戸田の病窓から遠く9時の方向に奥多摩が、7時の方向に箱根が、そして中央に富士が見え、ずんと手前を埼京線が走る。埼京線は新幹線と在来線が併行する。日中は2階建て新幹線の一回り大きながたいが際立ち、在来線のそれは貧相で目立たない。ところが夜ともなると様相が一変する。新幹線の小さな窓は闇から闇に紛れ、一気に存在感が薄れる。他方、電飾に色彩られた各駅停車の電車は輝きを増す、多くの人生を積み込んだまるできらびやかな特別車両のごとく。
ひとの生死にも「泡沫人は息消えて、帰らぬ水の泡とのみ散りはてし」から「のたうつ藍の虫の息」までさまざまである。新幹線がうたかたなら、さしずめぬたうつのが各駅停車であろうか。きわめて予後の悪い膵臓癌と大腸癌との違いとでも云い換えようか。死ぬ日まで時がなければひとは駈け抜けてゆくだろうし、死ぬ日までいささかでも余裕があれば自らの死について筆舌を累ねるやもしれない。
沈黙を守って死んでゆくのと、もがきころびまわって死んでゆくのとどちらが潔いか、ことは簡単には済まない。この場合の潔いは未練の問題であろうか。未練を抱くのと未練を捨て去るのと、いずれにせよ、死にゆく人の未練であり、死にゆく人の時の過ごし方である。軽重を口にするのは生き残る人。いわずもがな。
追記
梅木英治さんを慕びつつ。