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佐々木幹郎詩集「明日」   一考   

 

 先日、幹郎さんと久しぶりに会った。ヒルトップの水出しコーヒーを飲みにゆく。わたしはウイーン風カフェを頂戴した。代金は980円とかで、味から推して安い喫茶店である。ちなみに、ランチは2700円。宣伝する気はまったくないが、昔、齋藤磯雄さんと赴いたことがある。谷澤さんや浪速書林の梶原さんが何時も利用していたホテルでもある(以上は不要のこと)。

 佐々木幹郎さんが新詩集「明日」(思潮社)を上梓なさった。その詩集について話し合ったが、前項の「不条理」は概要の一部である。今回の詩集は薄い詩集である。圧巻は巻頭の「珊瑚の岩の神の」で、息詰まるような濃密な内容で本詩集最大の特徴を成している。「珊瑚の岩の神の」はパーソナルな鎮魂歌であって、それとは逆の巻末のインパーソナルな鎮魂歌(このような云い方が正しいかどうか分からないが)と比して際立っている。謂わばパーソナルな厄災とインパーソナルな震災とのあいだで彼は引き裂かれる。
 詩を読むのは難しい。「オポッサムと豆」のような傑作を抽出して語るのは最も簡単な読み方だが、詩はそれでは済まない。修辞法と作品が内包する問題とが必ずしも重ならないからである。一方に、形式上は伝統的で明晰な論理と流麗な言語と緊密な詩法とによって読み手の同意を得ようとする寓意詩があって、他方に抽象的な概念をそのまま表現しようとする詩がある。前記が不条理についての条理をつくした作品とするならば、後者では文章、語、シラブルの間の論理的、文法的つながりが喪われ、不条理を作品上の不条理そのものに置きかえて提示する。有り体に云って作品の完成度がそのまま内容の完成度とはならないのである。
 要するに、詩にあっては修辞法と内容とが屡々離背する。ここに詩の読み方の難しさがある。

 昨日 ここへやって来たのはわたしではありません
 わたしの弟です
 なぜ彼とわたしを あなたは見まちがったのか
 なぜ あなたを愛でるためだけにやってきた弟から
 声を奪い 左半身を奪ったのか
 いえ 声だけは時とともに戻りました
 そのことは感謝します
 弟の出血がわずかだったことも あなたに感謝いたします
 弟はこの洞窟で 昨日 あなたに出会いました
 素晴らしかった と弟はまわらぬ舌でわたしに伝えました
 しかし 白色に輝く感動の聖痕だけを残して
 その右脳の一部を あなたは血で満たしたのです
 まちがっていませんか
 それはわたしにくださるべき罰でした

 「息詰まるような濃密な内容」と書いたのは双子の弟が沖縄で脳内出血で倒れた時のことを指す。同じ消息は散文でも書かれている。「旅に溺れる」所収の「17ccの血」がそれで、出血箇所は右脳、従って左半身痲痺が残される。「人間の手の機能は脳の大部分が司っているので、この機能の回復が一番後になるだろう」「那覇の病院に一カ月入院した後、大阪の病院に移送する日が来た。弟は歩く練習をはじめていた。わたしはK子さんと二人で斎場嶽に行き、ウタキの神に祈った。17ccの最小限の出血で止めてもらったこと。そのことをなによりも感謝した。これは啓示であることを肝に命じておきます。これからは、違う人生を送れとの天啓でしょう。これはわたしたちの革命であって、わたしはその通り歩みます、と」。
 バタイユの云う松果体は脊椎動物の間脳背面に突出する内分泌腺の一種であり、上生体、松果腺、松果器官とも云う。頭部の皮膚を通過する外界の光を感受することができる。松果体の発生過程で生ずる副松果体は一般にはあまり発達しないが、爬虫類のうちトカゲ類ではよく発達して顱頂眼(ろちようがん)となり、フナ類では頂天眼となる。これは視覚細胞と類似の構造を持ち、第三の眼とも呼ばれる光感覚器である。バタイユの特性はこの第三の眼と目眩いを相似と見立てたところにある。
 突然のバタイユで恐縮だが、幹郎さんと弟さんは双児の関係、バタイユの云う第三の眼と目眩いとの関係と瓜二つである。さればこその天啓であり革命であろう。この双児の関係は他人には窺いしれないが、ただひとつ、ことの重大さでは震災の及ぶところでない。
 おそらく、幹郎さんは「珊瑚の岩の神の」の取扱いに困ったのでないかと思われる。異質な内容の詩であるが中心に添えたい、しかして詩集を編むにどのような策を講ずれば良いのか。その結果が震災詩との合併であり、薄い詩集誕生の理由となった。はじめに書いたパーソナリティ同士の擦れちがいがここに生じたわけである。
 思考の原理のひとつに充足理由の原理なる概念があるが、ことの深浅を計ることはできない。要するに、わたしは震災詩との合併を歓迎しない。あまりの異質さに嚥下仕切れないのである。もしくは同種の鎮魂として読み手に誤解を与えかねないとすら思う。
 わたしは津波は津波で大変な出来事と思っているが、数段規模の大きな地震と過去出遭っている。だからこそ、原発という人災と一緒に語りたくない。震災と原発問題は断じて峻別しなければならない。
 そもそも罹災地へ詩人が出掛けてなんとする。それでなくとも、詩人は常にパーソナルな問いを突きつけられている。詩人にインパーソナルな質問、すなわち一般的な態度や判断を問うひとはいない。およそ非常識な応えしか返ってこないからである。分かり易く云えば、流行歌手や役者が罹災地でひとを癒し励ますことができても、詩人に傷心や失意を癒すことはできない。詩人は罹災者をさらに苦しめるだけである。
 詩人の為事は世界の不条理を情念の不条理に、言葉の不条理に置き換えて提示する。不条理とは世界の属性でも人間の属性でもなく、人間に与えられた条件の根源的な曖昧さに由来する世界と人間との関係そのものであって、変更不可能なものである。言い換えれば、人間存在の置かれた状態を示す言葉ではなくて、世界に対する態度を示唆する言葉である。

 ことさら薄いとの形容詞を用いた。「明日」はさらに薄くてもよかったのでないかと思う。真に傑れた詩は一篇で詩集になるとわたしは思っている。わが国に十人の詩人はいるが、十五人の詩人はいない。不用意に遣いたくはないが、わたしが頑張れと云いたいのは罹災地でなく幹郎さん本人である。

追記
 「司馬史観と呼ばれる歴史観に違和感を覚えている」と前述した理由は、明治との時代を捉える楽観的な上昇志向に堪えられないからに他ならない。わたしにとって文学とは常に暗く、美しいものでなければならない。幹郎さんの詩のごとく。


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2012年01月14日 21:56に投稿された記事のページです。

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