今日は帰宅が4時になった。南西にオリオン座が美しく凍てついている。遅くなったとき、帰路で会うのは新聞配達に出掛けるバイクのみ。こちらも重装備だが、連中はゴム引きの防寒具を着ている。聞くところによると、「ぬくさに首ったけ」シリーズが有効なようである。ただし、値が高くてわたしにはかなわない。幾重にも着て寒さ対策をなさる方がいるが、ほとんど変わらない。わたしは夏物の半袖シャツとワイシャツ、ユニクロのウルトラライトダウンジャケットと防水ジャケットである。下はスパッツにGパン、手袋はハンドルカバーをしているので薄手のインナーを用いている。
オーバーズボンを探していたが、ヤフオクで安いものが見付かった。その古着屋の住所が上越市東本町だった。かつての高田市、わたしの田舎である。店主からメールあり、
「北城町3町目は自宅から歩いて5分位です。昔は中島田んぼがあり、その向こうが北城町でしたが、今はその田んぼがすべて団地になりその団地もこちらの住んでいる東本町も高齢者世帯が多くなりました。
ここ上越市もドウナツ現象で農地がどんどん団地に変わり郊外に住む方が増えていますが人口はどんどん減ってきています。駅周辺の商店街(高田銀座と称した本町)は人通りがほとんどない状態です。住宅の空き家がたくさん目立ってきました。
雪は40~50cm位積もりました。私の住んでいるところは道路に消雪パイプが入っていますので、交通が止まることはありませんが、一斉雪おろしになると、3日間位交通止めになり、ダンプで排雪致します。火事になると大変ですので、裏に火防道路があります。(こちらも消雪がはいいています。)毎年のことですが、春が来るのが、待ち遠しいですね。」
文中、北城町3町目とあるのはわたしの父親の生家、駅周辺の商店街と書かれているのは高田銀座と称した本町である。
高田のはなしを久しぶりに聞き、嬉しくなった。かつては見渡す限り田んぼだった。水道管を組んで手製の迫撃砲を造り、田んぼ目掛けて発射しては悦んでいた。小学生の頃、バスの停車場はあったが、手さえ挙げればどこででも乗降可能だった。嬢が乗っている発射オーライのバスである。父親の長兄が高田唯一のいづも屋百貨店を営んでい、屋上遊園地や映画館を併設した店舗は高田の中心的な存在として大いに賑わった。10円玉を入れると5分間覗ける双眼鏡が屋上に据えられたときは神戸からわざわざ観に行ったものである。
播磨姫路藩第4代藩主であり、越後高田藩初代藩主になった榊原政純の臣下として城代家老を拝命し、勝海舟の秘書を務めた先代の末裔である。百万ドルの三ノ宮店には神戸初の自動ドアを付けたり、須磨パークホテルにはこれまた神戸初の温水プールやボーリング場(わずか1レーンだったが)を設けるなど、なんでもかんでも初物が好みの血筋だった。わたしは本籍地を明石へ移した。しかし、高田のことを忘れることはない。