最初からだが、光フレッツとは相性がよろしくない。おそらくケーブルだと思うのだが、別に繋がらなくてもどうと云うことではないので捨て置いている。従ってメールは店で確認している。


2010年11月05日

天邪鬼  | 一考   

 文化の日はゴールデン街へ、行った先で某出版社の漫画編輯者と会う。尾田栄一郎の「ONE PIECE」の累計発行部数は2億部を超え、最新刊の60巻は初刷340万部だそうである。500万部であろうが2000万部であろうが、わたしの知ったことではない。漫画であろうが小説であろうが、大衆受けするものに興味はない。少数者が選民意識のひとつなら、多数者も選民意識そのものであるに違いない。況や大衆の支持を受けているとの理由により、漱石や太宰の次を担う日本の文化そのものとは片腹痛い。漱石や太宰が代表選手たりうるかどうかすら疑問だが。
 ママとその編輯者は村上春樹の小説でも言い争いになっていたが、わたしに云わせれば、二葉あき子と安室奈美恵とどちらが好きかと大差ないはなしである。書物は嗜好品であって、好き嫌いが底辺にある以上、端からはなしは折り合わない。文章の美醜についても同様のことが云える。わたしは自分勝手に本を読み散らかし、勝手に評価し、勝手に納得している。よって、かかる話題を好まない。人前で信仰告白を披瀝するほど野暮ではない。
 編輯者であれ、書店員であれ、現役であれば作品の内容について意見を述べるのは避けるべきである。判断は読書人が個々になすべきことであって、編輯者や書店員がそれを口にすると押し売り(ファシズム)と受け取られかねない。「売れる本は良い本である」とは書店員が屡々口にする文言であるが、そこには懐疑精神がまったく見受けられない。漱石にしても詩精神がもっとも顕著に顕れているのは晩年の漢詩と思われるが、漢詩が340万部も売れることはあるまい。「売れる本は良い本である」が正しければ、「売れない本は悪い本」になる、では漱石はどうなるのか。
 人口に膾炙しない典籍をおそるおそる読書子に差し出すところに編輯者の、書店員の真骨頂がある。「売れる」との理由によって全国の書店が同じ書物を扱うようになれば、この世は闇となる。


2010年11月03日

風邪引き  | 一考   

 透析の度に2キロの水を除去している。ただし、除去できるのは血中水分であって、体内の水分は除去されない。まず、血中水分の除去はそのまま、血圧の低下を招く。わたしの場合、透析終了後の血圧は高い方で110から100、低い方は60から70の間である。体内の方は肺水腫のような浮腫が問題になる。従って、毎月定期的に心臓のレントゲンを撮っている。水分による心臓の肥大が透析患者の一番の死因である。慢性腎不全の不全は腎臓だけに止まらない。心臓、肺、前立腺の不全ならびに全身からの出血が止まりにくくなる。よって、合併症を患えば間違いなく命取りになる。医師によると感染症、特に風邪は危険で、一直線で心臓や肺をやられるようである。もっとも、客商売をしていると必ず風邪は移される。そのときの諦めは既についている。一考殺すに刃物はいらぬ、咳のひとつでご臨終。さて、わたしの鼻炎だが、こちらは一向に癒らない。


胆嚢検査  | 一考   

 月曜日は検査日だった。胆嚢のポリープは直径八ミリで問題なし。十ミリを超えると悪性となって癌化するらしい。以降、四箇月ごとの定期検査を命じられた。大腸の方だが年内は店を休みたくないので明年一月に手術することにした。従って年内は検査のみ、八日に内視鏡と病理学検査、結果が判明するのは二十二日である。八日(月曜日)は憩室の出血も確認するので麻酔を打つ、車に乗られなくなるので、もしかすると店は休みになるかもしれない。
 東葛クリニックは約一千人の透析患者を抱えている。その内の三人が大腸癌を患っている。わたしが四人目の患者である。手術中であれなんであれ人工透析は欠かせない、よって東葛クリニックですべてを処理することにした。入院設備を覗いたが知己の看護師がいる、少しは気が休まる。
 透析患者は敷布、毛布、タオル等々は自前である。自宅で余っていたものを持参していたが夏物である。今日具合のよさそうなものを購入、これで洗濯が可能になった。

 マンションの保温性と密閉生に驚かされている。このところの気温の変化が室内に居ると感じられない。室温は常に二十度を保っている。従って蒲団は薄い夏布団のまま。今年は暖かい冬を迎えられそうである。


