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性と政治について   一考   

 

 アンドレア・リタ・ドウォーキンが亡くなったのは2005年4月。「ポルノグラフィ―女を所有する男達」で「結婚とはレイプを正当化する制度。レイプは本来、婦女を無理矢理連れ去るという意味だが、連れ去って捕虜にすると結婚になる。 結婚とは捕虜である状態の拡大延長。略奪者による使用のみならず所有を意味する」と述べている。
 男性と女性の関係はすべて性関係であり、その性関係はすべて性差別である、との信念に則って、彼女の「強姦一元論」(すべての性行為は強姦である)は展開される。吉澤夏子さんはドウォーキンの信念を「極端にいえば、誰かを女だと見なした瞬間、それはすでに相手に合意のない性関係を強いていることになり、それこそが性差別だ」と著し、「ドウォーキンを読むことの醍醐味は、この鮮やかな世界観の反転を体験・感受するということのうちにある」と結論する。ドウォーキンが引き継いだ「性と政治」の論理はSMの世界や同性愛の世界にもそのまま通じる。彼等、彼女たちはマイノリティであるが故に、日々、否応もなくポリティカルな場に裸で抛り出されている。
 イギリスで客死したシモーヌ・ヴェーユはホメロスの叙事詩を「敵に対する侮蔑の不在」と論じた、否、論じざるを得なかった。それほどまでに、第1次世界大戦以降の争いは汚濁に満ちたものになった。ジュネやギュヨタが、人身売買、売春、奴隷といった戦争と性の関係を執拗に書き綴ったのも、「性と政治」の問題、売春という黒い穴をいまいちど穿ち直そうとしたのでなかったか。
 家庭と娼窟と戦場では強姦と奴隷性が合法的に演じられ行使される。その偽善と暴力を問い、個人のなかに潜む政治性を告発しつづけるピエール・ギュヨタの文学は人間性に対する根元的な侵犯行為そのものではなかったかと思う。人間の身体は人間の欲望によって使用される。謂わば人間の身体は生きた貨幣のようなものなのである。それを諾わなければ、性愛の可能性について思惟することはできない。
 東京でお会いした折、ギュヨタはジルベール・レリーのサドに関するエッセイ並びにベンヤミンの「単なる性」から大きな影響を受けたと仰っていたが、ベンヤミンはクラウスを援用する。「性の交わりと金銭の交換が交錯しているということによって、またその交錯の仕方によってはじめて、売春の性格ができあがるのだ。売春がひとつの自然現象であるとすれば、それは、金銭の交換という経済の自然的側面からも、また性の自然的な側面からも、まったく同様にそうだといえる。「売春を軽蔑するだって?〳娼婦は泥棒よりたちが悪いだって?〳学んでほしい、愛は報酬を受け取るだけではない〳報酬が愛を与えることもあるのだ!」この二義性、二重の自然性となって現れた二重の本姓が、売春をデーモン的なものとする」
 ドウォーキンが「強姦一元論」で定義づけた絶望の果てにやってくる価値観や世界観の顛倒に一縷の望みを託したように、「50万人の兵士の墓」もまた、政治と性の領域を縦横に跳び回る。そして第七章はあまりにも悲しい。言い換えれば、美しい言語を巧みに操るところに文学があるのではなく、「文学とのかかわり方を根底から検証しなおすことを余儀なくさせる」ところにこそ美がある。


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2018年05月10日 11:38に投稿された記事のページです。

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