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おもいで   一考   

 

 ジリオラ・チンクエッティとわたしは同い年である。60年代はわたしはなにをしていたのかと記憶を辿る。61年には料理の師角田哲夫と知り合っている、わたしは14歳。同年10月荒田町1丁目の下中栄子を知る、バンビの主とも云うべき彼女に連れられて三宮のジャズ喫茶バンビへ入浸る。63年12月、親しくしていた福原の中村美容院の跡地に割烹「赤坂」開店、以降25歳に至るまでわたしの労働の拠点となった。この年、チンクエッティはサンレモ音楽祭で夢みる想い (non ho l'età) を歌い優勝。64年、百万弗や赤坂と同系列のバー三宮レンガ筋の「シャトレ」開店、エレクトーン奏者当麻宗宏と出会う。世捨て人のような独特の生活スタイルを持つ同性愛者で天下茶屋の四面を天鵞絨に囲われた部屋に住んでいた。彼の影響で大阪のゲイバーにて睡眠薬を常用しはじめる。65年4月、山本六三と知遇を得る。68年10月、大月雄二郎の紹介にて生田耕作と会い、その後、多田智満子、矢川澄子、種村季弘、川田絢音、桑原茂夫、西奥武良などと知り合う。わたしは21歳になっていた。
 わたしは常に友を探し求めてきた。当麻宗宏、山本六三、生田耕作、延いては横須賀功光に至るまで、わたしは常に解体を繰り返してきた。解体を恋愛と言い換えてもなんら問題は生じない、ほぼ同一のものである。わたしは精神の寄生虫のような存在であって、確たる自己というものを疾うに見失ってしまっている。否、はじめからなかったと云うのが正しい。その抑圧が眷恋との形に化けたと思っている。
 ああでもない、こうでもないと、常に揺れ動いてい、その揺れそのものがわたしだと云っていえなくもない。よって、生きる途上で行動様式や精神的エネルギーの対象が固定したひとを見るとなんとなく嫌になる。精神分析学でいう固着を連想するのである。もっとも、固着にはさまざまな意味合いがあって、例えば、欲求不満の固まりのようなもの、抑圧された感情の墓場のようなものとも云える。この抑圧も使い方ひとつでどうにでもなる。抑圧は自己主張の固まりなので、墓場に埋めておけばともかく、解放するととんでもないことになってしまう。日陰者だった抑圧が正装に身を包み闊歩しはじめるのである。しかもその闊歩自体が新たな抑圧を生んでゆく。過去を引き摺って生きている以上、悲しみや恨みだけでなく、楽しさや満足感もまた抑圧になる。そうした抑圧の二面性を上手く利用しながら、ひとは生きて行くしかないのである。


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2017年05月17日 19:44に投稿された記事のページです。

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