わたしが子供の頃、巷は白衣と白色の繃帯で満ち溢れていた。大方は満州帰りの傷痍軍人で、腕のないひと、脚のないひと、失明したひとなどがいた。いまのように車椅子のない時代で、みなさん松葉杖(すら少なかった)の世話になっていた。なかには輪っかの付いた30センチ四方の板切れに正座しているひともい、よく見ると両脚とも膝から下がない、おそらく手榴弾か地雷による被害であろうか。新開地本通りや地下道、または縁日などにはそのようなひとが喜捨を求めて並んでいた。
次いで純白で思い出すのが新開地に隣接する福原町、ピー屋の玄関で客引きをする遣手(やりて)と称する婆である。ピー屋のピーとは中国語での売春婦の蔑称、ピー屋とは中国における慰安所のこと。兵隊帰りの連中は女郎屋をピー屋と呼称していたのである。また、行き場のない年季明けの遊女は番頭新造として花魁の雑用をするか、遣手として遊女の監視・管理係もしくは客引きとなるのが常だった。梅毒の第二期から第三期症状になるとゴム腫が崩れ、瘢痕となる、それを「鼻が落ちる」すなわち「花落ちる病」と表現した。
遣手はその疵を匿すために露出した素肌(両腕と首)を繃帯でぐるぐる巻きにし、小さな椅子に腰掛けていた。子供ながらに「人生のさすらい」の薄情さと痛々しさを見詰めていたのである。
性と性病とはコインの裏表で切り離しては考えられない。売春防止法の前後で女郎屋は浮世風呂へと職業の形態こそ変われ、実態はなにひとつ変わっていない。かつて遊郭では一箇月を経ずして花柳病に罹ったと云われる。そして罹れば一人前として内祝いをしたと云われる。花柳病とは梅毒、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、鼠径リンパ肉芽腫、この四つのいずれかであった。今ではHIV感染症が加わり、さらに耐性菌の蔓延によって淋病がもっとも難儀な病になった。
(写真は女郎屋の洗浄室)