かつて、イスラーム国の唱える「グローバル・ジハード」に関する池内恵さんの文章を紹介した。「イスラム教徒は、自らが神と一対一の関係で結ばれており、一人一人が神の命令に従って義務を果たす責任を負っていると考える。つまり、世界のどこにいても、国家や民族を超えた一つのイスラム共同体に帰属している、という意識がある。そこから、たとえ他国にあっても、異教徒に支配された国があれば、自ら戦いに赴いてジハード(聖戦)で解放する義務がある」との考えである。
グローバルが附く附かないに関わりなく、宗教の世界にあってジハードは続く。
イスラームと書かずに宗教の世界と書いたのは、異教徒といった排他性はどのような宗教であろうと内包しているからである。排他性は宗教という共同体のもっとも基本的な概念のひとつでないだろうか。
ヨーロッパ中世の宗教戦争の惨禍や、ルネサンスの熾烈な思想闘争を経て現在のヨーロッパがある。一方に、近代自由主義の洗礼を受けていない宗教がある、イスラームである。
コーラン(クルアーン)のなかの異教徒への抑圧や個人の権利を侵害しかねない特定の章句、排他性、残虐性、暴力的な側面等々は欧米人には到底受け容れ難いものである。今回のフランスでのテロは宗教改革を済ませた国と済ませていない国とのあいだでいずれ起こるであろう闘いがはじまったのである。今後、フランスでの争いは激しさを増すに違いない。
根っこはエーリヒ・フロムの云う「自由からの逃走」である。自ら判断する自由を捨ててナチスドイツの台頭を許した人々の心理を分析したのがフロムだが、この消息はナチスにとどまらない。関東軍の暴走を支持し、南京虐殺を花火を揚げて祝したわが国の大衆のごとく、またオーム真理教のごとく、自ら考えることを止め、なにかしら権威あるものに縋り従おうとする人々はいつでもどこにでもいる。過激思想乃至絶対への冀求はイスラーム教徒の専売特許ではない。
思うに、人間の歴史とは個と大衆との鬩ぎ合いでないだろうか。ひとは何時になればアイデンティティや共同体といった概念から解放されるのだろうか。解体を繰り返して自由に辿り着き、その自由から逃走しなくて済むひとたちであれば、ホームグロウンもローンウルフも生れないのだが。