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残日を指折りかぞえて   一考   

 

 鯉をおもわせる少しぽっとした丸い目のなかに、研ぎ澄ました冷たい一条のひかり、少年期に得られなかった欠けたピースを探し求めるはしこい目線、薄笑いと広いおだやかな白い額にただならぬ飢えを秘め、なにを言っても「知ってるよ」「それも知っています」いかように言葉を返そうが「すべて分かってるよ」と畳み込んでくる居丈高な物言い。身勝手、わがまま、傲慢、不遜の権化のような顔をして、あなたは私を正面から食い入るように見据えました。でも、ひとを喰ったあなたの眼差しは私にとっては遠い日の懐かしいまなざし、少年の頃のせつなさ、はじめてめぐり会ったときの爽やかさのままに、私はもうひとりの私と出逢ったのです。
 ひとがたまらなく好き、だからこそひとを拒否する。でも拒否するのはあなたではなく、それを選択するのはいつも相手側だったのです。「あっそう、なにも分かっちゃないね」とのあなたのさびしげな口癖がすべてを物語っています。あなたの口をついてでるノンは非難や排撃といった能動的なものではなく、言葉のゲームが出来ないことへの失意だったのです。「分かっちゃないね」とはひとの白々しさに逢着したときの自らへの絶望。そう、見果てぬ夢を、友を捜して、あなたも私も共に生を反芻してきたのですよ、数十年のあいだ。
 考えるってなに、思惟するってなに、立ち徘徊るってなに、あなたとの論議の底流には常に不確実性が、懐疑が漂っていました。死を目前にした、定まらない揺蕩う残照がそこに息づいていたのです。残照はふたつの属性をもっていると思うのです。片方には残傷や残心が潜み、もう一方には慙羞、慙色、慙沮などが栖みついているのではないでしょうか。あなたのはにかみには消え入らんばかりの夕日のような輝きが、明るさがありました。その明るさを気取られるのが嫌で、あなたは距離を詰めようとして常にはなし相手に躙り寄っていました。自恃の撤回を余儀なくされた者にとって、からだとからだを摺り合わせ、触れ合う以外に自己を確認する手立ては残されていないのです。と言うよりも、寄り添っているとき、すなわち話し合っているときだけなのですよ、自分が存在するのは。そんな宙ぶらりんを選択するしかなかったあなたに私は心底からの共感と情愛を感じていたのです。
 双方の論理回路を接続するのに四箇月ほどかかりましたね。それからあとはメタフィジカルな禅問答、よくふたりで笑い転げました。「駟馬も追うあたわず」を逆手にとって、取り返しのつかない箇所をたがいに穿っての咲笑い、嬉笑にも怒罵にも相感じる日々がつづきました。あるときは堪えかねてくっくっと、またあるときは輾然と、夜が明けるまで笑いさざめく声が途切れはしなかった。俳諧の軽みのようなきわやかな笑み、風が吹き通るさわやぎのような微笑みのなかにあなたの意気の俊爽を私は見届けたのです。それこそが夢中にあっても決して放心することのなかったあなたの詩精神そのものでした。ダイヤルを回す能動的かつ意識的な行為のなかに人生があるのではなく、回されたダイヤルが戻ってゆく緩慢な時差のなかにこそ、人のいとなみがある。これでよかったのだろうか、電話を掛けてよかったのだろうか、これからなにを相手に伝えるのだろうか、伝えるべきなにかがあるのだろうか、やはりやめておこうか。あなたにとってほほえみは繰り返される人生の途中停車、「生きるってもどかしいものですね」との言葉こそが、戯けであり、飄逸であり、うつうつと最高を行くあなたの表現でした。
 私が「今日は私の負けですね」、あなたは「ここのところ二連敗だったからね」と応す。「そっちへ振りますか」「それは想定外だなあ」「さて困った」「今日は議論の内容を吟味してきましたからね」ひとを追い詰め追い込んでゆくときの張り詰めた雰囲気、そんなときのあなたの顔は輝いていました。どちらが勝とうが負けようが、横須賀さん、愉しかったね、嬉しかったね、仕合わせだったね。すべては約束された滅びへのみちのり、「年々歳々花相似、歳々年々人不同」間違いなくひとは変わり、最後は土塊へと昇華されてゆくのです。昨年の一月七日、朝ぼらけの一ツ木通りでどちらからともなく別れ際に交わされた一言「生きていてよかったね」
 その七日後、あなたは私を残して旅立った。蟋蟀は九回脱皮すると言われます。また蟋蟀の成長は、昼が短いと成長が早くなる短日型です。共にいるかぎり、脱皮を際限なく続けましょう、あなたとならできそうな気がするのです。「あなたとなら・・・」この一点にあなたの論理のからくりが、あやかしがありました。ゲームのなかでは頻繁に、あなたがわたしになり、わたしがあなたになります。「それ自体では目に見えない観念が、アナロジイによって、可視的なものになる」ように、互いの見えなかった部分が滲透しあうことによって、白日のもとに曝されていきます。言い換えれば、あなたでもない、わたしでもない、そして誰でもないところの存在、「友」に明解なひとつのかたちが与えられていったのです。「友」が、対置するところのものではなく、相対するところのものではなく、謂わば伸縮自在なオブジェのような共作物であり、明確な輪郭を保つ観念そのものであったと申せば、愛する友よ、お気に召すかしら。

追記
 本稿は「光と鬼 横須賀功光の写真魔術」に掲載。山口小夜子さんと3人で酌交わした日々を思い出す。その小夜子さんの言葉「意図的なことをなくす 自分をなくすことから本質に触れる」


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2016年04月10日 14:49に投稿された記事のページです。

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