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ライシテ   一考   

 

 何度も書いてきたことだが、フランスはフランス革命以降、クレリカリズム(教権主義)と闘い、現在の世俗主義すなわち政教分離を手に入れてきた。詳しくはライシテを検索していただきたいが、この政教分離原則は戦後の日本国憲法と同じである。
 ただし、わが国には靖国神社との例外がある。政治と靖国神社の関係については、福岡高裁(平成4年2月28日)判決は公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとし、大阪高裁(平成4年7月30日)判決は公式参拝自体は違憲の疑いが強いとしている。

 1989年秋、パリ近郊クレイユ市の中学校で、スカーフ(ヒジャブ)着用のイスラム系女生徒2人が教師によって教室への入室を禁止された。2010年、公共空間でブルカ等の着用を禁止する「ブルカ禁止法」が国民議会(下院)で可決。下って2015年1月、イスラーム過激派によるシャルリー・エブド襲撃事件が発生。同11月、パリ同時多発テロ事件発生。
 中東からの移民増加とその文化的軋轢が表面化した1990年代以降、フランスの世俗主義とイスラーム教徒とのあいだの掛け違い(誤解)はいずれ過激派のテロと云う形で爆発するのは時間の問題だった。掛け違いと書いたのは、フランスにとっては教権と戦って得た世俗主義であり、それを譲るわけにはゆかない。一方、イスラーム教徒の目には宗教的差別としか映らない。この種の誤解は解かれない、宗教そのものに対する立ち位置がまるで異なるからである。イスラーム共同体について再三触れた理由はそこにある。ものの考え方がぶつかり合っているわけで、解決策などどこにもない。

 フランスは謂わば個の集合体としての国家であって、世俗主義は徹底している。そこに宗教が介在する余地はないのである。言い換えれば、フランスが一種のアッサンブラージュであるのに対して、イスラームは国家というよりは、宗教団体としてのストレートな色調が濃厚なのである。
 イスラーム教徒をムスリムというが、ムスリムは「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味する。そして、ムスリムは宗教的概念であると同時に民族的概念でもある。日本人のキリスト教徒や、アメリカ人の仏教徒が別の民族として扱われることはない。例え、信じる宗教が異なっても。同じ民族として同化しているからである。ところが、イスラーム教徒は同化しない、イスラーム教徒は世界のどこにいても一義的にイスラーム教徒である。どこの国に住んでいようが、まず、イスラームという民族なのである。イスラームが他の世界と軋轢を生むのは当然なのである。マスコミは貧富の差だとか差別だとか囂しいが、的をはずしている。

 ムスリムは信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。そして熱いひとたちである。この熱は、終戦の日をはじめ、2013年の例大祭に集団参拝している衆参168議員も共有している。昨今、一部日本人の右傾化が顕著だが、その実状は彼等が忌嫌う中華思想に代表されるエスノセントリズムそのものでないだろうか。エスノセントリズムの排他とイスラームの過剰なまでの自意識には共通するなにかがある。政教分離原則が必要なのはイスラームだけではない、日本人にこそ必要なのかもしれない。


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2015年11月18日 14:53に投稿された記事のページです。

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