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無知の涙   一考   

 

 先日、掲示板で永山のことを書いた。そうすると早速ETVで永山の特集番組があった、奇遇としか云いようがない。わたしは運命論者なので、生まれ落ちることがアンガージュすることにはならないと思っている。サルトル流に云えば、彼は貧乏に生れたのでなく、貧乏に育ったとなるだろうが、そもそも貧乏などという概念が属性足りうるのかどうか。それはともかく、
 永山は多くの兄弟を有し、それらの軋轢もしくは暴力のなかで育った。とても一般でいわれる家庭とはほど遠い環境だった。彼の兄弟には犯罪者が多く、彼は間違いなく貧困者として、犯罪者として生れ、そして育った。犯罪者として育つ前にすでに彼は犯罪者だった。彼は生まれ落ちた偶然性を呪い、生活してゆく上での境遇を嘆き、割り切れない定めとして世の中を憎む。その結果がピストルによる連続射殺事件だった。
 彼は獄中で文筆に目覚め、その文筆から弁証法を倣う。その過程で境遇に対する、生まれ落ちた偶然性に対する抗いがたい理不尽な怒りと悲しみを知る。しかし、骰子は抛げられたあとであって、世の中に対する自らの行為は常に不可逆なものである。もしも、彼が事前に不条理の構造を知り得たとするなら、異なった生き方があったように思う。また、理不尽乃至不条理を理解するに、弁証法のみを武器にしたところに彼の重なる不幸があった。
 わたしは日本文芸家協会への入会問題になんら興味はないが,死刑廃止論議にはいささかの興味をそそられる。自らの行為が不可逆なものである以上、そこには一定の歯止めが必要である。わが国の法制度では無期懲役と死刑とのあいだの乖離が大きい。無期懲役の懲役期間の平均が15年から20年と聞くとその感をより深くする。イスラエルのように、無期懲役が真の意味に於いて無期に近づいたとき、死刑は廃止されるべきと思うが、現状では到底無理である。
 永山則夫、97年8月1日、東京拘置所で死刑執行。泣岐を思い、涙す。

追記
 裁かれるのは加害者であって被害者でない。だからこそ、加害者が犯行に到った経緯、その生い立ち、家族構成、境遇などが吟味される。昨今の裁判で被害者側の意見の陳述が多いように見受けられるが、被害者側の本音は報復判決でしかない。被害者側の意見を加味しての裁判などありえない。このところの厳罰化にもそのあたりの消息は顕著である。繰り返すが、裁かれるのは加害者である、加害者のための裁判を望む。


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2012年10月26日 02:55に投稿された記事のページです。

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