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妄想のすすめ   一考   

 

 福岡県内の認可外保育所の元設置者(67)が保育所に通う幼児14人に計105回、わいせつ行為をしたとして、福岡地検から起訴されていたことが捜査関係者の話で分かったようである。検察は今月15日の論告で「前代未聞の悪質事案で、徹底した矯正教育が必要」と主張、懲役15年を求刑した、とある。
 別のニュースで、2年前に行方不明になった埼玉県朝霞市の女子生徒(15)が東京都中野区で保護された事件で、容疑者(23)が28日未明逮捕された。

 共に性犯罪だが、「矯正教育が必要」との意見には賛成致しかねる。少年犯罪の過多も性犯罪だが、少年犯罪にせよ老年犯罪にしろ、もっとも矯正しやすいのが粗暴犯で、矯正しづらいのが性犯罪である。なぜなら、性の問題は個々の稟質と密接に絡み合っているからである。
 説明が面倒なので端折るが、他者が施す教育ではなく、自ら矯正するしか手立てはないと思っている。

 数少ない知己から、かつて、
 「いくら否定しても否定しても、「自分」とは残ってしまうものだと思います。 否定する感情がある限り、その感情の中に「自分」が立ち現れます。 どんなに隠そうとして、殺そうとしても、生きている限りそれは漏れてしまうものです。何かをひとつ選ぶたび、全てを持ち得た可能性は消え、ひとつという現実が手に残ります。そのひとつに、どうしようもなく自分は現れてしまうのです。たったそのひとつに、たったひとつのくせに、そこにはすでにあふれんばかりに自分が充満してしまっています」
 との質問を受けた。正確な意味での返答を未だに認めていない理由は、この種の自意識が苦手だからである。「信じるということを信じない、信じないということを信じる」と云った弁証法の基本を思い起こす。
 さらに、自意識過多のひとが往々にして陥るのが神智学であり、その神智学の類がわたしには自意識以上に苦手なのである。

 サチリアージスであろうが、ニンフォマニアであろうが、自己のアイデンティティーの確認の途次立ち顕われる。問題はそのアイデンティティーすなわち自己を弁証にかけてみればいかがなものか。と云うよりも、弁証の対象は太古の昔から自分と決まっている。霧散しかねない自己にどうしてしがみつかねばならないのか。いっそ無意識過剰の薦めでも書こうかしら。

 さて、このはなしにオチが必要かしら。行為(犯罪)にまで至らないがゆえの妄想でなかったでしょうか。件の知己は誤解を惧れず、妄想すなわち性愛について話せる大切な友人である。


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2016年04月03日 04:35に投稿された記事のページです。

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