酒席を先に退席するのは非礼であって、過去経験がない。そのために酒を殺して飲む術を身につけてきた。いくら飲んでも泥酔しないのを常としてきた。ところが昨夜はおっきーさんと増田さんを置き去りにしてしまった。不眠で透析を受けるとどうなるかが分かっていたからである。お二人には申し訳ないことをした。透析のない日なら朝までお付き合いしたのだが。
土曜日は田中屋の栗林幸吉さんが来店なさった。嬉しい賓である。長時間の酒談義に有頂天外になる。ワインやモルトウィスキーから焼酎に至るまで、彼ほどアナログに酒に浸ってきた人は珍しい。何時も稀酒を馳走になっているので、わたしの方からはカルバドスを賞味していただいた。彼の人となりについては幹郎さんが書いていらっしゃる。雑誌「嗜み」連載の一齣であり、是非お読みいただきたい。
熟成されたウィスキーには光陰がもたらす深いなれが、やんちゃな酒には蒸留所の稟質が烽火のごとく立ちのぼる。それら総体を引っくるめて酒の個性がある。問題はその個性が好きか嫌いかである。一切の理屈は通らない、酒の世界にバーチャルはない、悉くがアナログである。言い換えれば抽象はなく、カスクがもたらす一樽ごとの香りが揺蕩う。概念の分析は意味をなさず、嗅ぐ飲むから生じる内的体験がすべてをなす。そして、酒の好き嫌いに関して彼と意見を異にしたことはない。そのような例は滅多にあるものでない。過去催された七十二次に及ぶモルト会は彼の手を煩わしている。ですぺらは栗林さんがあってはじめて自在にはためくことができたのである。