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夢を孕む女 荷風と山田一夫   一考   

 

 十一月廿六日。暴暖初夏の如し。昨夜深更より今暁に至るまで眠られぬがまゝに山田一夫氏が短篇小説 集夢を孕む女を通読す。現代新進作家の作品にして、其文章構想両つながらこの書の如く余を感動せしめたるものは無し。実に近年の好著と謂ふ可し。往年谷崎君の刺青(籾山書店梓)を読みし時、又初めて北原白秋君の散文小品をよみし時の如き感動を催し得たるなり。直に手紙をかきて作者の許に送りぬ……

 おのが胸襟をひらくことを潔しとせず、市井に隠れ孤棲を懐かしみ、およそ後進の作家には目もくれなかった永井荷風から、例外ともいうべき讃辞を呈された作家の一人に山田一夫がいる。昭和七年十一月より十年六月にかけての荷風日録『断腸亭日乗』には、一夫との十数度におよぶ款語のもようが記されている。一夫がかねてより先達として崇めていた荷風と初めて知合ったのは、当時春陽堂から再劂された『西遊日誌抄・新帰朝者日記』ほか四冊の荷風本の奥書をしたためた帚葉神代種亮の仲介によるものと想われる。昭和七年といえば、初老を過ぎて荷風は五十三歳、一夫が三十八歳の時である。この時期の荷風は尿中に蛋白質を有し、また脚気の徴候あり、不眠症のために創作欲がいちじるしく衰えたという。同年十一月には青山脳病院へ出向き、齋藤茂吉の診察を受けるに至っている。『断腸亭日乗』にも「……夜眠る事能はざれば昼の中時を定めず一二時間位椅子にもたれて眠るやうに力むるなり。されば読書も心のまゝならず、筆を持つことはこの日誌を記するがせいぜいにて、小説つくるが如き事は早や思も寄らぬことになりぬ。いかに悲しむもせんすべなし……」と間断なく苦衷のほどを洩らしている。狷介を唯一無二の信条とし、ことさら文士との交わりを忌みきらった荷風が、一夫を数すくない知己の一人として遇し、あまつさえ頌辞を示すなどという挙に出たのは、かかる健康状態と年齢からくる気力の衰えを鼓舞させる契機を一夫の作品に求めたためなのかもしれない。

 山田一夫は本名を山田孝三郎といい、日清戦争の始まった明治二十七年、京都は京極に近い中京に生れた。生家のあたりは今なおしもた屋の多い閑静な町並であり、一夫の生れる数年前に呉服商を廃した父は、その後家作の経営にあたった。また三人の男兄弟はすべて七、八つの頃までに歿くなり、ただ一人残された一夫は女中ばかりを相手に乳母日傘で育てられたという。この少年期の体験は、京極で目にした操り人形や地獄極楽、それにパノラマやジオラマなどと共に、後年一夫の作品に大きな影響を与えることになる。通常の文学事典に独立の項目はおろか著作すら掲載されていない一夫には、私が知るところでも三冊の著書しかない。まず昭和六年十月三十日に白水社から上梓された作品集『夢を孕む女』、ついで昭和十年五月十日に岡倉書房から上梓された作品集『配偶』、下って昭和三十六年四月一日、明治の頃の京都の市井の風俗やその地に住み暮した者の生活感覚などを描いた随筆、それに戦後の短篇を纏めた『京洛風流抄』が白川書院より上梓されている。そのうち表題作のほか十四の短篇を収めた『夢を孕む女』には、荷風によってすこぶる含蓄に富む寸評が各々の作品に加えられている。冒頭に引用した『断腸亭日乗』に見られる「手紙」がそれである。詳しくは岩波書店版『荷風全集』第二十五巻を繙かれたいが、その尺牘のなかで荷風は、支那小説とフランス象徴派の作品とを合わせたような趣あり、また京都固有の幽艶な世界が描かれており、プルウスト、ジイド、ポール・モーランの作品となにかしら似かよったような心持がするとの読後感を記している。たしかに象徴主義好みの”宿命の女”は一夫も好んで用いるモチーフのひとつだが、男を破滅にみちびくというよりは育むといった様相が濃く、むしろロマン派作家の作品、たとえば泉鏡花などにより近しい資質があるように思う。まずは表題作「夢を孕む女」のあらすじを追ってみよう。
 ……陶工玉川の姉美佐子は、東京のある実業家に嫁いだものの、二年たらずで不縁になり、今は京都の郊外に閑寂な隠遁生活を送っている。理想主義的な一面があり、何かにつけて感受性が強く、自由を束縛されるのに堪えられない美佐子は、その離縁をむしろ喜んでいる。一方、母と死別した「私」は、ただ侘しく無為な日々を過していた。そんなある日、姉の依頼を受けて玉川は、友人である小説家の「私」を二年坂の姉の住居「幻華荘」へと連れて行く。躯の均斉のよくとれた唐美人を思わせる姉の美しさに「私」は軽い眩暈を覚える。そして美佐子は今後の創作への協力を約し、現実の生活からの乖離を奨める。その日を境に「私」の生活はまるで一変し、女にしては珍しく明晰な頭脳の持主である美佐子の啓蒙によって幾多の作品を産み出すことになる。ーー十年後、美佐子は逝き、遺言によって四十九日を「幻華荘」でおくることになった「私」は、日夜美佐子の俤を夢に描き続けている。そして書き綴った作品の大半もまた、美佐子の孕んだ夢であった……。
 小説の舞台になった二年坂は、産寧坂と共に高台寺南門の霊山道から清水坂へ至る南北の小径であり、大正六年東京を遁れた竹久夢二と笠井彦乃との最初の隠処となったところでもある。作品の緊密度と主人公の性格描写という点では、書中まず「和歌庵挿話」を揚げるべきだろうが、あえて私の好みにより一作を推すとすれば、やはり「夢を孕む女」であろう。「幻華荘」周辺の描写は、幻想的な女性美佐子が住むにふさわしく情緒豊かに描かれており、官能的な美しい夢を書き綴ったいま一人の同時代作家一戸務の「竹藪の家」を髣髴させる。また特に荷風が好んだであろうと想われる第四章のあぶな絵的場面は、日常的現実よりも夢を称揚してやまぬ一夫の持味がいかんなく発揮されている。そしてこのロマン主義的な傾向は、その後に続く作品集『配偶』にふくまれた秀作「配偶」「耽美抄」へと助長されてゆくのである。
 『配偶』もまた前作品集と同じく、一夫をして「華麗な底に渋味のある装幀」と言わしめた小穴隆一の手になる美しい木版画で飾られており、表題作のほか九篇の短篇が収録されている。その表題作の「配偶」は、三度の結婚生活に失敗した男が、ある日妻縁を占ってもらい、晩婚の宿命なればあなたの縁は五人目でないと納まらないと告げられる、それでは四人目に悪かろうと衣装人形を相手に祝言を挙げるという話であるが、白無垢の裲襠を着て深い綿帽子に顔を隠した人形が、枕辺で次々といろんな女に変身してゆくという後段の物語めいた情景は、なかなかに技巧が凝らされており、豊麗な才筆と相まって文字通り珠玉のような一篇となっている。「耽美抄」の方は幽婉な情趣に溢れる作品であり、女嫌いの耽美主義者銀二が、覗きからくりのある湯殿で薄い倶利迦羅紋紋の肉襦袢を身にまとった女から背中を流される場面などは、草双紙のような頽廃的雰囲気を漂わせていて美事である。おそらく一夫自身、「夢を孕む女」と同じ系列に属するこの作品に特別の愛着を持っていたものと想われる。

