地震、津波、原発が複雑に絡み合っているので今回の震災については書きにくい。地震と津波に関しては被災者即被害者なのだが、原発は災害ではない。原発を是認し、認容し、原発と共に生きてきたことにおいて、日本人は加害者である。例え原発から被害を受けていても、やはり加害者であるに違いない。
廃炉はおろか、使用済み核燃料の処理方法すら未定のまま原発の運営は続けられている。原発は過度的な存在であると同時に過度適応の好例であろう。正常運転の廃炉であっても二十年以上の歳月が掛かり、廃炉できても使用済み核燃料の処理に数兆円を必要とする。全国の原発では国家予算の数年分の費用が掛かる。そうしたことを先送りにしてのコスト計算である。
日本で大規模な原発反対運動が起きないのは、地域が政府や電気事業者から支出される補助金や公共事業に依存しているからである。敦賀市長の公開質問状に対して大阪府知事は「立地地域の経済や雇用のために原発を維持するのは本末顛倒だ」と反論している。どう考えても大阪府知事の方が正論だと思うが、わが国ではその本末顛倒が罷り通ってきた。
わが国のように言論の自由が保障され、政治家が民主的に選ばれる国において、政府は国民の鏡のような存在である。明日よりも現在の利益、理念なき近視眼的な利益配分にしか目が行かないのが国民ならば、政府も近視眼的にならざるを得ない。一年ごとに首相が交代するのは世論の賜物である。
日本という国は何をするにも行き当たりばったりである。台湾の植民地化から朝鮮併合、満州事変や支那事変から太平洋戦争に至るまで、日本人は遣りたい放題で、反省もなければ責任を取ったことすらない。一握りの政治家もしくは軍人に責任を被せて、一般は頬被りである。頬被りならまだ良い、政府が駄目、軍人に責任があったとの大合唱である。日比谷焼打事件から今に至るまで日本国民はなにひとつ変わっていない。
低金利にもかかわらず、資産は銀行預金のみ、国が穴埋めしてくれない商品には目もくれない。どこかの航空会社や金融機関は国が救うのが当然と思っている。震災に遭えば国が個人の損失を補填するのが当たり前と思っている。
世論調査で菅首相に辞める必要がないと応えた方が二十五パーセント、政治という詰め将棋はとっくに終わっている。しかし、いま握っている権力は手放したくない。そしてそれを支持する国民もしっかり存在する。これが日本の国民である。
追記
非常事態ならば、党派を超えた政治が必要である。党籍を離れた政治家、枯れた政治家でなければ不可能である。小泉純一郎元首相と党員資格停止中の小沢一郎の組み合わせなどぴったりだと思うのだが。