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とりとめもなく   一考   

 

 山本六三さんの夢をよくみる、そして広政かをるさんの夢も。広政はわたしにとっては天敵のような存在だったが、あれほど個性的な女性も珍しかろう。個性的な女性にわたしは五度出遇っている。最初が広政で、二度目が多田智満子さん、三度目が矢川澄子さんである。あとはご存命なのでここでは触れない。わたしは女性の意見はあまり聞かないが、才学顕著な方の意見はその限りにあらず、黙して拝聴する。
 一九六五年三月、「市バスの中で山本六三と思しき人に声を掛け、その夜、阪神御影の山本宅を訪れる。以降、山本宅での火曜会に欠かさず参加。山本六三夫人は広政かをる、後の生田耕作夫人」と日瀝に記されている。わたしは十八歳、おそろしく情緒不安定な頃の出来事だった。情緒不安定と書いたのは往時自殺の真似事をいくどとなく繰り返していたからである。要するに典型的な自閉症児だった。

 後年、広政がサバト館を営むになんらの問題はなかったが、わたしなら生田耕作の御用出版社にはしなかった。サバト館設立に関してはいずれ書くことになるだろうが、人文書院の元編輯長谷誠二さんの世話になるところが大きかった。谷さんと山本六三とわたしが中心になったのだが、書物を拵えた経験があったのは谷さんのみ。印刷会社から用紙の手配までことごとく谷さんの手を煩わせた。
 広政は花田流弁証法を武器に持つ実証主義的な人で、常に観念論を嘲笑っていた。わたしの云う経験が体験として広政に伝わらなかったところが問題で、そこさえうまく処理できれば喧嘩にはならなかったと思う。もっとも、年少者の云う経験なんぞ、年長者特に女性にかかれば赤子のそれであって、太刀打ちできようはずもなかった。それでなくとも、彼女はアイロニーの達人で、徹底した皮肉屋だった。皮肉が他人に発せられる分には愉快なのだが、自分にだと骨身にこたえる。しかも鋭い非難が間断なく投げかけられた日には逃げ出したくなる。プラトンの「対話篇」におけるソクラテスの態度に日常晒されているようなものである。
 彼女のような女性は福原などではよく見受けられるのだが、決定的に異なるのは水商売の女性が抱くリリシズムの欠如であろうか。広政にリリカルな部分がなかったと云っているのではない、そう云ってしまうには、彼女の好奇心ないしは芯の強さが際立っていたのである。山本六三と別れてから生田と出遇うまでの数年のあいだに彼女は自殺未遂を経験している。おそらく、彼女がもっとも不安定な状況にあったと思う。生田を紹介したのはわたしだが、結果、生田とわたしの関係もおかしくなるであろうことは最初から予測できた。予測できたにもかかわらず、紹介せざるを得ない退引きならないものを当時の彼女から感じ取っていたのである。わたしとは相性が合わなかったが、山本や生田にとって広政は眷恋として棄つるに忍びざる処だったに違いない。素晴らしく個性的であるにせよ、反目しあうような関係というものもある。
 山本六三については何度か当掲示板で書いている。奥歯にものが挟まったような文章だが、その後関係者は亡くなり憚るところはなくなった。つまりなにを書こうと構わなくなったわけだが、そうなるとそうなったで書くことが多すぎて雲散霧消する。きっとわたしの余生は彼との遣り取りを擬えることに費やされる。十八から二十三までの五年間にわたしは人生への思いの過多を置き忘れて来たのである。


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2010年11月02日 22:42に投稿された記事のページです。

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