今回の生体間腎移植に関して、自分自身がなにを考えているのか、なにを考えようとしているのか。またはなにをしようとしているのか、このまま寿命を全うすればよいではないか。透析治療から腎移植へ移る必要があるのかどうか。健康な他人の身体を犠牲にするような価値がわたしにはなにもない。おそらく、何人にもなにもない。にもかかわらず、腎移植などという治療法がどうして存在するのか。
思いは千箇に乱れた。実にわたしは泣き出していたのである。わたしのすることなすことが、ことごとく本意から外れてゆく。というよりも本意なるものが奈辺にあったのやら。わたしは生に執着しているのか。わたしは長生を望んでいるのだろうか。自らのあさましさに愕き入る。
それにしても、よく泣いた。鮭が旨いといっては泣き、体内から突き出た管が抜かれたといっては泣き、亡き父を思っては泣いた。またドナーが受けたであろう痛みを思っては泣いた。自らの脆弱な精神、身体もさることながら、破綻した弁証法の在り方にすら涙した。観念世界に照応するところのうつつが群れをなし、至るところで負け戦が繰り返された。
六十五歳を過ぎて、はじめて家族との概念と逢着し、培ってきたニヒリズムと相対するしかなかった地点でわたしの全面敗北は分かっていた。生きるとはこのようなことなのか。
思考が停止すると、ひとは弁証を繰り返すしかない。弁証は徹底して自己中心である。そこにとんでもない不純が派生する。しかし、いかに不純であろうともそれしか手立てがないのである。もうひとりの自分を求めて、わたしは病院のカウンセラー宮元沙織さんを積極的に利用することにした。神経が昂ったまま、押さえる努力すら投げ打って、纏まりのないはなし、論理性のないはなし、なんでもよろしいから話しかけることにした。彼女が河合隼雄さんをご存じだったのは救われる思いだった。(7月24日)