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湯川書房について   一考   

 

 携帯電話が架かってきたときに、眼鏡が近くにあればよいのだが、大概は見当たらない。要するに、誰からの電話なのか声を聞くまでは分からない。今回の電話は湯川書房についてであった。
 「夢のあとで」と題する著書が上梓された。「湯川書房・湯川成一と四十年」との副題がつけられている。刊行は伊東康雄氏だが、「伊東康雄語り、片柳草生文」と記載されている。伊東氏は湯川書房の株主ではないがコレクターである。片柳草生氏は元文化出版局、現在はフリーで活躍なさっている。本書の場合、文責がどちらに在るのかよく分からないが、取り敢えず伊東氏ということにしておこう。文責と書いたが書かねばならないほど本書には間違いが多い。おそらく触れられている各人に直接取材をせずに、著者の思い込みで書かれたものと推察する。本書には夥しい固有名詞が著されているものの、どこにも小説乃至は創作とは記されていない、さればこそ問題が生じる。以下「夢のあとで」の本文に添ってはなしを進める。(文中敬称略)

 文中、塚本邦雄の「茴香変」以降、政田と湯川との関係は急速に親密度を増したとあるが、政田岑生と湯川との交わりは古く、政田が広島で詩の同人誌を出していた頃からの付き合いである。湯川に断わりなく政田が湯川書房の名で勝手に本を出した、とあるのは間違っている。湯川と政田は親友で、彼等の営みは二人三脚のようなものだった。従って、互いに足らない部分を補っていたと云うが正しい。念の為に云っておくが、両名とも同性愛的なものとは遠く、世にいうストレートだったと断じておく。いわんや「溶ける魚」「水の巵子」「火の雉子」は男色趣味とは縁もゆかりもない書冊であり、鶴岡善久と政田両氏の編纂になる。伊東のような色眼鏡で見られては立腹なさる方もなかにはいらっしゃる。
 季刊湯川の発刊も政田の影響下ではない。季刊湯川の編輯をわたしはお手伝いしたが、政田の影響としては、岩波書店の書冊を手掛けていた精興社で印刷した点、それ以外彼はほとんどタッチしていない。蛇足ながら、辻邦生、小川国夫、塚本邦雄の三名を「三クニオ」と最初に揶揄したのは記憶に間違いがなければ旭屋梅田店の海地さんだった。
 湯川がみすず書房のファンだったかどうかは知らないが、レイアウトはみすずのそれとは全く異なる。むしろ湯川は岩波書店のファンで、精興社への憧れが強かった。レイアウトに関しては詩書出版の書肆山田もしくは小沢書店の方が湯川のそれに近い。
 株主七人と発起人一人の計八人で湯川書房は株式会社となった。株式会社設立後、東販と日販は注文口座を、東京の鈴木書店は新刊配本の口座を開設する。鈴木のそれは痒いところに手が届くような配本で、湯川書房には特に力を入れていた。関西は地元ゆえ構わないが、鈴木の取扱いがなければ東京の書店への配本はかなわなかった。
 鶉屋の飯田さんが繁く登場なさるが、ならば浪速書林の梶原さんを取上げなければ片手落ちになる。「死者」に関して生田との間に生じた確執は岡田露愁とわたしが起因している。強調しておきたいのは生田が露愁と不仲になり名前を返せと云ったとき、湯川は珍しく生田の態度に大人げないと立腹していた。ちなみに、「湯川72倶楽部」の限定記号に木偏の活字を用いると言い出したのは大阪の波宣亭主人、泉さんだった。
 岡田露愁の「魔笛」について一言。まず九条の公団は湯川が用意したものでなく、金数も出していない。数名の刷り師にアルバイトを頼み、五千余枚を刷り上げた。画料の一部を先払いし、露愁はそれをアルバイト代として遣い、最後の清算は曖昧になった。曖昧に終わったでは誤解が生じる、露愁が辞退したのである。文中で触れられているような生活の面倒までみたはとんでもない間違いで、当時の湯川にそのようなゆとりはなかった。99部の「魔笛」は完売、湯川本としては大成功だった。伊東が土地を手離したのは事実だろうが、それは伊東と湯川の問題であって、露愁とはなんの関わりもない。この件に関してはいくら強調しても強調しすぎるといったきらいはない。
 湯川と奥方の紀美子さんは社内結婚、二人にとって小川証券は思い出深い会社である。その小川証券のことを伊東は書いているが、かかるプライベートなことは書くべきでない。自殺云々とはかつての湯川の部下と運転手のことであろうが、事実関係を往事の小川証券の関係者に問い合わせたのであろうか。わたしが調べた限り、湯川とはなんの関わりもなかった。小川証券の一節の結句として伊東が引用する有生夫の名で書いたエッセイは小川国夫著「闇の人」へのオマージュであって、湯川は洒落気の強い人で闇とは最期まで縁がなかった。暗さのない人間などいないだろうが、闇と云うような弁証法的転嫁は彼には生涯無縁だった。
 学生時代ボクシング部に籍を置いたとか、浜村美智子のバックダンサーをしていたと書いているが、湯川が親しくしていた同級生に問い合わせたところ、そのような事実関係はなかった。洒落気と書いたが、このような冗談を湯川は屡々口にする。例えば、父親がスーパーを経営していて、その土地建物を売った金で出版を維持しているとの類いである。昭森社の森谷均の法螺を擬えたものであって、本気にしては恥をかく。
 湯川が左手で仏画を描いたのは永田耕衣の模倣、作品も耕衣ゆかりのものが多い。正雀の家を実家と書くのも間違い。湯川の父親は高島屋の部長だった方で、摂津正雀の家は結婚の祝いに購いしもの。
 湯川の出資者についてだが、わたしにできたのは吉岡実の詩集を全冊買い支えたことぐらい。前述した梶原をはじめ、株主の方々は各位可能な限りの協力をなさっている。ご協力を忝なく思うが、出資は伊東だけではない。それについては個人的なことゆえ、詳細は触れない。

 湯川書房の編輯を手伝った一人として看過できない点があった。それゆえ、不本意ながら重箱の隅を楊枝でつつくようなことを書いた。しかし、「夢のあとで」の基本姿勢は湯川へのオマージュである。それは重々承知の上で、遺族を悲しませるような書き方は止めた方がよろしいかと思う。本書の上梓をもっとも慨いているのは湯川紀美子さんである。戸田勝久や創文社など、湯川と親しかった人々が名を連ねながらどうしてこのような書物が陽の目をみるに至ったのか。文芸書ではないにせよ、関係者各位の猛省を促したい。なお、当文責は渡辺一考にある。


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2011年02月17日 04:39に投稿された記事のページです。

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