主観的、客観的とは主人にとってもしくは客人にとって著しく主観的ということであって、意味するところは変わらない。
例えば、日本語で蜥蜴と守宮は異なるが、英語では同じ。蝶と蛾は英日では異なるが、佛蘭西ではよほどの昆虫学者でないかぎり同じ。虹は何色かとの質問では日仏なら七色、英独なら六色、トルコなら、と別れる。要は言語体系もしくは日頃の慣習によって微妙に異なってくる。
日本語はというよりも、日本文化は川単位で括られ、縦方向のそれが縦横に組み合さっていた。それが何時しか水平方向へ置き直され、特に維新以降は富国強兵のもと、道路、鉄道とひたすら頑健かつ均一に引き延ばされてゆく。
歴史的仮名遣いとは「仮名の正しい使い方。同じ音を表す仮名が二つ以上ある場合に、どちらの仮名を用いて国語を書くのが正しいかを定める定め方」なのだろうが、戦後制定された正漢字同様、この「正しい」との概念にわたしは胡散臭さを覚える。正しいとされるものがどうして単数に劃られるのか。上方の板木屋の数だけ字母があったわけで、正しいか正しくないかと云えば、そのいずれもが正しい。わたしが旧字旧仮名との名称をよく用いる理由である。
信奉者は正しいものを決めておかなければ安心できないのだろうが、それを権威主義と云わずしてなんとする。琉球語もまたわが国最大級の川言葉であり、日本の母国語の一だった。それが帝国臣民に相応しくないと云う理由で圧殺されて七十年になる。
この消息は政治と似ている。戦後、われわれは議会制民主主義を目差している。されば政権の数と種類を増やすべきであって、自民党野田派、小沢新党、新党きづな、新党大地・真民主、社民党、みどりの風なんでも結構である。試みるべきでないのは、一方的な批判であって否定である。いくら政治家がよろしくないからと云って批判や否定を繰り返せば、遠からずヒトラーを生み出すことになる。
先頃、文学者からオピニオンリーダーへと華麗なる転身を遂げた似而非文化人がいる。自称思想家らしいが、彼などは自らがヒトラーに相応しいと信じているに違いない。(7月21日)