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詩論と思しき・・・   一考   

 

 いつぞや、詩論と思しきものを書いた。全く理解されなかったが、ことさら理解を求めてのものでない。無用のものを書いたとすら思っている。
 バタイユの詩論の一部を換骨奪胎した。その意味は戦後の日本で詩論とおもわれるようなものが見付からなかったからである。ひとはものごとを勘案するに弁証法との武器しか持たぬ。弁証法と云おうが、対局主義といおうが、なんでもよろしいが、古代希臘より花田清輝を経て林達夫へ至るまでひとは弁証法のなかでのたうち回る。その弁証法の不純さを痛烈に罵倒したのがバタイユであり、名を引くのは恐縮なのだが橋本真理や宇野邦一でなかったか。
 思想とは試行錯誤であり、試行そのものであってその対局に不条理がある。論理的あれかこれかが停止する場が不条理であって、不条理は固着されたところのものである。謂わば状況論としてしか咀嚼できない。
 分かり易く云えば、徴用礼状や召集令状がそれであって、近くは3・11の原発崩壊である。個人的なはなしだが、わたしの父は高田出身なので、五度満州へ召集されている。その度に昇進し、最後は曹長で終えている。戦後直江津の海岸で父がひとこと、わたしの青春は満州だった、戦後の日本に生きるべき国土はなかった、と。
 わたしの母は生活で苦労はしたが、自分を見失うひとでなかった。糖尿で認知症を患ったが、生活べったりの為合せなひとで父のような喪失者ではなかった。母が死んだとき、父に女がいたかどうか訊かれた。野崎さんといってわたしは十五年ほどお付き合いし、うち十年は共に為事をこなした。母とは異なる親近感を持っていた。
 颱風一過の直江津、さかしらな同情をきっぱりと否定する父の後ろ姿にわたしは深く涙した。これが不合理なのだと。ひとは不合理を前に遁走するしか手立てを持たない。従って、不合理を弄ぶひとをわたしは憎む。弄ぶ対象が詩であれば詩をもわたしは躊躇なく否定する。
 「詩人の為事は世界の不条理を情念の不条理に、言葉の不条理に置き換えて提示する。不条理とは世界の属性でも人間の属性でもなく、人間に与えられた条件の根源的な曖昧さに由来する世界と人間との関係そのものであって、変更不可能なものである。言い換えれば、人間存在の置かれた状態を示す言葉ではなくて、世界に対する態度を示す言葉である」かつて以上のごとく著した。意見はなにひとつ変わらない。詩について二度と書くまいと思っている。(7月20日)


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2012年07月31日 00:46に投稿された記事のページです。

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