神戸での経験だが、ボランティアが必要になるのは二、三年後から五年後である。そのためのサポートはなされているのだろうか。神戸や富山のボランティアグループが活躍なさっているが、あまりにもボランティア任せでないだろうか。
経済界では電力の値上がりを懸念して、原発の存続を強調する。今回の事故に纏る費用を加えなくても、原発電力の価格は現在の十数倍との試算がある。使用済み燃料の処理や将来の廃炉の費用を加えてのはなしである。
このような大事故があって原発は停止されるのが当然である。前述したように、停止に伴う電力不足に対応するための立法がなにひとつなされないのはどうしてか。法律を改正すれば電力不足は回避できるが、そのためには東電の解体、電力の自由化が必須条件である。例えば、ガス会社の自家発電を今の十倍にするに、インフラ費用は東電のそれをはるかに下回る。
国外へ出られる大手企業は出るしかないだろう。国内の経済活動は根幹から変わらざるを得ない。将来を見据える経済人も政治家もわが国には見当たらない。
五年後、十年後には原発被害者が顕在化する。広島同様の長期裁判が繰り返されることになる。そのための立法を手当しておくべきだと思うのだが。霞ヶ関も経済界も念頭にあるのは対症療法のみ。対症療法とは申せ、決して適切な処置ではない。