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長生きの秘訣   一考   

 

 「不必要な長生きなんぞしたくもない」と書いたが、欲求がないわけではない。それは北海道への旅行である。制約が多すぎるので、透析を受けながらの旅は願い下げである。そのためには腎移植が必要となる。そして移植は透析以上の問題をわたしに突きつける。
 わたしの意見は2009年07月22日に書いた「腎不全」の時のままである。移植に対する意見は変わらない、変わらないと云うよりは迷い続けていると云った方が正しい。ドナーに云わせると、失敗してもともと、少しでも長生きできればそれで良いではないかと。有り難いはなしだが、それは長生きをしたいひとに云うことである、翻ってわたしが長生きしたいのかと云うと、そこのところがよく分からない。
 若ければ若いほど、ひとは先を読むことができない。読まれないがゆえの狼狽え、怯え、すなわち執着がある。しかし、三十歳を出て先行きが読まれないのはおよそ無知曚昧に等しい。人生の概念、要するに設計図を引くのは三十歳までにあらかた終了する。あとはその概念に則って残された日々を送るだけ。長生きしようとも途中で中断されようともそれ以上の者になれる筈もない。それ以上の者とは非凡を示唆している。非凡を一廉の人物もしくは世間的な評価と置き換えても構わない。
 明日になればなにか起こりそうな気がする、そう思ってひとは生き延びる。選民意識も長生きの秘訣かもしれない、わたしは撰ばれた人間で他人が必要としていると。そうした勝手な思い込みがない場合の口実は、家族ないしは友の存在だろう。それを言い換えれば、悲しむひとがいるとなる。しかし、悲しむひとのために生き延びるのでは、あまりに他人事に過ぎよう。恋愛同様、他の存在があってのはなしゆえ、選民意識と似たようなものである。
 それにしても、他人から必要とされるような理不尽かつあり得ない関係をどうしてひとは求め、信じようとするのか。近頃、無縁社会が問題になっているが、団塊の世代が大家族での暮らしを拒否したところから派生した問題であって、意図した以上、ひとは無縁にならざるを得ない。無縁者は誰からも必要とされない、ならばそれに徹すべきとわたしは思う。無縁は社会問題でなく、個々の心構えの問題であろう。

 長生きへの思いに結論はない。さればこその北海道旅行である。生きようと思えば、生きることになんらかのこじつけが必要となる。理に合わない牽強附会こそが生きるための唯一の手立てなのだろうか。


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2011年02月16日 20:29に投稿された記事のページです。

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