わが国のトイレには便器しかない。しかし、フランスでトイレと云えば、化粧室のことである。用足しはもちろん、化粧直しから着替えまでがその用途になる。ちなみに、ホテルオークラなどではレディルームと表記されている。「トイレのドア越しに衣擦れの音が聞こえる」と翻訳すれば日本人なら下履きの上げ下ろしの音としか解釈しない。
また二重ドアは観音開きのドアを指し、寒冷地に於ける字義通りの二重ドアを想起すると誤訳になる。
さらに、ベランダは庭に突き出たガラス張りの部屋の意で、居間と一続きになっている。明治期に建てられた洋館にしばしば付帯し、サロンとして用いられた。ところが現在では吹き曝しの物干し台のイメージしか湧かない。
月曜日に高遠さん来店、以上のような話が肴に持ち出された。プルーストの「失われた時を求めて」には井上究一郎と鈴木道彦の翻訳があるが、わたしに云わせれば双方共に噴飯物である。何時も書いていることだが、高遠さんや宇野さんのように生きたフランス語を解する人による翻訳は原作の解釈それ自体の評価を新たにする。謂わばプルースト咀嚼の歴史が書き換えられるわけである。
前々日に光文社の駒井編輯長来店、駒井さんから高遠さんのプルーストがいよいよ九月から刊行開始と聴いた。悦びを共にしたい。高遠さんからはプルーストが完結するまでは生きていて欲しいと云われた。そちらはどうなるか分からないが、今のわたしにこれ以上の励ましはあるまい。
追記
高遠さんから「突飛なるものの歴史」の寄贈に与った。前付の誤植箇所は修正されている。よく見ると一枚分が張り直されている。前付と後付は著者校すら許されなかったと聞く。担当編輯者の猛省を促したい。
土曜日には宇野さん来店。念願のジャン・ジュネが同じ光文社から秋には上梓される予定とか。嬉しい話が続く。