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川津 望さんの詩   一考   

 

ある病棟の肖像   川津 望


月をまなうらに感じ
あけがた 蒲団のなかで
こらえていた 因果な液体が
ふいに 鼻から焼けおちる
冬の朝
かじかむ手を吐く息でくるみながら
車いすに空気をいれていると
轢かれた蛙のにおいは
周期的に歌われる憂鬱な女たちの悲歌のそれにも似て
途切れることなくあたりにあふれた


男は気管切開をされて発声不可能であったが
眼で熱心にはなした
看護師が拘縮のひどいその手をつよくひろげようとすると
顔を燃える紙のようにゆがめて 口を大きく開き
気切からは痰が音をあげて噴き出した
看護師が手浴で使ったぬるま湯を捨てようと目をはなした隙に
男は首をわずかに振ったかと思うと
もう片方の動かせないはずの手で
気切を思い切り叩いた
看護師がすぐさま腕を縄のようにして 
男の腕を縛りあげた
「すごい力 どこにこんな力が残っているの」
「いつもこうやって外しているのね 次やったらミトンだから」
アロマオイルの香りがやわらかに流れるなか
痰を吸い取る生々しい吸引音が病棟に響きわたった


男の横には写真が飾ってあった
看護師はその写真を手に取り
きれいなお孫さん と言った
夕方 みぞれまじりの雨がふりだしたころ
家族が面会に来て
男にはわからないよう
くちびるを噛んでそっと写真を鞄にしまった


消灯前 ナースステーションの清潔な照明を半分落とし
闇がひとすじにふきおくられた廊下を渡る
病める樹と樹が呼応して
嘆きの葉を揺さぶる森の奥
看護師がゴム手袋をはめた指を男の肛門にねじこみ
管理された栄養のぬけ殻を練るようにひきずりだす
口は謝りながらもその流木のような腕や肩を片手でおさえつけ
わたしは下腹部を片手で念いりにおしつづける
されるがまま 眼の岸辺に打ちあげられる
自他に問いかけることをうしなった
男の無言の感情 感覚
その裂け目を ひらたい無為が癒着させてしまう
ゴム手袋をはずした看護師の薬指に 指輪がひかっていた

森をあとにする前
ちいさな声で
お孫さん いらっしゃらなかったの
男にそうたずねた
瞬間 男の眼の屋根に積もった雪が
瓔珞の糸のふっつりと切れたように
いっぺんにすべり落ちて
わたしの精神もまたおおきな氷柱にうたれた


吊るされた無数のイルリゲーターが
月明かりに洗われた たましいのようだ 
そのうちから深夜までにふたつ 名前が消えた


「あのお孫さん 残念だったわね」
「ご本人は知っていたの このこと」
「わからないでしょう」


わたしはふるえる手で男の退院を簡潔にノートに記した
うすっぺらな 守秘義務にいろどられた雪は
現実よりもゆるやかな時間の流れにのって
校舎の窓からふわりとおりた少女のように
しんしんと悲しみを主張する


月をまなうらに感じ
あけがた 蒲団のなかで
こらえていた 因果な液体が
ふいに 鼻から焼けおちる

あの動かれない涙の耳が 
あざやかに シゴをたべ 
やすまることなく 
シゴを聴いていた眼が
あたたかかったことを
夢みたわけではないのに


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2013年04月08日 06:15に投稿された記事のページです。

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