明石から二組の客がきた。一組は隆さんの友人のようだが、もう一組はですぺら西明石店を手伝ってくださった愛子さんである。十一時に店を閉めて久しぶりにナベサンへ行く。明石を離れて十年余、彼女にもさまざまなことがあったようである。
人は繰り返し疵を負いながら生きる、従って当たり前のことだが、彼女も子連れになった。子供が疵だとは云っていない。疵とはこころの問題であって、子供をつくる過程で彼女の内面に生じる疵である。子はそういったことに無頓着に生れそして育つ、ある歳までは。
のっけに面接した時のことを云われた。店の表に「猫の手募集」と書いていた。わたしは覚えていないが、愛子さんによると五、六人の猫の手が店内にいらしたそうな。そして彼女は履歴書を持ってきたようだが、わたしはそのようなものを読みはしない。それどころか、名前すら覚えない、必要があればそのうち覚えるからである。その証拠に愛子さん以外の名前をわたしは覚えていない。
当時、彼女は女子大生だった。二年ほど経て、彼女は就職試験を受けたが、その会社に君が居ようが居まいが会社は存続する。ですぺらのホールは君が居なくなればどうなるのかね、と云ったらしい。慎にもって勝手なはなしだが、彼女はですぺらを選択してくださった。おかげでですぺらの営業は続いた。それが良かったか悪かったかは書かない。彼女にとっては悪いに決まっているからである。ですぺらは食堂だったので、とにかく忙しかった。やがて彼女はあしらいを覚え、厨房に欠かせない存在となる。
わたしは毎日酒を嗜んでいた。飲み出すとウィスキーなら一本は空けていた。よって毎日泥酔運転だった。愛子さんはそうしたわたしの滅茶苦茶な性格をよく心得ている。ある日、神戸の三ノ宮へ飲みに出掛けた。一軒目で二本目のボトルを開けたまでは覚えているが、後は定かでない。明石への帰り道、高速道路がどこまでも畝ってい、地球は丸いものだと実感させられたのを覚えている。同乗するにさぞかし勇気が必要だったと思うのだが。
彼女に云わせるとわたしには透析を楽しんでいるかのような風情があるそうな。楽しんではいないが、悲しんでもいない。あるがまま受け容れているだけである。ごくたまに面倒と思うこともあるが、命が掛かっているので手抜きはできない。ただ、自殺の心配はもっかのところない。わたしは先行きは考えないようにして生きてきた。なるようにしかならないからである。能転気なところなきにしもあらずだが、楽天的なわけではない。その辺りの呼吸法のようなものを彼女に掻っ払って欲しかった。
人生、猫の手で結構。ひとつの賓辞を自分に強いているとき、そんなときだけである、人生が輝いて見えるのは。
追記
男女のいかんを問わず、主辞の大安売りには閉口する。ひとがなにを考えていようが、わたしの知ったことでない。私自身、わたしの主辞など信じていない。云った口の下から含羞や逡巡が押し寄せてくる。