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正月早々、正月を葬ってしまう過激な野辺送りが通り過ぎてゆく、「ジャコメッティの彫像のように」。鈴木創士さんは素晴らしい贈り物を拵える。まさに宛先のない小包である。
「記憶の光のなかでは、鏡の表面に映っているものは全部が嘘だったような気がしてくるなどということは、ほとんどすべてが本当のことだったということだ。これが別種の(そうとしか言いようがない)光のなかにあったはずの物の特性である。人は消滅の数を数えたりはしない。消滅というのは蝋燭の火を吹き消すようにはいかないもので、振り返ったとたんに鏡のなかの自分が掻き消えていたりもする。暗闇にいても日なたにいても同じことである。嘘つけと言ったとたんに、口が腐ったりするのだ。
しかしグレコの絵には光源がないのではないかと思わせるものがある。光はどこからも射していないし、物体や身体の内側に光源があるとしか考えられない。でもそれも後光のように人の内側から光が放射しているというのでもない。光があって、光源がない。だから例えば「トレドの眺め」の山の上の不思議な街並みは、色彩を故意に消してしまうと、月世界のように見えたりする。そこに突然、一羽の鳥が墜落する。外と内に。同時に。出来事とはそういうものである。「というのは結局のところ光は天空のなかにはもはやない。光は何よりもまず一種の原因(カウサ)に由来し、いかなる光源もそれをつくりだすことはできない」(シェフェール)からである。」」
彼の今回のタイトルは「正月の葬式」。もっとも、彼にとっては正月であろうがなかろうが、どうでも良いことなのだが。鏡と記憶、鏡と光、鏡と物質、そのような二項対立が二項対立になり得ない儚さ、危うさ。消滅にかくまでこだわった文章を面と向かって書き表す。個であってすら躊躇しない存在の失意。このような文章を著す詩人と面識があるというだけでわたしは無性に悲しくなってくる。