祭日  | 一考   

 祭日ということを知らずに、店へ出てきた。折角だから営業するが、客は来るはずもない。

 ところで尖閣の次は北方領土で揉めている。第二次大戦の戦後処理問題で、北海道の分割を主張したスターリンに対し、ドイツの二の舞いを避けるべく、トルーマンは樺太に加えて北方四島をソ連邦に与える提案をした。千島列島の四島と北海道を天秤にかければ後者がよいに決まっている。前原はじめ、民主党のお歴々は狂いはじめたようである。それとも、札幌をベルリンのようにしたかったのか。
 ミクロネシア連邦は第一次世界大戦終結後の国際連盟決議にて大日本帝国の委任統治領となった。日本の敗戦後はアメリカによる国連信託統治を経て1986年独立に至ったが、住民の半数は日系人である。膨大な水産資源を狙って、こちらをこそ復帰させるべきでなかったのか。


2010年11月02日

とりとめもなく  | 一考   

 山本六三さんの夢をよくみる、そして広政かをるさんの夢も。広政はわたしにとっては天敵のような存在だったが、あれほど個性的な女性も珍しかろう。個性的な女性にわたしは五度出遇っている。最初が広政で、二度目が多田智満子さん、三度目が矢川澄子さんである。あとはご存命なのでここでは触れない。わたしは女性の意見はあまり聞かないが、才学顕著な方の意見はその限りにあらず、黙して拝聴する。
 一九六五年三月、「市バスの中で山本六三と思しき人に声を掛け、その夜、阪神御影の山本宅を訪れる。以降、山本宅での火曜会に欠かさず参加。山本六三夫人は広政かをる、後の生田耕作夫人」と日瀝に記されている。わたしは十八歳、おそろしく情緒不安定な頃の出来事だった。情緒不安定と書いたのは往時自殺の真似事をいくどとなく繰り返していたからである。要するに典型的な自閉症児だった。

 後年、広政がサバト館を営むになんらの問題はなかったが、わたしなら生田耕作の御用出版社にはしなかった。サバト館設立に関してはいずれ書くことになるだろうが、人文書院の元編輯長谷誠二さんの世話になるところが大きかった。谷さんと山本六三とわたしが中心になったのだが、書物を拵えた経験があったのは谷さんのみ。印刷会社から用紙の手配までことごとく谷さんの手を煩わせた。
 広政は花田流弁証法を武器に持つ実証主義的な人で、常に観念論を嘲笑っていた。わたしの云う経験が体験として広政に伝わらなかったところが問題で、そこさえうまく処理できれば喧嘩にはならなかったと思う。もっとも、年少者の云う経験なんぞ、年長者特に女性にかかれば赤子のそれであって、太刀打ちできようはずもなかった。それでなくとも、彼女はアイロニーの達人で、徹底した皮肉屋だった。皮肉が他人に発せられる分には愉快なのだが、自分にだと骨身にこたえる。しかも鋭い非難が間断なく投げかけられた日には逃げ出したくなる。プラトンの「対話篇」におけるソクラテスの態度に日常晒されているようなものである。
 彼女のような女性は福原などではよく見受けられるのだが、決定的に異なるのは水商売の女性が抱くリリシズムの欠如であろうか。広政にリリカルな部分がなかったと云っているのではない、そう云ってしまうには、彼女の好奇心ないしは芯の強さが際立っていたのである。山本六三と別れてから生田と出遇うまでの数年のあいだに彼女は自殺未遂を経験している。おそらく、彼女がもっとも不安定な状況にあったと思う。生田を紹介したのはわたしだが、結果、生田とわたしの関係もおかしくなるであろうことは最初から予測できた。予測できたにもかかわらず、紹介せざるを得ない退引きならないものを当時の彼女から感じ取っていたのである。わたしとは相性が合わなかったが、山本や生田にとって広政は眷恋として棄つるに忍びざる処だったに違いない。素晴らしく個性的であるにせよ、反目しあうような関係というものもある。
 山本六三については何度か当掲示板で書いている。奥歯にものが挟まったような文章だが、その後関係者は亡くなり憚るところはなくなった。つまりなにを書こうと構わなくなったわけだが、そうなるとそうなったで書くことが多すぎて雲散霧消する。きっとわたしの余生は彼との遣り取りを擬えることに費やされる。十八から二十三までの五年間にわたしは人生への思いの過多を置き忘れて来たのである。


2010年11月01日

ビール  | 一考   

 かつて二度ほど限定頒布されたサントリーのプレミアムモルト黒ビールが売られている。ギネスより25円安い。わたしはビールはアイルランドかイングランドに限ると思っている。特にマンチェスターのバディントンとアイルランドのキルケニー(今ではギネス社)は好きである。他ではギネスの黒とドイツのビットブルガーである。国産のビールはアサヒのスーパードライのようにコクがまったく感じられないか、キリンの黒ビールのように雑味が多く酸味が強いか、いずれにせよ評価しない。
 サントリーの黒ビールだが、国産特有の酸味が少ない。ギネスのそれとは比較のしようもないが、国産では間違いなく旨い。どうやら焙煎に秘密がありそうである。黒ビールで飲まれるのはサントリーとサッポロのみ、アサヒとキリンはビールに関してはお粗末極まりない、とわたしは思う。

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