神戸の岡田さんと大阪の木村さんから電話あり。岡田さんは創文社でわたしを担当なさった方で、青春を共に暮らした。コーベブックス名義で拵えた六十四冊の書物は悉く岡田さんの手になるもの。彼とわたしが敷いたレールの上へ、後日サバト館と湯川書房が相乗りしたのである。
京都の森田和紙の協力があって、とにかく和紙を多用した。創文社と手漉和紙に関してはですぺら掲示板1で幾度となく著したが、印刷機と和紙の相性はすこぶる悪い。和紙は厚みが均一でなく、四方に耳が付いている。しかも、裏表のノンブルが重ならないとわたしの機嫌が悪くなる。文選、植字、刷りすべての職人の呼吸が合わないと美しい版面はできない。費用は眼中になく、ただただ東京で刷られない、精興社で刷られない書物を求めて、また英国の印刷工房に負けない印刷をと、がむしゃらに為事をした。それらを指揮なさったのが岡田さんだった。
わたしが出版について語るとき、それは取りも直さず岡田巌について語るに等しい。湯川さんと政田さんよろしく、岡田さんとわたしもまた二人三脚だった。二人して、神戸の印刷史に新たな一頁を開いたとわたしは信じている。
木村さんはコーベブックスで一緒に為事をした。わたしが出版というような勝手な真似ができたのは、木村さんと秋山さんという現場を仕切る方があればこそである。出版が赤字のため、わたしはさまざまな展覧会で利益を上げていた。画展には強力な助っ人の田村書店があった。いずれにせよ、わたしの為事は屡々現場を裏切るような結果になった。済まなく思うと同時に、誰かがやらねばならない蛮勇に類することだった。その木村さんからの電話である。彼は還暦を迎えたとか、ひとには変わる部分と変わらない部分がある。双方引っくるめて話がしたいと思っている。