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友という名の刺客   一考   

 

 「洪水」第六号が発売されている。詩と音楽のための雑誌で発売元は草場書房、定価は840円。第六号は「特集 佐々木幹郎、音に遊ぶ」と題され、対談、座談会、詩、エッセイ、インタビュー等々が収められている。特集中に「コムロ・ヒトシというクスリ」がある。「雨過ぎて雲破れるところ」からの再録だが、いつ読んでも絶品である。どこまでが小室等でどこからが佐々木幹郎なのか、渾然として一如となっている。「渾然として一如」とは二葉亭の言葉だが、ここには二項対立を越える趣があってわたしの好きな言葉である。二葉亭と鏡花の言葉遣いにはよく味わうととんでもないことを示唆している場合が多い。

 目の前にいる人の発言には、かならず「そうだよねえ」と相槌を打つことから始めて、決して他人の話をそらさない。テーブルの向こうにいる人の話に彼が応じていて、あんまり、そのフォローが過ぎるときがあったので、わたしは彼の隣で、思わず笑ってしまったことがあった。すると彼は苦笑しながら言った。
「いや、いまのはさすがに僕自身も、フォローが過ぎると思っていたんだ」

 他人をフォローする人生を歩んできた達人たちの遣り取りである。強烈な個性を持ったひとは他人の話に逆らわない。知識というのは歴史の断片もしくは側面で、人によって捉え方が異なる。別に世の中が右側通行であろうが左側通行であろうがどちらでもよいのである。そうしたどうでもよいことと、どうでもよくないこととの識別に個の妙味がある。
 幹郎さんの文章は全編これ肉声で填められている。ところが読み終えて振り返ると、いままで何人も触れ得なかった新たな思想が開示されているのに気付く。肉声と云っただけでも至難の業なのだが、彼の主音はそんなところに止まっていない。仕掛けは二重三重に錯綜している。書物を繙くことの愉しみと書けば穏やかだが、彼の言葉は常に真剣勝負を挑んでくる。


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2010年07月15日 12:12に投稿された記事のページです。

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