選択が立場の闡明になると昔から良くいわれる。趣味人が趣味をより高尚なものに見せようとして宣う言葉である。もしくは翻訳者が自らの翻訳を創作と同水準のものと見做すための方便として用いられる。
わたしも屡々遣ったが、いまでは反吐が出る。立場の闡明になろうがなるまいが、そもそも選択なる概念がいかがわしいし、立場なんぞ闡明にする必要なんぞあるのかしら。言い換えれば、闡明にしなければならない立場なんぞこの世に中にあるのかしら。第一に、道理や意義は曖昧なところ、芯のないところに面白味があるのであって、常に揺れ動いている。
実存主義で云うアンガージュマン(意志的実践的参加)における個と全体との抗いながらの関係ならまだしも、その抗い即ち震えや痙攣を欠いた、著しく受け身の参加なんぞ、右の雪洞と左の雪洞のどちらが良いかといった類いの情趣に過ぎない。