 高見順の著書『昭和文学盛衰史』(第一巻第十一章・芸術派の群)には、中村武羅夫を中心に発行された文芸雑誌「近代生活」と一夫との関係が詳しく記されている。
 『近代生活』は昭和四年四月に創刊されたのであるが、四年四月というのは、前年の三・一五事件につづく四・一六の大検挙、大弾圧のあった月である。その月に反プロレタリア文学運動の「新興芸術派」の母胎たる『近代生活』が結成されたということは、偶然のようでまた偶然でないとも言える。『近代生活』には、前身の雑誌があって、それは『近代感情』であるが、編集は梶原 勝三郎、そして経済上のパトロンは京都の素封家山田一夫であった。
 文中にも触れられているように、「近代感情」つづいて当初一夫がパトロンとなった「近代生活」は、翌年四月に新興芸術派倶楽部が結成されるや、同派の機関誌的存在としての変貌を遂げる。龍胆寺雄を闘将とした、いわゆる「新興芸術派時代」を迎えるわけである。しかし一時の栄耀を担った同誌も昭和七年の夏には廃刊のやむなきに至る。そして新興芸術派の小説の巧者と謳われた浅原六朗や楢崎勤などと並んで創刊時からの中心的メンバーあった一夫もまた、その作家としての消長を「近代生活」と共にすることになるのである。
 『耽美抄』を上梓した後の一夫が、他の新興芸術派の作家と同様に、近づいてくる軍靴の跳梁に沈黙を余儀なくされたのか、それとも荷風というあまりにも強烈な毒を前にして自らの作家生命を断つしかなかったのか、その間の消息はつまびらかとしない。ただ、戦後の一夫が著した短篇「別室風流」(『京洛風流抄』所収)には、黄道と号し、新古典感覚派を以て任じていた頃の官能的な夢も豊麗な筆致もなく、かつてロマン主義的な昂揚に彩られていた幻想小説は、単に生活観の甘さを露呈するにとどまる凡庸な花柳小説となり果ててしまうのである。

   「琴座」 第35号(第10号) 琴座俳句会 1979年10月刊

追記
 1968年10月、大月雄二郎さんの紹介で生田耕作との知遇を得る。翌年、山田一夫の未発表作品が白川書院にあると人文書院で教えられ、生田耕作と白川書院を訪ねる。耽美抄の腰巻に「生前著者より編者に託された推敲加筆原稿に基き」とあるのがそれに当たると思うが、わたしは「耽美抄」を読んでいないので定かでない。
 「初稿 夢を孕む女」との著書が発行されたらしい。今のわたしは興味がないが、昔山田一夫について書いていたのを思い出したので再録する。


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2015年07月04日 16:57に投稿された記事のページです。

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