今月の5日、腸炎のさなか、70歳を迎えた。わが国で誕生日を祝うのは満1歳の初誕生日に限られ、それ以外に年々の誕生日を祝う風習は日本になかった。少なくとも、わたしにとって誕生日とは代謝の衰えの記録以外のなにものでもない。そのようなものを祝うSNSのさだめが理解できない。また、足跡を残されたからには無視できない、当方も訪ねるしかない。なんともはや煩雑なことよ。
その点、ですぺら掲示板は自由でよい。一日3千件以上のリクエスト(実数は200ほどだが、そのようなことはどうでもよい)があるが、勝手に訪ねて勝手に去って行く、誰が何時、何をしに来たのか、雲をもつかむはなしである。もっとも、検索項目を調べれば、ある程度の方向性は見えてくる。そしてその方向性をわたしは大事にしている。
例えば、人工透析、腎移植、余命のブロックがあって、モルトウイスキーのブロック、燻製とその調味料のブロック、亡くなっていった多くの友と客のブロック等々があって、極力それに添うテーマなりモチーフを考えている。
どなたの掲示板であれ、検索で這入るのが一番。SNSのごとく、最新の書き込みのみ重視するのはいかがなものか。掲示板はファッションでないと思うのはわたしだけではあるまい。
ダイヤライザーの性能がいくらよくなったからといって、人工透析患者の余命は腎移植患者ほどには延びない。免疫抑制剤がいくらよくなったからといって、健常者ほどに寿命が長くなるわけでもない。腎移植をしたものの、人工透析に舞い戻ったひとを多く知っている。なかには3度の移植手術をした強者もいらっしゃる。それが分かっているが故に、移植手術をしたからといって、シャントを元に戻すひとはいない。みなさん、覚悟を決めて生きていなさる。
毎年1万人ほどの透析患者が増えている。そしてその7.8割の患者が亡くなっている。新たに患者になられる方はみなさん透析患者の余命を調べる。病院では一部の例外を除いて明確な形で余命の宣告はしない。症状が異なるし、身体が受けるダメージも個々に異なる。安直に余命を宣することなどできようはずがない。
松戸の東葛クリニック病院で医師に余命を尋ねた、2012年2月のことである。5年後の誕生日を迎えられるように、全力で治療に当たります、と。この場合の治療は根治ではなく、対症療法である。
山中(旧姓)さんが九州で透析治療を受けておられると聞いてから随分になる。生きておられるのだろうか。
追記
東葛クリニック病院では3度の入院と2年間の透析治療を受けている。レビューによると医師は敬語を遣えず、受付の女性の態度が横柄だと書かれている。今も同じ人だが、あれほど親切な事務員をわたしは知らない。