嘗物(なめもの)は、塩辛、醤(ひしお)、嘗め味噌など半固形体の副食物の総称。醤は古くは比之保と書いた、味噌や醤油の祖型。戸田中央総合病院では粥に醤や嘗め味噌を入れて食べたが、これは昔からよくある食し方。
前項の北京味噌は北京ダックに用いる北京味噌でなく、通常の焼き味噌に大蒜を加え甜麺醤を入れて甘くしたもの。それを浅い盃(さかずき)に塗り付けて炙る。
なお、魚醤(ぎょしょう)は醤から発展したもの。わが国では秋田の塩汁(しょっつる)、能登の魚汁(いしる)、香川のいかなご醤油、広島の牡蠣醤油、北海道の鮭醤やほっけ醤油、熊本の隠しあじの達人、南知多町豊浜のしこの露、新潟の南蛮えび醤油、大分県日田市や秋田県横手市で開発された鮎魚醤などが知られる。南米や南欧のアンチョビーソース、ベトナムのニョクマム、タイのナンプラーなども魚醤に含まれる。
醤と嘗味噌について書いたので、味噌と醤油の関係について一言。
江戸の頃まで醤油は庶民にとって大変貴重な調味料だった。醤油が普及する以前は、酒と鰹節と梅干しでつくる煎酒(いりざけ)で刺身を食べた。他方、蕎麦を食べるときは、現在の醤油ベースのめんつゆでなく、味噌から作る煮貫(にぬき)で食べていた。
江戸っ子は外皮や甘皮も除去したぬき実を製粉した白い蕎麦を持て囃した。魚や鶏肉に熱湯をかけて霜降りにするのも灰汁抜きが目的だが、蕎麦の実も徹底的に灰汁抜きして嗜むのを粋とした。いわゆる一番粉のことで「さらしな」とも呼ばれる。
原料ソバは石臼にかけてゆっくり挽くが、粉の歩留りは70パーセントほどである。歩留りを高くするほど粉は黒くなるが、風味はかえって良くなる。一番粉や二番粉とは別に挽きぐるみがあって、外皮をとっただけで全部挽くか、外の殻まで一緒に挽いたもので、色が黒くごつごつした感じである。出雲蕎麦や出石蕎麦などはそうした蕎麦粉が使われる。江戸っ子は見て呉れにこだわり、繊細な香りには一顧だにしなかった。
「料理物語(1643)」には生垂(なまだれ)、垂(たれ)味噌、煮貫の名が見える。生垂は味噌1升を水3升でといて袋に入れ、滴り落ちる液汁を濾したもの。垂味噌は「みそ一升に水三升五合入せんじ三升ほどになりたる時ふくろに入たれ申候也」とあって、3升ほどに煮詰めて生垂同様に濾したもの。煮貫は生垂に大量の鰹節を入れ、煮たてて濾しとったものとされる。江戸時代の料理書には「常の如く」とか「よき加減に」などとあり、分量など詳細については書かれていないことが多い。それこそ常の如し。