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差別と伝統   一考   

 

 このところ相撲において女性を土俵に上げるか否かでもめている。神道の権化のようなファッショな親方が平の年寄りになって少しはましになるかと思いきや、今度は伝統の権化が現れた。能であれ、歌舞伎であれ、宝塚であれ、伝統などという文言を持ち出すべきは部外者の評論家であって、当の本人または関係者が言い出した日には権威主義にしかならない。
 柔道、剣道、空手道、相撲道など、道を誇示するところがそもそもいかがわしい。身体の鍛練なら理解できるが、心の鍛錬とはなんなのか、説明できるものなら中身についてお訊きしたいものである。「心身を鍛錬し人間形成を目指す」などという抽象的にして出鱈目かつ能転気な心構えで若者の純朴な精神を穢していくのはただちに止めていただきたいと思っている。

 伝統とは現在ある者が過去を忖度し推し量って拵えるところの謂であって、過去に存在したものではない。見てきたような嘘をつきとは正にこのことであろう。生活に即したものこそ伝統というに相応しく、乖離したところに伝統は存在しない。天照大御神という女神を最高神に頂くわが国は元々女系家族であって、時にアメノウズメのように明るく自由で大胆に行動し、大らかにものごとを育む優しさや包容力を大切にしてきた。男尊女卑なる概念は明治からこちらの国家主義によって生み出されたものである。それよりなにより、世の中の仕組みを男と女の二項対立で計られると思うこと自体が差別的である。

 武士道の思想的な核心について西部邁はかく述べている。

「自死」を生における企投(きとう)のプログラムに組み込まないなら、生そのものがニヒリズムの温床となる。そのことは山本常朝の『葉隠』においてすでに指摘されていた。武士道の思想的な核心は、自死を生の展望のなかに包摂(ほうせつ)することによってニヒリズムの根を絶とうとするところにある。「人間的条件の限界内にとどまることを敵視する(神学的な)形而上学から脱け出し、人間的な“より善く”の探究を(宗教的な)至高善の名において誹謗(ひぼう)するあの不幸な意識を一掃し、死そのものをではなく死ぬことを定められたすべてのものを虚無だと言い捨てるニヒリズムの遺恨の根を枯(か)らすこと」(モーリス・パンゲ)、それが自死の選択である。——西部邁 『虚無の構造』 中公文庫、129頁。

 もっとも、彼のいう自死が他人を捲き込まなければ完遂できないものであるなら、わたしはいっそニヒリズムを意企したまま朽ち果てたいと思っている。


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2018年04月25日 04:24に投稿された記事のページです。

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