高麗苑の高野さん来店、彼とは旧い付き合いである。1982年から85年に東京中野新橋へ転居するまでの4年間、わたしは太寺3丁目に住んでいた。いま調べてみると、井筒典久さんの家と道を隔てて100メートルも離れていない。30代半ばのことである。
往時、明石駅へ行くに東仲ノ町商店街を歩いていた。その中程に高麗苑があった。長田の婆さんが造っているどぶろくを飲みながら、金がなくて何時も決まっててっちゃんを食べていたのを思い起こす。行く度に、同じく一人前のてっちゃんを大事そうに食べている客がいて親しくなった。どちらも儲からない客だったが、高野さんは嫌な顔ひとつせず接してくださった。高野さんから聞いたのだが、客すなわち岡本書店の息子さんはフェリーから身投げして亡くなられたそうな。神経質だが、どこかしら人懐っこさを覚えさせる素敵な青年だった。彼と酌み交わしたどぶの甘酸っぱい味は忘れまい。
後年、赤坂でですぺらをはじめた時、NTTの木村さんが焼き肉を所望された。あの折の焼き肉は高麗苑から取り寄せたものである。全国焼肉協会の寄り合いがある度に高野さんはですぺらへいらっしゃる。面倒のかけっぱなしで気がひけて開店の挨拶にも行かれなかった。高野さんがですぺらを見付けたのはまったくの偶然である。肝臓を悪くして2箇月ほど入院なさったとか、随分と痩せていたので瞬時どなたか分からなかった。
一考さんも随分と髪が薄くなってと高野さん。昔はダンディだったのに、と。彼はわたしより6歳下だが、老いというものは等し並みに訪れる。わたしはこの等し並みとの言葉が好きである。そこには差別がないからである。彼は在日ゆえ、謂われのない差別と闘ってきた。だからこそ、わたしは彼と親しくなり、家族付き合いもしてきた。二人して抱き合って再会を喜んだのは云うまでもない、生きていてよかったねと。