2013年1月20日に川津さんからメールがあり、前項の詩が収録されていた。
冬の朝
かじかむ手を吐く息でくるみながら
車いすに空気をいれていると
轢かれた蛙のにおいは
周期的に歌われる憂鬱な女たちの悲歌のそれにも似て
途切れることなくあたりにあふれた
前の三行はとても良い。続く二行には川津さんのいつもの癖が表れている。と云うようなことを書くこと自体、およそ意味をなさない。詩は全体を評価すべきである。そして評価すべき全体像をこの詩は内包している。
入院中のことだが、看護師が1人で目頭を押さえながら車椅子を押している。やがてエレベーターの前でじっと立ち尽くしている。どう対処しようかと迷ったがボタンを押す、先に乗ったわたしは無言で乗ることを促す。目蓋を腫らした彼女は主のいない車椅子を押す。崩れまいとして彼女は唇を噛み締めて怺えている。彼女の情動に影響を及ぼしたくないので、頑なに黙っている。ここで何かを口にすればお互いの情思が一挙に溢れだしてしまう。病院ではよくある光景かもしれない。
去年の四月にも川津さんからメールを頂戴している。「病院でケアワーカーとして常勤になりました。認知症のすすんだ高齢者の方が主な患者さまです。陰部洗浄、おむつ交換、いろうをしていらっしゃる患者さまのチューブをきれいにしてさしあげる業務、シーツ交換、清掃等、とてもやりがいのある仕事です。病院に入って気づいた事があります。それは大学で学んだものは、ほとんど現場では活用できないという事です。例えばこちらがやれ音楽療法をやりましょう、ピアノを弾いて皆で歌いましょうと言っても、残存機能が限られた患者さまには不適切ですし、音楽がきらいな患者さまもいらっしゃいます。ドクターにもナースにも理学療法士にもその他先輩方にも、学校で習った方法を当然なのですが、口で伝えても納得はしてもらえません」
病院での為事は続いているものと思う。看護や介護に携わる者はどれだけのことを呑み込んで生きているのだろう。少なくともわたしのような生半な人生でないのは確かである。エレベーターの彼女も担当していた患者の死を一身に秘めておくびにも出さない。
病院で個々の患者の病名や容態を口にする者はいない。そして患者を偶うに殊遇に徹している。看護師の思慮の深さや広さに屡々驚愕させられる。どのような人間であろうが、生活者である以上雑念を持っているに違いない。ところが、なにかの瞬間に集中力が働くと一切が吹っ切れてしまう。看護に携る人間は、苗字を持つ個人であると同時に、別の抽象されたなにものかに成り果せる。
そうした病棟での経験が川津さんの詩に全体像をもたらしたとすれば、その全体像は素晴らしくもなんと悲しいことか。為事を見詰める川津さんの目差に仕込まれた複屈折を知る。
川津さんの詩に今まで欠落していたのはこの全体像である。物語性と云っても良い。川津さんのイデー自体が常に断片的で、それにつられて言葉も互いの連絡、連結を失っていた。言葉と言葉が連結を取り戻すとき、イデーは解き放たれ、ヒッポクレネの泉は満ち溢れる。
「満を持す」との言葉がある、舞踏でいう「溜め」である。ぎりぎりまで力を抑えて蓄えるの意である。この溜めがあればこそ、言葉と言葉がしっかり手を結び合う。これから留意していただきたい一点である。それがなければ一冊の詩集を編むことはかなわない。予嘗為女妄言之。