「嗜み」が上梓された。発売は文藝春秋、定価は800円。カラー六頁を割いての紹介である。送られてきたのは一昨日だが、三月二十日に発売されたようである。ちなみに、ジュンク池袋店には二十部入ってもっかのところ三部売れたらしい。
ああ、これは十四歳の不良だな、と考える。中学の上級生になって、ナイフなどを懐に入れて、粋がっている。まだ、世の中の怖さを知らない。一匹狼だが、喧嘩の仕方を知らない。春の漁港の突堤の上で、あぐらをかいて、睨みをきかせている。
そんな風景を想像する。こいつがもう少し樽のなかで寝ていたら、どんなふうになるのか。
それから数年経った、同じ蒸留所のボトルと飲み比べる。ゆるやかに熟成されていて、味のコントロールもいい。スモーキーさは少し薄れているが、飲み干したあと、香りの余韻が上がってくる。こいつは優等生だな、と思う。しかし、なんとなく儚い。樽の種類も蒸留した年度も違うのだが、勝手にさきほどのボトルと比べて想像する。
白い夏の光りが見えてくる。十六歳の夏休み。少年が帽子を被り、田舎道を歩いていく。そのとき、突然、優等生を続けるのはもうやめようか、と思った。もっと好きなことをやりたい。蝉の声がジンジン響いて、初めての自由を覚える。海の匂いが吹きつけてくる。将来は何になるのか、まだわからない。
モルト・ウィスキーを描いて佐々木幹郎さんの筆致は見事である。さらに裏の、別の意味が焚き込められている。詩人はこうでなければならない。それは私であり、あなたであり、誰かであり、そして個々の読者でなければならない。かかる恩愛を持ってモルト・ウィスキーを語ったひとが過去に幾人居ただろうか。耕衣のいう「出会いの絶景」がここにもある。
詩の言葉が、小説と違って万人の好む味や香りに仕立てることができないように、シングルモルトも万人向けではない。好きな者が好きな味と香りを愉しむ。
一つの樽から生まれるボトルの数が少ないから、飲み干してしまえば、この世から永久になくなる。同じものは二度と作ることができない。この、消え失せるという感覚が、また、いい。
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シングル・モルトを飲んでいると、生きていてよかった、と思うことがしばしばある。いまここにいる手触りだけが確かなとき、酔いは、美しい本のなかの美しい言葉と同じように、グラスの内側で悦楽の極みになる。
「いまここにいる手触りだけが確かなとき」いい言葉である。その手触りを求めて、否、手触りの確かさを探して、ひとは老い、朽ち果ててゆく。そうではあるまい、やはり翻訳は不可能である。「いまここにいる」という抽象が、「手触り」という具象に恋慕する。慥かなのは手触りだけ。「手触りだけが確かなとき」その手触りを感じているひとはおそらく生きてはいまい。存在しているのか、存在していないのか、透き徹ってしまった存在が、「白い夏の光り」の間を通り過ぎてゆく。
幹郎さん、ありがとう。私が聞きたい言葉は「生きていてよかった」、ただそれだけ。