女房からパソコンの使い方について質問があった。パソコンの使い方と云うよりも、アプリケーションの使い方と云ったほうが正しい。彼女はイラストレーターを使いたいようだが、そうであればイラストレーターの入門書を買うのが手っ取り早い。わたしなどは非常に偏った使い方しかしていないので、教えるような知識はなにもない。
彼女はワープロの経験があるので両手打ちができる。わたしは未だに右手の中指一本である。それでも本職のキーパンチャーとほぼ変わらない速度で打てる。それは漢字変換の速度が違うからである。必要があって日夏耿之介の文章を打ち込んだことがあったが、キーパンチャーとわたしは同時に終わった。要するに、難しい漢字が多いほどわたしには有利になる。
当掲示板はブログ用のソフトを掲示板用に書き換えていただいた。おっきーさんにお願いしたのだが、プログラミング言語はわたしには珍糞漢糞である。エクセルのセルの入れ方もひろさんに教わった。遡れば、文字の打ち込み方はムーンさんに教わっている。すべて他人から教わったことばかりだが、分かったような顔をして使っている。
それにしても、教えることができると云うのは素晴らしいことである。理解していなければ教えることなんぞ出来ないからである。問い掛けに対して五月蝿いとか面倒だと思うひとは問い掛けの内容を理解していないのであって、いくら訊いても無駄である。
彼女にプレゼントしたパソコンはわたしが使っているのと同じ型式のレガシーマックだが、二十万字の漢字と熟語を追加登録している。そちらに関しては最新のパソコンと比しても遙かに勝る性能を持っている。
パソコンはどこまで行っても道具であって智慧とは縁のない存在である。論語以上の智慧を現代人は持っていないと書いたのは小林秀雄だが、彼は同時に智慧が科学を批判する必要性を説いている。何時もの繰り返しになって恐縮だが、道具は進化するが人の心に深化はあっても進化はない。